日向佳乃と関わるようになってから、一週間が経った。
あの不思議なベンチでの出会い。
なんの縁か、今まで話したことすらないようなクラスの人気者と、一緒に過ごす時間が増えた。
放課後の図書館で一緒に調べ物をしたり、夜遅くまでペットボトルロケットの打ち上げに挑戦したり。
改めて考えてみると、僕と日向さんはどいう関係なのだろうか。
人に説明してみろと言われても、説明できる気がしない。
友達、なのだろうか。
もうしばらくそう呼べる存在がいなかったから、いまいち実感が湧かない。
喋るようになった日数は浅いし、日常的に休み時間に話したりする関係でもない。
あくまで、彼女が僕のもとにやってくると始まる、その時間だけの交流。
いつも、日向さんの方から僕のもとにやってきて、あーでもないこーでもないといろんな提案をふっかけてくる。
僕から何か働きかけをしたわけじゃない。
僕は偶然、ベンチで眠る彼女を見つけただけ。
全てはそこから始まったのだ。
だいたい、夢の正体を見つけてくれなんて、無理難題にも程がある。
そんなの占い師か、心理学者でもない限り分かるわけがない。
何故こんな、孤独で暗い僕のような人間に頼み込んできたのか。
とにかく自分の思う好きな方向に、僕の手を引いて突っ走っていくのか。
「まったく……」
僕は彼女の顔を想像しながら、小さく呟いた。
そう。
とんだ迷惑だと口にしながらも、内心満更でもない想いを抱えている自分に、気がついていた。
今まで味わったことのない非日常。
いや、あるいはみんなが当たり前に味わっている、友達との日常。
そんな感覚が、いつしか日向さんとの間に芽生えていた。
こんな、あまりに一方的で、あまりに行き当たりばったりな不思議な関係を、僕は楽しいと思っていたのだ。
このままなんとなく、彼女の思いつきやわがままに付き合わされて。
やれやれと面倒くさそうに呟きながら、その背中に着いていく。
そんな関係が続いていけば良い。
そんな日常が続いていけば良い。
そう、思ってしまったのだ。
◆
放課後、下駄箱を降りて校舎を出たところで、誰かに肩を叩かれた。
振り返ると、女子生徒が黙ってこちらを見て立っていた。
襟元にある、灰色のリボンに青い流星の刺繍が目に入る。
何度も見たトレードマーク。
「あ、日向さん」
「え? 私、鈴木だけど……」
僕の見当違いなセリフに、目の前の女子生徒が驚きに目を見開いた。
思わず口をついて出たセリフに、猛烈な後悔が襲ってきた。
「あ、えっと、その……」
しどろもどろになりながら、なんとか言い訳の言葉を頭の中で探す。
だけど、この場を逃れる最適なセリフは、なかなか浮かんでこなかった。
やってしまった。
僕が絶対にしてはいけないミスを、今してしまった。
「鈴木さん……」
鈴木さん、そうだ、名前なら分かる。
日向さんとよく一緒にいる、目立つクラスメイトたちの一人だ。
こうして会話するのも、なんなら面と向かって顔を合わせるのも初めての相手。
最悪の初対面だ。
鈴木さんは、不審者を見るような目つきで、うろたえる僕の顔を睨んでいる。
気まずい沈黙が、二人の間を漂流物のように流れる。
「その、リボン……」
僕が灰色のリボンを指さす。
我が校の女子生徒にはもれなく着用が義務付けられている、地味でパッとしないリボン。
そこに、少しお洒落で垢抜けた、青い流星の刺繍が施されている。
「ああ、これ、佳乃に刺繍してもらったやつだけど……なんで知ってるの?」
鈴木さんはイライラとした様子で、不満そうに首を傾けた。
「そんなことより、最近、佳乃と仲良いよね」
「仲良いというか、べつに」
まるで囚人を詰問する尋問官のように、鈴木さんは強い口調で言い放つ。
穏やかな様子でないことは、どんなに鈍い人間でも一目瞭然だ。
「でも、私を佳乃と間違えるなんて、どうかしてるんじゃないの? わけわかんない」
どうかしてる。
そうですか、どうかしてますか。
僕はどうかしてる人間ですか。
クラスメイトに向けているとは思えないほど、軽蔑を込めた視線で僕の顔を睨みつける。
どういう了見でこんな喧嘩を売りにきたような態度をとっているのか分からないけど、僕は火に油を注いでしまっているようだ。
「それは……」
言葉を探しているうちに、目の前が急にぐるぐると渦巻いて、気分が悪くなってきた。
さざ波が押し寄せるように、頭がズキズキと痛み始める。
呼吸が、異常をきたしたように荒くなっているのを自分で感じる。
