朝、目が覚めた。まだ終わりの日じゃない。そう自分に言い聞かせて身を起こした。一人で朝食を食べ終えると一通り身支度を整え制服に着替えて家を出た。
今日は社会科準備室の移転作業の手伝いだ。どうせ全てが終わるならサボってもいいとも思った。昨日色々と歩いて足が少し痛い。ましてや最近は誰とも会いたくなかったし学校にも行きたくはなかった。それでもいつも通りの日常を過ごして少しでもまともなフリをしていなきゃ頭がおかしくなりそうだった。けれども何だか今日は誰かと話したかった。こんな気持ちになったことなんて最近はなかったというのに。
学校に入り社会科準備室の前に着いた。扉に手をかけたが帰ってしまおうかと思った。扉の前で逡巡していると後ろから声をかけられた。
「武蔵くん。君も今来たところかい?」
後ろを振り向くと手提げを持った岡ちゃんが立っていた。
「あ、はい。そうです」
岡ちゃんが来てしまった手前、帰るとは言いづらく結局そのまま社会科準備室に入った。ダンボール箱を二個残してある程度片付けは済んでいた。
今日は本棚の掃除だ。埃にまみれた本を綺麗にして種類ごとに分ける予定だ。早速作業に取り掛かった。本を取り出すと埃が舞い上がりその度に咳き込んだ。本は古本屋で陳列されているもの以上に黄ばんでいてタイトルさえ解読できるのか怪しいものも多かった。
「君はここに置いてある読んだことあるのかい?」
後ろの棚の掃除をしている岡ちゃんがそう尋ねた。目の前の本棚をざっと見てみるとセネカ、カント、フォイエルバッハ、ハイデガーなど初めて見る名前ばっかりだった。名前を知っていたのはプラトン、アリストテレス、ニーチェの三人だけだった。もちろん名前だけ聞いたことのあるだけで著書なんて読んだこともなければ知っているわけなんてなかった。
「読んだことないです。一冊も」
「そりゃそうだよね。君ぐらいの年なら読む必要はないからね」
「そんな必要性に駆られて読むものなんですか?」
「そうだよ。哲学書なんて人生に迷ったときに読むものだからね」
後ろを振り返ると岡ちゃんはもう片方の本棚の掃除をしていた。それを見て俺も作業に戻り背中合わせで話すことにした。
「岡ちゃんは人生に迷ったことあるんですか?」
「そりゃあ四十年以上生きてきたんだから何回もあるさ」
「それで哲学書が救いになったんですか?」
「いやあ。人生に迷う度に読んだけどあんなもん救いにならんよ」
岡ちゃんは鼻で笑ってそう言った。
「何で救われないとわかっているのに読むんですか?」
「期待だろうね」
「期待?」
「もしかしたらこの本には自分の求めている答えがあるかもしれないって思って読むんだよ。でも結局は作者の自己満足に過ぎないんだよね。自分の信じている宗教の神を信じないことは死ぬということや言葉が世界を作っているっていうようなことを伝えるのを小難しく書いているだけだからね」
授業のときのように穏やかに話しているがその言葉にはどこか悲しさがあった。
「そんな学問が何で存在しているんですか?」
「掃きだめだよ」
「掃きだめ?」
「学問をやっているとどうしても解決できない疑問ってのが出て来るんだよ。法学だったらそもそも何で人を殺しちゃいけないのか。自然科学だったら何で無闇に開発をして環境破壊をしてはいけないのかっていう疑問が出て来る。色んな答えがあるかもしれないけど絶対的な答えなんてものはないんだよ。そんな考えるのが大変な疑問を全部哲学の問題に投げやりにしているだけだよ。今の哲学なんて人類の考えることの怠惰で生まれたものだよ」
岡ちゃんはそのように教えるけど何だか口調は自分自身を嘲るように話していた。
「それじゃあ死についての疑問もその掃きだめの中にあるんですか?」
「そうだよ。多くの先人がそのことについて考えたよ」
「やっぱり答えはないんですよね」
「もちろん」
俺は作業の手を止めて俯いた。そんな答えが返って来るのはわかってたことじゃないか。それなのに気を落とす必要はないのに。
「わからないですよね。それでもみんな死ぬのはわかっているのに皆生きようとしているのって何なんですかね?」
声を震えそうになるのをこらえながら言葉を紡いだ。何でこんなことを聞いているんだろう。こんな質問をして岡ちゃんが今どんな顔をしているかわからない。
「生きる理由ね」
背中合わせで話している岡ちゃんからガサガサと手提げを探る音が聞こえた。そしてプシュッと缶のプルタブを開ける音が部屋に響いた。また缶ビールか。
いつもだったら「何やってるんですか」って言えるのに。けれど酒を飲むことを咎めたいとは思わなかった。
「生きる理由なんてきっと人間がわかるものじゃないよ」
「そういうのを探すのは諦めた方がいいってことですか?」
俺はもう泣きそうだった。後ろを振り向かず自分の感情がバレないように尋ねた。そうか。俺は救いが欲しいんだ。
