彼女と別れ帰宅してもずっと「終わり」のことを考えていた。この「死」の不安の正体はわからない。ただ漠然としたわからないという怖さだけが頭に強く残り続けていた。

「先がない」

 彼女が言っていた言葉を思い出した。屋上では取り乱したけれども家に帰って冷静になったときこの言葉が全ての答えなのだと思えた。

 「死」が怖い理由はその先に何があるかわからないからだ。この「死」の未知の部分が最大にして根源的な恐怖だ。少なくとも今の俺自身は自分が死んだ後がわからないからだらしなく布団にくるまって震えているのだ。
 洋画で見るように教会に行けば牧師か神父の前で自分の罪を懺悔し神の赦しをもらえば死後の救済が得られるのだろう。けれども彼女は残酷にも俺に赦しの代わりに絶望を与えた。彼女は俺が授業をサボっていることやタバコを吸っていることを決して咎めはしない。彼女は俺の罪に対して罰を与えずに笑って事実を突きつける。

 どうせ死ぬなら何で俺は今生きているんだろうか。小学生ぐらいのときに誰もが夜中にぼんやりと考えるようなことを今になって焦がれるように考えた。
 産声を上げた瞬間から人は死に向かって進んでいる。誰もが知っていて誰もが目を逸らし続ける真実。当たり前のようにテレビや新聞では殺人事件、遠い国の紛争で人が死んでいるニュースが伝えられている。今こうしている間にもどこかでは誰かが絶えず死んでいる。身近な人間が死んでもその人がいなくなったことを悲しんで泣くことはあってもいつか自分が同じように死ぬんだと怖くなってなくような人は中々いない。自分も今まで母さんの仏壇を見てもそんな気持ちなんてものは起こらなかった。「死」は身近にあり、この世界は「死」で溢れているにもかかわらず自分の「死」には誰もが無関心だ。まるで自分が永遠に生き続けるかのように。

 俺自身も昨日まではそんな幻想に囚われ自堕落な日々を送っていた。じゃあ俺はどうしたい?自分でもわからない。彼女は九月一日に世界が終わると言っていた。七月と八月の二か月の命で俺は何をすれば。
 そんな堂々巡りになるようなことをずっと考え続けていた。答えなんて考えたって出るわけがないのはわかっている。けれども考えていないと。思考を続けないと気が狂いそうだった。

***
 一学期最後のテスト返却の授業の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。僕としては全体の点数的にかなりできたと思う。せめてクラスで十位以内に入っているとうれしいんだけどな。

「やっと終わったあ!」

 男子の誰かが喜びに満ちた大きな声を上げた。苦しいテスト期間が終わり明日から一ヶ月以上の夏休みが始まる。大声を上げたくなる気持ちはわかる。先ほどのチャイムは生徒みんなにとって苦闘からの解放を意味し自由への合図だった。
 楽しそうな声が沸き立つ中で僕の友人はただ一人取り残されていた。虚空を見つめている彼に僕は声をかけた。

「これで晴れて夏休みだよ飛鳥。やったな」

 少し元気な声で、かといって気を使いすぎないようなテンションを心がける。

「そうだな」

 誰かと話す気になれないように呟くように飛鳥は言った。ここ最近テスト期間が始まってから彼はこんな調子だ。最初はテストでやらかして塞ぎこんでいるだけだと思ったが。飛鳥の性格からしてこんなに引きずることなんておかしいと思った。これだけ深刻に悩んでいるとわかっているならこの時点でもう引き下がるべきっただのかもしれない。けれども僕は食い下がってしまった。

「最近、元気ないけど大丈夫?何かあったの?」

 飛鳥はこちらを向くと、光の失ったような瞳で僕の顔を見つめた。彼は本当に生きているのかと思ってしまった。小説や映画でよく使われる「生きた屍」という表現の通り彼はただ声を発するだけの肉体だった。
 この学校で一番恐れられている体育の村田先生に平気で歯向かい、飄々と授業をサボるような彼はそこにはいなかった。

「大丈夫。何も、ないから」

 力なく零れ出した声で飛鳥は言った。言葉に一切の気力はなかった。けど、こちらを見つめる光の失った瞳の奥底。深淵のような黒の中に拒絶を感じた。
 ああ、そうか。僕のかける言葉は目の前の友人には何の響きはしなかったか。

「もし、きつかったら無理しないで。明日の岡ちゃんの手伝いも休めばいい」
「わかった。ありがとう」

 飛鳥がそう言うと斉藤先生が教室に入ってきた。これから終業式だ。体育館で離れ離れになりこれ以上は話せないし話したところで飛鳥の今の状況を好転させることができない。
 僕は飛鳥が無事であることをただ祈ることしかできないのだ。
***