数時間後、またサヨさんは現れた。一日に二度も来るのは謙太と知朗がお役目になって初めてである。
「謙太さま、知朗さま、お待たせいたしました。ケーキの材料が揃いました」
そう言って頭を下げるサヨさんは手ぶらだった。
「全てお台所の扉に揃っておりますので、ご確認くださいませ」
謙太はシステムキッチンに向かい、まずはシンクの下の開き戸を開く。するとそこには様々な調理器具などが整然と詰め込まれていた。
「うわぁ、すごいやん」
思わずそう声を上げる。鍋やフライパンはもちろん、包丁やお玉にフライ返しなど、日常的に料理をするなら必要不可欠なものがしっかりとあった。
そのまま視線をずらして行くと、ボウルやホイッパー、バレットナイフなどの製菓器具も揃えられていた。
「あ、僕、器具のことすっかり忘れとったわ。あって良かったわ〜」
「この空間が作られた際に揃える様にと、主に命じられたのでございます。お飲み物だけをご提供する空間でございますのに、不思議だとは思いましたが、主がそう申されましたので」
「そうなんですねぇ。助かりました。ええっと材料はっと」
作業スペースの下には引き出しがあり、それを開くとケーキの材料が綺麗に並べられて入っていた。
まずは卵とグラニュー糖に小麦粉、無塩バターを出す。必要な器具は量りとステンレスボウルに泡立て器など。
「ではわたくしはこれで」
サヨさんが去るのと入れ違いでアリスちゃんが走り寄って来た。その頬がわずかに赤らんでいる。
「謙太お兄ちゃん、もしかしてケーキ作ってくれるの?」
「そうやでぇ。ちょっと時間掛かるから待っててくれる?」
「うん! 太郎くんと遊んで待ってる」
そう笑顔で言い残してアリスちゃんが走って行った先には、太郎くんがぼんやりと佇んでいた。起きて一杯目の飲み物を飲んだ後、アリスちゃんが太郎くんを引っ張って輪の中に入れたのだ。
アリスちゃんはまた太郎くんの手を引いて一緒に走り出した。思い思いに座る大人たちの間を縫う様に。駆けっこなのだろう。なんとも微笑ましいことだ。気付けばツルさんが近くにいた。
「ケーキ作りかの」
「はい。ホールで作るんで余裕があったらツルさんもどうですか?」
「ほうほう、ケーキなんてハイカラな洋菓子なんて嬉しいのう。良ければご相伴にあずかろうかのう」
「はぁい、もちろん。待っててくださいねぇ〜」
ではケーキ作りだ。まずはボウルに卵を割り入れ泡立て器で撹拌する。途中でグラニュー糖を数回に分けて加えて。
これがなかなかの力仕事だ。製菓器具が揃っているとはいえ電動ホイッパーまでは無かったので、人力で根気よく頑張るしかない。
「トモ、泡立て手伝ってもろてええ?」
「ああ、良いぜ」
そうして交代で混ぜて行くと、やがてボウルの中身が白っぽくもったりとなって来た。今は知朗が撹拌中だ。謙太はボウルを覗き込む。
「だいぶんできて来たなぁ。もう少しふんわりするまで行きたいわぁ」
「ケーキ作りってこんな力技なのか?」
「スポンジケーキは卵の力で膨らますねん。これは共立てって言うやり方やから全卵を泡立ててるけど、別立てにしたら卵白を角が立つまで泡立てて、卵黄も別で白っぽくもったりするまで泡立ててから合わせねん」
「どっちが楽だ?」
「どっちも大変やでぇ」
「じゃあこのまま行くか。おりゃあ!」
そう気合いを入れると、ホイッパーを握る知朗の手がさらに早く動いた。しかしそれはそう長くは保たず「疲れた!」の声とともに手が止まる。
「でもそろそろ大丈夫かも。貸してぇ」
知朗からボウルを受け取った謙太がその様子を見ると、泡立て器で持ち上げた卵はとろりと落ちて、りぼんの様な筋をしっかり描いた。
「うんうん、行ける。トモありがとう、助かったわぁ」
「おう」
次に小麦粉を用意する。器具庫から粉ふるいを出して、振るいながらボウルに加え、卵の泡を潰さない様にゴムべらでさっくりと混ぜる。
知朗が卵を泡立てている間に、小さなフライパンで作っておいた溶かしバターを追加し、さらに混ぜたら生地の完成である。