「もちろん。諦めた方がいい。そんなこと考えずに目を背けて生きた方がよっぽど楽な人生を送ることができるからね」
岡ちゃんは現実を突きつけるように淡々と話した。
「救いは、ないんですか」
せき止めていた感情が溢れ出して俺は泣いていた。恥も面子も関係なく鼻をすすり嗚咽混じりに溢れる涙を抑えようとはしなかった。
「あるかどうかは自分次第だよ」
岡ちゃんは俺が泣いていることに触れないで先ほどと同じように淡々と言った。けれどその言葉には少しだけ暖かみがあったように感じた。
それから俺たちはまた無言に戻って作業に没頭した。岡ちゃんは俺が泣いて質問をしたときどんな顔をしていたのだろうか。そのとき感じた言葉の暖かみは勝手に泣いた俺を気持ち悪がりながらも教師としてなだめた優しさなのか、かつて岡ちゃんと同じように救いを求めた俺に対しての真剣な答えなのかはわからない。けれど、どちらにしても俺は今やっと決心がついた。
ある程度自分の持ち場の作業を終えたときだった。校内放送のアナウンスが鳴った。
「本日十一時より職員会議を行います。まだ職員室にいらしていない先生方は至急職員室までお越しください」
後ろの本棚の作業をしていた岡ちゃんが驚いた声を上げた。
「今日職員会議だったの忘れてた!ビールなんか飲むんじゃなかったよ…」
後ろを振り向くと岡ちゃんは飲んだビールの空き缶をどうしようかと慌てふためいていた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないね」
笑いながらも青ざめた表情であった。あまりの絶望顔にこちらまで胃が痛くなりそうだ。
「じゃあ僕が捨ててあげますよ」
岡ちゃんは一瞬悩んだ顔を見せたがすぐに悩んだような表情になった。
「でも君が缶ビールを持っているのをバレたら…」
「こういうのを隠すのは俺の方がプロですよ」
そう言って俺は制服のポケットからタバコを取り出して岡ちゃんに見せた。
「ははは。そうか。餅は餅屋にだね」
岡ちゃんは笑い声を上げて俺に空き缶を渡した。空き缶をカバンの奥底にノートの裏に隠れるようにしまった。
「ありがとう。この部屋の後の片づけは私が済ましておくから君はもう帰りなさい」
「わかりました。お疲れ様です」
そう言って俺は慌てながら手提げの中の資料を確認する岡ちゃんに軽く会釈をして部屋を出た。そして社会科準備室の扉を閉めたときだった。
「がんばれ」
扉を閉める音にかき消されそうな小さな声で岡ちゃんが呟く声が聞こえた気がした。
俺は廊下を走り出した
今日は社会科準備室の移転作業の手伝いだ。どうせ全てが終わるならサボってもいいとも思った。昨日色々と歩いて足が少し痛い。ましてや最近は誰とも会いたくなかったし学校にも行きたくはなかった。それでもいつも通りの日常を過ごして少しでもまともなフリをしていなきゃ頭がおかしくなりそうだった。けれども何だか今日は誰かと話したかった。こんな気持ちになったことなんて最近はなかったというのに。
学校に入り社会科準備室の前に着いた。扉に手をかけたが帰ってしまおうかと思った。扉の前で逡巡していると後ろから声をかけられた。
「武蔵くん。君も今来たところかい?」
後ろを振り向くと手提げを持った岡ちゃんが立っていた。
「あ、はい。そうです」
岡ちゃんが来てしまった手前、帰るとは言いづらく結局そのまま社会科準備室に入った。ダンボール箱を二個残してある程度片付けは済んでいた。
今日は本棚の掃除だ。埃にまみれた本を綺麗にして種類ごとに分ける予定だ。早速作業に取り掛かった。本を取り出すと埃が舞い上がりその度に咳き込んだ。本は古本屋で陳列されているもの以上に黄ばんでいてタイトルさえ解読できるのか怪しいものも多かった。
「君はここに置いてある読んだことあるのかい?」
後ろの棚の掃除をしている岡ちゃんがそう尋ねた。目の前の本棚をざっと見てみるとセネカ、カント、フォイエルバッハ、ハイデガーなど初めて見る名前ばっかりだった。名前を知っていたのはプラトン、アリストテレス、ニーチェの三人だけだった。もちろん名前だけ聞いたことのあるだけで著書なんて読んだこともなければ知っているわけなんてなかった。
「読んだことないです。一冊も」
「そりゃそうだよね。君ぐらいの年なら読む必要はないからね」
「そんな必要性に駆られて読むものなんですか?」
「そうだよ。哲学書なんて人生に迷ったときに読むものだからね」
後ろを振り返ると岡ちゃんはもう片方の本棚の掃除をしていた。それを見て俺も作業に戻り背中合わせで話すことにした。
「岡ちゃんは人生に迷ったことあるんですか?」
「そりゃあ四十年以上生きてきたんだから何回もあるさ」
「それで哲学書が救いになったんですか?」
「いやあ。人生に迷う度に読んだけどあんなもん救いにならんよ」
岡ちゃんは鼻で笑ってそう言った。
「何で救われないとわかっているのに読むんですか?」
