昇降口を出ると思った以上に太陽が眩しかった。テスト期間は昼ごろに帰れるが最も暑い時間帯だ。教室はクーラーが効いていたため外の急激な暑さがより身体に堪えるようだった。額から汗が滴り落ちても拭う気は起きなかった。
 期末テスト初日、屋上で彼女から「終わり」の話を聞いたあの日から何もかもがどうでも良かった。交差点で赤信号を待っていると買い物袋をぶら下げた主婦、俺みたいな高校生、杖をついたお爺さんが近くで立っていた。この人たちも九月一日に等しくみんな死ぬんだよな。
 青になって交差点を渡り出そうとした瞬間、信号無視の車が横切った。明らかに法定速度を超えた速さ。あんな大質量のものにあの速度ではねられたら頭を強く打ったり内臓が破裂して即死に違いない。

「危ねえじゃねえか!」

 杖を振り上げて隣にいたお爺さんがしわがれた声で遥か彼方へ消えた車に怒りをぶつけた。今は無事でもどうせもうすぐ死ぬんだけどな。あのとき俺を轢いてくれれば何が起きたかわからずに死ぬことができたのに。その方がよっぽど楽だ。死の怖さを考えなくて済むのだから。
 左右を確認して交差点を渡ると家の方には向かず近くの駅の方に向かった。特に何か目的があるわけじゃなかった。何となく家に帰りたいと思わなかった。
 本屋で興味もない新刊コーナーを眺めたり、ゲームセンターで遊ぶことなく騒がしいBGMを聞き流して立ち尽くしていたりと何かを探すように当てもなく歩いた。駅近くの繁華街を通り過ぎて映画館に入った。チケットを買うわけでもなくロビーの端っこに立ち、映画の予告を延々と流すモニターを見つめていた。約束のない誰かを待っているような気持ちだった。ただ物語が始まりもせず終りもしない予告の繰り返しを見ていると少しばかり心が落ち着いた。

 映画館を出るころにはもう日が暮れてた。そして商店街に着くとただでさえ少ない人通りも夕方になるとほとんど人がいなかった。シャッター街の商店街をまた一歩一歩と歩む。ほとんど人はおらず自分の足音がはっきりと聞こえるぐらいに静かだった。
 死刑の瞬間もこんな感じなのだろうか。執行の流れを以前テレビで特集していたのを見たことがあった。普段はテレビ番組に興味なんかなかった。けれども、そのときはなぜかはわからないが釘付けになっていた。
 執行の当日、朝の決まった時間に刑務官が死刑囚の房に入り執行を告げるそうだ。だから死刑囚は執行が行われる平日の朝は自分の房の前で止まらないでくれと刑務官の足音に怯えながら暮らしているらしい。
 今、俺が歩みを止めたって死にはしない。死刑囚と違って俺はいつ死ぬかをもう知っているのだ。死を待つのではなく。死に向かって俺は歩いているのだ。歩みを進める度に死を実感した。
 今になってずっと右手が震えていたのがわかった。ああ、まだ怖いんだ。あの日から何度も諦めようとした。自分自身を納得させようとしても死ぬことを受け入れることはできなかった。何度も考えないようにしても勝手に頭は「死」を考えている。

 家に着き、玄関を開けたときに眩暈がした。気づけば頭も痛い。猛暑の中、何も飲まずに歩き続けて脱水症状を起こしているのだろうか。それとも、意識した「死」のせいか。
 手も洗わずにリビングに向かい冷蔵庫の扉を開いた。麦茶のボトルを取り出すと、まだボトルの半分以上残っているにも関わらずコップにも注がずに暴力的にそのまま胃に流し込むように飲み干した。今までで飲んだ麦茶で一番美味かった。少しだけ頭痛が和らぎ、生き返るような気持ちになれた。ただ、渇きを潤した快楽は酷く苦しみに満ちていた。大量の一気飲みで咳き込みながらボトルを捨て、汗を流そうと思い風呂へ向かった。

 冷たいシャワーで身体を流していると玄関の鍵が開く音が聞こえた。秋穂が帰って来たらしい。
 身体を洗い終えて風呂から出るとリビングで秋穂が大きな声で書類のようなものを見ながら何かを読み上げていた。

「私たちはお客様にご期待に応えるべく全力で奉仕します!私たちは未来を創造し社会に貢献して参ります!私たちは進んで困難に挑戦し成長していきます!」

 秋穂はリビングの扉で立っている俺を見ると音読らしきものをやめた。

「ただいま。今日も弁当買ってきたから食べちゃって。私これを今日中に覚えなきゃいけないからさ」

 そう言って秋穂は先ほどの書類を俺に見せた。社訓。社会人の心得標語。感謝の気持ち標語。私たちのあるべき姿標語。社歌。といったような似たりよったりの内容がびっしりと書かれていた。

「これを全部覚えるのか?」
「そう!これが今日出た課題。明日までに全部覚えなくちゃいけないから大変だよ」

 秋穂は熱意のこもった目つきで快活な笑顔を浮かべながらそう言った。言葉は希望とやる気に満ちていたけれど目の下はクマができて頬もこけていた。よく見ると唇や肌も荒れていて化粧で無理矢理それらを誤魔化しているようだった。

「ねえ、私のことそんなに見つめてどうしたの?」

 怪訝そうに秋穂はそう尋ねた。

「そんな量を今日だけで覚えられるか?」
「大変だけど覚えなきゃいけないんだよ。社会人になるためだからしょうがないよ。それに夏休みの合宿も近いしね。だから頑張らないと!」

 秋穂の喋る言葉は生き生きとしていて活力にみなぎっていた。

「それで私ね最近わかったの。人生で大切なことってね…」

 秋穂はあのとき酔っぱらっていたように自分の人生哲学を熱弁しだした。
 感謝?人のために生きる?仲間との成長?
 どうせ世界は終わって死んでしまうのにとしか思えず段々と秋穂の言葉が遠くに感じ頭に入ってこなかった。真剣な顔をして教え諭すような口ぶりの秋穂を見て思わず口を開いていた。

「誰だ?」

 咄嗟に出た言葉に自分が驚いた。

「え、どうしたの?何を言っているの?」

 優しく秋穂は聞き返した。自分でも何を言っているのかはわからないし何でこんなことを言ってしまったのだろうか。

「何でもない。ごめん」

 そう言ってリビングを出て俺は自室に行った。
 この日は一日中夜中になっても秋穂の音読が聞こえ続けた。