ケーキの型を出して内側にバターを塗り、小麦粉をはたく。そこに生地をそっと流し入れ、空気を抜くために3回ほど上から軽く落とし、余熱しておいたオーブンへ。
「後は焼き上がるのを待って、冷ましてからデコレーションやねぇ。今回はアリスちゃんの誕生祝いのケーキやから贅沢に行くで。大好きないちごをたっぷり挟んで乗せよ」
「良いな」
しばらくすると辺りに香ばしくも甘い香りが漂って来る。すると日本酒をちびりとやりながら、ケーキ作りを眺めていたツルさんが近付いて来た。
「何やら良い匂いがするのう。甘いのう」
「ケーキは火が通って焼けて来ると、こんな香りがするんですよねぇ。甘党にはたまらん香りです」
謙太が心地よさそうに目を細める。ツルさんも「ふんふん」と鼻をひくつかせた。そこへ香りを嗅ぎ付けたか、アリスちゃんが走り寄って来た。
その手は太郎くんを掴んだままで、太郎くんはまるで引きずられる様によたよたになっていた。
「ケーキ屋さんの匂い!」
アリスちゃんは嬉しそうに叫ぶ。その横で太郎くんはぽかんとなっていた。
「今焼いてるからねぇ。食べられるまでまだ掛かっちゃうけど待っててくれる?」
「うん!」
アリスちゃんはまた笑顔を浮かべる。
「太郎くんはもしかして初めての香りなんかなぁ?」
謙太が言うと太郎くんはおろおろと焦り、だがおずおずとためらいながら小さく頷いた。
「そうなんやぁ。どうかなぁ? 美味しそうな香りだと思うんやけどなぁ」
すると太郎はまたこくんと頷く。
「このケーキは、アリスちゃんが食べたいって言うのを作ってるんやけど、アリスちゃん」
謙太が視線をアリスちゃんに移した。
「ケーキ、太郎くんも一緒に食べてもろてええかなぁ」
「うん、良いよ! 太郎くん一緒にケーキ食べようね!」
アリスちゃんがにこやかに言うと、太郎くんは驚いた様に目を見開き、泣きそうな顔になって謙太を見た。謙太は太郎くんを安心させる様に、ふわりと穏やかな笑みを浮かべた。
「美味しいケーキ焼くから待っとってねぇ」
すると太郎はほわっと口を小さく開いて頷いた。
「じゃあケーキできるまで遊んでる。太郎くん行こ! 謙太お兄ちゃんまたね!」
「はーい、できたら呼ぶねぇ〜」
アリスちゃんはまた太郎くんの腕を引っ張って、元気に走って行った。
それを微笑ましげに見送ると、知朗とツルさんが近付いて来た。ツルさんの手にはたっぷりと大吟醸が入った切り子グラス。知朗に入れてもらったばかりなのだろう。
「ほっほっほ、子どもは元気じゃのう」
そう楽しそうに顔を緩めるツルさんの視線は、大人に遊んでもらっている太郎くんとアリスちゃんに注がれている。太郎くんはまだまだためらいつつ遠慮がちながらも、それを受け入れていた。
「そうだな。遊んでもらって良かったよな。まだ笑い顔は見れねぇけど、俺らがここに来たばかりの時よりよっぽど楽しそうに見えるぜ」
「そうじゃのう。本当に良かった」
ツルさんは嬉しそうにうんうんと頷く。
「太郎くんさぁ、こうして大人とか同い年の子とかと遊んだりしたこと、ほとんど無かったんや無いかなぁ。親からの虐待が日常になってたら、大人はもちろん怖くなるやろうし、自分に自信が持てへんやろうから、学校で友だちを作るのも難しいと思うしねぇ」
「そんな話を聞くと、子育てとはつくづく難しいもんじゃと思うのう」
謙太の言葉にツルさんはしみじみと言う。
「ツルさんも娘さんがいたんだよな」
「お、おお、そうじゃな。じゃがわしは子育てを家内にすっかりと任せておったからのう。時間がある時に少し遊んだりした程度じゃ」
「まぁツルさんの世代じゃそうかもな。ツルさんの生きてた時代は知らねぇけど、父親も家事とか子育て参加、とか言われて来たのって最近だもんな」
「そうやねぇ」
謙太が言うとツルさんが「なんと」と目を丸くする。
「男が仕事をしながら家事や育児もするのかの?」
「家庭によりますねぇ。今は奥さんも仕事をしてはる家庭が多いですからねぇ。そんな状態で、家事育児も奥さんに丸投げっておかしいでしょう?」