「期待だろうね」
「期待?」
「もしかしたらこの本には自分の求めている答えがあるかもしれないって思って読むんだよ。でも結局は作者の自己満足に過ぎないんだよね。自分の信じている宗教の神を信じないことは死ぬということや言葉が世界を作っているっていうようなことを伝えるのを小難しく書いているだけだからね」
授業のときのように穏やかに話しているがその言葉にはどこか悲しさがあった。
「そんな学問が何で存在しているんですか?」
「掃きだめだよ」
「掃きだめ?」
「学問をやっているとどうしても解決できない疑問ってのが出て来るんだよ。法学だったらそもそも何で人を殺しちゃいけないのか。自然科学だったら何で無闇に開発をして環境破壊をしてはいけないのかっていう疑問が出て来る。色んな答えがあるかもしれないけど絶対的な答えなんてものはないんだよ。そんな考えるのが大変な疑問を全部哲学の問題に投げやりにしているだけだよ。今の哲学なんて人類の考えることの怠惰で生まれたものだよ」
岡ちゃんはそのように教えるけど何だか口調は自分自身を嘲るように話していた。
「それじゃあ死についての疑問もその掃きだめの中にあるんですか?」
「そうだよ。多くの先人がそのことについて考えたよ」
「やっぱり答えはないんですよね」
「もちろん」
俺は作業の手を止めて俯いた。そんな答えが返って来るのはわかってたことじゃないか。それなのに気を落とす必要はないのに。
「わからないですよね。それでもみんな死ぬのはわかっているのに皆生きようとしているのって何なんですかね?」
声を震えそうになるのをこらえながら言葉を紡いだ。何でこんなことを聞いているんだろう。こんな質問をして岡ちゃんが今どんな顔をしているかわからない。
「生きる理由ね」
背中合わせで話している岡ちゃんからガサガサと手提げを探る音が聞こえた。そしてプシュッと缶のプルタブを開ける音が部屋に響いた。また缶ビールか。
いつもだったら「何やってるんですか」って言えるのに。けれど酒を飲むことを咎めたいとは思わなかった。
「生きる理由なんてきっと人間がわかるものじゃないよ」
「そういうのを探すのは諦めた方がいいってことですか?」
俺はもう泣きそうだった。後ろを振り向かず自分の感情がバレないように尋ねた。そうか。俺は救いが欲しいんだ。
「もちろん。諦めた方がいい。そんなこと考えずに目を背けて生きた方がよっぽど楽な人生を送ることができるからね」
岡ちゃんは現実を突きつけるように淡々と話した。
「救いは、ないんですか」
せき止めていた感情が溢れ出して俺は泣いていた。恥も面子も関係なく鼻をすすり嗚咽混じりに溢れる涙を抑えようとはしなかった。
「あるかどうかは自分次第だよ」
岡ちゃんは俺が泣いていることに触れないで先ほどと同じように淡々と言った。けれどその言葉には少しだけ暖かみがあったように感じた。
それから俺たちはまた無言に戻って作業に没頭した。岡ちゃんは俺が泣いて質問をしたときどんな顔をしていたのだろうか。そのとき感じた言葉の暖かみは勝手に泣いた俺を気持ち悪がりながらも教師としてなだめた優しさなのか、かつて岡ちゃんと同じように救いを求めた俺に対しての真剣な答えなのかはわからない。けれど、どちらにしても俺は今やっと決心がついた。
ある程度自分の持ち場の作業を終えたときだった。校内放送のアナウンスが鳴った。
「本日十一時より職員会議を行います。まだ職員室にいらしていない先生方は至急職員室までお越しください」
後ろの本棚の作業をしていた岡ちゃんが驚いた声を上げた。
「今日職員会議だったの忘れてた!ビールなんか飲むんじゃなかったよ…」
後ろを振り向くと岡ちゃんは飲んだビールの空き缶をどうしようかと慌てふためいていた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないね」
笑いながらも青ざめた表情であった。あまりの絶望顔にこちらまで胃が痛くなりそうだ。
「じゃあ僕が捨ててあげますよ」
岡ちゃんは一瞬悩んだ顔を見せたがすぐに悩んだような表情になった。
「でも君が缶ビールを持っているのをバレたら…」
「こういうのを隠すのは俺の方がプロですよ」
そう言って俺は制服のポケットからタバコを取り出して岡ちゃんに見せた。
「ははは。そうか。餅は餅屋にだね」
岡ちゃんは笑い声を上げて俺に空き缶を渡した。空き缶をカバンの奥底にノートの裏に隠れるようにしまった。
「ありがとう。この部屋の後の片づけは私が済ましておくから君はもう帰りなさい」
「わかりました。お疲れ様です」
そう言って俺は慌てながら手提げの中の資料を確認する岡ちゃんに軽く会釈をして部屋を出た。そして社会科準備室の扉を閉めたときだった。
「がんばれ」
扉を閉める音にかき消されそうな小さな声で岡ちゃんが呟く声が聞こえた気がした。
俺は廊下を走り出した