「おお、おお、それは確かにそうじゃ」
ツルさんは納得した様に、何度も首を縦に振った。
「わしが生きていたころとはいろいろと違うんじゃのう。勉強になるのう」
「それとさ、これは穿った見方なのかも知れねぇんだけどよ、太郎って名前な」
「うん? ええ名前じゃと思うがの」
ツルさんは不思議そうに首を捻る。
「おう。けどこの場合は名前の良し悪しじゃ無ぇんだ。俺らの時代で太郎って名前のやつはほとんどいなくてよ」
「そうなのかの?」
「そうやねぇ。太郎って名前はこう、例えば書類とかを書く時の例文に使われたりするぐらいありふれたっていうか、なんて言ったらええんかなぁ」
どう説明したら伝わるのか、謙太が迷うと知朗も「うーん」と眉をしかめる。
「まぁ今の時代、あまり子どもに付ける名前じゃ無ぇよな。虐待の可能性を考えた時に、親の思いを込めて付けた名前じゃ無ぇよなって、適当に付けたんだろうなって思っちまってさ」
するとツルさんはその眸をじんわりと潤ませる。
「なんと、人とはそこまで残酷になれるものなのか? 子どもは天使じゃ。人は尊いものじゃ。なのに」
謙太と知朗は笑顔を合わせた。
「ツルさんは生前ええ人に恵まれていたんですねぇ」
「そうだな。いや、ツルさんの言うことはその通りだと思う。けど外れちまうやつってのはやっぱりいるんだよ。残念だけどな」
「そうなのかの……。本当に無念じゃ」
ツルさんはしょんぼりとうなだれてしまう。
「大丈夫だってツルさん。ここで太郎といっぱい遊んでやろうぜ。太郎の心残りがなんなのか分からねぇが、このまま構ってやればそのうち心も開いてくれるって。少しでもな。俺はそう思う」
知朗は言って、ツルさんの肩をやや乱暴にばしっと叩いた。
「そうやんねぇ。僕もそう思う。大丈夫ですよツルさん」
謙太も言ってにこっと目を細めると、ツルさんは少し安堵した様に頬を緩めた。
「そうじゃな。うん、きっとそうじゃな」
オーブンの中では、間も無くスポンジケーキが焼き上がろうとしていた。
「謙太さま、知朗さま、お待たせいたしました。ケーキの材料が揃いました」
そう言って頭を下げるサヨさんは手ぶらだった。
「全てお台所の扉に揃っておりますので、ご確認くださいませ」
謙太はシステムキッチンに向かい、まずはシンクの下の開き戸を開く。するとそこには様々な調理器具などが整然と詰め込まれていた。
「うわぁ、すごいやん」
思わずそう声を上げる。鍋やフライパンはもちろん、包丁やお玉にフライ返しなど、日常的に料理をするなら必要不可欠なものがしっかりとあった。
そのまま視線をずらして行くと、ボウルやホイッパー、バレットナイフなどの製菓器具も揃えられていた。
「あ、僕、器具のことすっかり忘れとったわ。あって良かったわ〜」
「この空間が作られた際に揃える様にと、主に命じられたのでございます。お飲み物だけをご提供する空間でございますのに、不思議だとは思いましたが、主がそう申されましたので」
「そうなんですねぇ。助かりました。ええっと材料はっと」
作業スペースの下には引き出しがあり、それを開くとケーキの材料が綺麗に並べられて入っていた。
まずは卵とグラニュー糖に小麦粉、無塩バターを出す。必要な器具は量りとステンレスボウルに泡立て器など。
「ではわたくしはこれで」
サヨさんが去るのと入れ違いでアリスちゃんが走り寄って来た。その頬がわずかに赤らんでいる。
「謙太お兄ちゃん、もしかしてケーキ作ってくれるの?」
「そうやでぇ。ちょっと時間掛かるから待っててくれる?」
「うん! 太郎くんと遊んで待ってる」
そう笑顔で言い残してアリスちゃんが走って行った先には、太郎くんがぼんやりと佇んでいた。起きて一杯目の飲み物を飲んだ後、アリスちゃんが太郎くんを引っ張って輪の中に入れたのだ。
アリスちゃんはまた太郎くんの手を引いて一緒に走り出した。思い思いに座る大人たちの間を縫う様に。駆けっこなのだろう。なんとも微笑ましいことだ。気付けばツルさんが近くにいた。
「ケーキ作りかの」
「はい。ホールで作るんで余裕があったらツルさんもどうですか?」
「ほうほう、ケーキなんてハイカラな洋菓子なんて嬉しいのう。良ければご相伴にあずかろうかのう」
「はぁい、もちろん。待っててくださいねぇ〜」
ではケーキ作りだ。まずはボウルに卵を割り入れ泡立て器で撹拌する。途中でグラニュー糖を数回に分けて加えて。
これがなかなかの力仕事だ。製菓器具が揃っているとはいえ電動ホイッパーまでは無かったので、人力で根気よく頑張るしかない。
「トモ、泡立て手伝ってもろてええ?」
「ああ、良いぜ」
そうして交代で混ぜて行くと、やがてボウルの中身が白っぽくもったりとなって来た。今は知朗が撹拌中だ。謙太はボウルを覗き込む。
「だいぶんできて来たなぁ。もう少しふんわりするまで行きたいわぁ」
「ケーキ作りってこんな力技なのか?」
「スポンジケーキは卵の力で膨らますねん。これは共立てって言うやり方やから全卵を泡立ててるけど、別立てにしたら卵白を角が立つまで泡立てて、卵黄も別で白っぽくもったりするまで泡立ててから合わせねん」
「どっちが楽だ?」
「どっちも大変やでぇ」
「じゃあこのまま行くか。おりゃあ!」
そう気合いを入れると、ホイッパーを握る知朗の手がさらに早く動いた。しかしそれはそう長くは保たず「疲れた!」の声とともに手が止まる。
「でもそろそろ大丈夫かも。貸してぇ」
知朗からボウルを受け取った謙太がその様子を見ると、泡立て器で持ち上げた卵はとろりと落ちて、りぼんの様な筋をしっかり描いた。
「うんうん、行ける。トモありがとう、助かったわぁ」
「おう」
次に小麦粉を用意する。器具庫から粉ふるいを出して、振るいながらボウルに加え、卵の泡を潰さない様にゴムべらでさっくりと混ぜる。
知朗が卵を泡立てている間に、小さなフライパンで作っておいた溶かしバターを追加し、さらに混ぜたら生地の完成である。
ケーキの型を出して内側にバターを塗り、小麦粉をはたく。そこに生地をそっと流し入れ、空気を抜くために3回ほど上から軽く落とし、余熱しておいたオーブンへ。
「後は焼き上がるのを待って、冷ましてからデコレーションやねぇ。今回はアリスちゃんの誕生祝いのケーキやから贅沢に行くで。大好きないちごをたっぷり挟んで乗せよ」
「良いな」
しばらくすると辺りに香ばしくも甘い香りが漂って来る。すると日本酒をちびりとやりながら、ケーキ作りを眺めていたツルさんが近付いて来た。
「何やら良い匂いがするのう。甘いのう」
「ケーキは火が通って焼けて来ると、こんな香りがするんですよねぇ。甘党にはたまらん香りです」
謙太が心地よさそうに目を細める。ツルさんも「ふんふん」と鼻をひくつかせた。そこへ香りを嗅ぎ付けたか、アリスちゃんが走り寄って来た。
その手は太郎くんを掴んだままで、太郎くんはまるで引きずられる様によたよたになっていた。
「ケーキ屋さんの匂い!」
アリスちゃんは嬉しそうに叫ぶ。その横で太郎くんはぽかんとなっていた。
「今焼いてるからねぇ。食べられるまでまだ掛かっちゃうけど待っててくれる?」
「うん!」
アリスちゃんはまた笑顔を浮かべる。
「太郎くんはもしかして初めての香りなんかなぁ?」
謙太が言うと太郎くんはおろおろと焦り、だがおずおずとためらいながら小さく頷いた。
「そうなんやぁ。どうかなぁ? 美味しそうな香りだと思うんやけどなぁ」
すると太郎はまたこくんと頷く。
「このケーキは、アリスちゃんが食べたいって言うのを作ってるんやけど、アリスちゃん」
謙太が視線をアリスちゃんに移した。
「ケーキ、太郎くんも一緒に食べてもろてええかなぁ」
「うん、良いよ! 太郎くん一緒にケーキ食べようね!」
アリスちゃんがにこやかに言うと、太郎くんは驚いた様に目を見開き、泣きそうな顔になって謙太を見た。謙太は太郎くんを安心させる様に、ふわりと穏やかな笑みを浮かべた。
「美味しいケーキ焼くから待っとってねぇ」
すると太郎はほわっと口を小さく開いて頷いた。
「じゃあケーキできるまで遊んでる。太郎くん行こ! 謙太お兄ちゃんまたね!」
「はーい、できたら呼ぶねぇ〜」
アリスちゃんはまた太郎くんの腕を引っ張って、元気に走って行った。
それを微笑ましげに見送ると、知朗とツルさんが近付いて来た。ツルさんの手にはたっぷりと大吟醸が入った切り子グラス。知朗に入れてもらったばかりなのだろう。
「ほっほっほ、子どもは元気じゃのう」
そう楽しそうに顔を緩めるツルさんの視線は、大人に遊んでもらっている太郎くんとアリスちゃんに注がれている。太郎くんはまだまだためらいつつ遠慮がちながらも、それを受け入れていた。
「そうだな。遊んでもらって良かったよな。まだ笑い顔は見れねぇけど、俺らがここに来たばかりの時よりよっぽど楽しそうに見えるぜ」
「そうじゃのう。本当に良かった」
ツルさんは嬉しそうにうんうんと頷く。
「太郎くんさぁ、こうして大人とか同い年の子とかと遊んだりしたこと、ほとんど無かったんや無いかなぁ。親からの虐待が日常になってたら、大人はもちろん怖くなるやろうし、自分に自信が持てへんやろうから、学校で友だちを作るのも難しいと思うしねぇ」
「そんな話を聞くと、子育てとはつくづく難しいもんじゃと思うのう」
謙太の言葉にツルさんはしみじみと言う。
「ツルさんも娘さんがいたんだよな」
「お、おお、そうじゃな。じゃがわしは子育てを家内にすっかりと任せておったからのう。時間がある時に少し遊んだりした程度じゃ」
「まぁツルさんの世代じゃそうかもな。ツルさんの生きてた時代は知らねぇけど、父親も家事とか子育て参加、とか言われて来たのって最近だもんな」
「そうやねぇ」
謙太が言うとツルさんが「なんと」と目を丸くする。
「男が仕事をしながら家事や育児もするのかの?」
「家庭によりますねぇ。今は奥さんも仕事をしてはる家庭が多いですからねぇ。そんな状態で、家事育児も奥さんに丸投げっておかしいでしょう?」
「おお、おお、それは確かにそうじゃ」
ツルさんは納得した様に、何度も首を縦に振った。
「わしが生きていたころとはいろいろと違うんじゃのう。勉強になるのう」
「それとさ、これは穿った見方なのかも知れねぇんだけどよ、太郎って名前な」
「うん? ええ名前じゃと思うがの」
ツルさんは不思議そうに首を捻る。
「おう。けどこの場合は名前の良し悪しじゃ無ぇんだ。俺らの時代で太郎って名前のやつはほとんどいなくてよ」
「そうなのかの?」
「そうやねぇ。太郎って名前はこう、例えば書類とかを書く時の例文に使われたりするぐらいありふれたっていうか、なんて言ったらええんかなぁ」
どう説明したら伝わるのか、謙太が迷うと知朗も「うーん」と眉をしかめる。
「まぁ今の時代、あまり子どもに付ける名前じゃ無ぇよな。虐待の可能性を考えた時に、親の思いを込めて付けた名前じゃ無ぇよなって、適当に付けたんだろうなって思っちまってさ」
するとツルさんはその眸をじんわりと潤ませる。
「なんと、人とはそこまで残酷になれるものなのか? 子どもは天使じゃ。人は尊いものじゃ。なのに」
謙太と知朗は笑顔を合わせた。
「ツルさんは生前ええ人に恵まれていたんですねぇ」
「そうだな。いや、ツルさんの言うことはその通りだと思う。けど外れちまうやつってのはやっぱりいるんだよ。残念だけどな」
「そうなのかの……。本当に無念じゃ」
ツルさんはしょんぼりとうなだれてしまう。
「大丈夫だってツルさん。ここで太郎といっぱい遊んでやろうぜ。太郎の心残りがなんなのか分からねぇが、このまま構ってやればそのうち心も開いてくれるって。少しでもな。俺はそう思う」
知朗は言って、ツルさんの肩をやや乱暴にばしっと叩いた。
「そうやんねぇ。僕もそう思う。大丈夫ですよツルさん」
謙太も言ってにこっと目を細めると、ツルさんは少し安堵した様に頬を緩めた。
「そうじゃな。うん、きっとそうじゃな」
オーブンの中では、間も無くスポンジケーキが焼き上がろうとしていた。