「この前、佳乃と話してるの見たの。アンタみたいな名前も覚えてないような暗い奴が、なんで佳乃と一緒にいるわけ?」
鈴木さんは一歩前に出て、僕へにじり寄る。
その語気は強く、威圧的な態度であることを隠そうともせず、こちらへ睨みを効かせている。
明らかな、敵意だ。
「佳乃、最近おかしいの。放課後すぐ帰っちゃうし、引退した陸上部の後輩の指導も来なくなったし」
僕は何も言い出せず、俯いたまま鈴木さんの言葉を聞いていた。
そんな話は、完全に初耳だ。
日向さんの口から、彼女の友人関係や最近の様子について聞いたことはなかった。
「通ってた塾も辞めちゃったみたい。何も私たちに説明してくれない……なのに、なんで染谷、あんたとは一緒に楽しそうにしてるのよ」
「べつに……そんなんじゃないけど」
言い訳にもならない言い訳を、なんとか捻り出すので精一杯だった。
僕は日向さんのことについて、何も知らない。
高校三年生になるまで、人と関わらないようにしていたから、他人からの無関心には慣れていた。
でも、こうした真っ向からの敵意には、まったく対処の仕方を知らなかった。
「とにかく、もう佳乃に近づかないで。受験生で、大切な時期なのに……」
「……ごめん」
念を押すようにして、鈴木さんは改めて僕の顔を鋭い双眸で睨んだ。
謝ることしかできない。
鈴木さんの認識の中では、僕が何か怪しいことを日向さんに吹き込んで、様子をおかしくさせているというシナリオが出来上がっているようだ。
どんな返事も、彼女の気を逆撫ですることしかないだろう。
僕が間違っていて、世界が正しい。
ただそれだけは、ずっと前から不変の原理なんだから。
僕はうろたえながら、日向さんについて頭を巡らせた。
鈴木さんの口から聞いたことは、僕の知らないことばかりだった。
鈴木さんの方が、きっとよっぽど日向さんについて詳しいはずだ。
友人付き合いが悪くなったとか、部活に顔を出さなくなったとか、そんなこと日向さんとの関わりの中で話題にすらあがったことはない。
そもそも、普段彼女が何をしているかなんて僕は知らない。
日向さんはいつも、思いつきのようなセリフを吐いて、僕を困らせるばかりだ。
塾をいきなり辞めたなんて、たしかにちょっと普通の話ではない。
もしかしたら何か事情があるのかもしれないけど、少なくともたかが一週間程度の付き合いしかない僕が原因なんてことはないはずだ。
「そうだ……」
嫌な予感が頭をよぎる。
あの、居眠り病のことについては、もしかしたら鈴木さんも知らないのかもしれない。
見たこともないような、薬の束。
まだ、僕は彼女のことを何も知らないのだ。
黙っている僕にうんざりしたのか、言いたいことを言えてスッキリしたのか、鈴木さんはふんと鼻を鳴らして、その場を去っていった。
僕は一歩も動けず、ただ肌にまとわりつく不快な暑さの中で立ち尽くしていた。
◆
昼休み、中庭のベンチで一人でご飯を食べていると、目の前に女子生徒が現れた。
「また一人で食べてる、染谷君」
「……日向さん」
顔を上げる。灰色のリボンに、青色の流星。
今度こそ、日向さんだ。
日向さんはくすっと笑って、僕の隣に腰掛けた。
「この前、体育の授業ですれ違ったよね。合図したのに、なんでシカトしたの」
「いや、べつに」
「出た、いや、べつに」
日向さんは子供みたいにベーッと舌を出した。
「ーー僕みたいな地味な奴が君に話しかけたら、クラスで変な感じになるでしょ」
「なんでそんなに卑屈なの」
僕は食べかけの惣菜パンを口に押し込んで、なんとか嚥下した。
空になったプラスチックの袋をクシャクシャに丸めて、ポケットに詰める。
そして、早々に会話を切り上げるつもりで、ベンチから立ち上がった。
「もう教室に戻るの? お昼休みはまだ時間あるし、お話ししようよ」
「いや、もう戻らないといけないし」
「……なんか怒ってる?」
日向さんは眉を寄せて、少し悲しそうな顔をした。
僕はその小動物のようなリアクションに胸がずきりと痛んだが、その痛みを押し殺すように俯く。
「……怒ってないけど」
「怒ってるよ」
まるで子供同士の押し問答のようなやりとりだ。
本当に、怒ってなんていない。
「なんかおかしいよ」
「べつにおかしくない……」
僕はおかしくない。
おかしくない、のかな。
自分でも、自分のことが分からない。
そんな僕が他人のことなんて、分かるわけがないじゃないか。
「もう、あまり関わるのは良くないと思う。僕と関わっていたら、きっと変な風に思われる」
禍々しい毒を吐き出すように、僕はなんとか呟いた。
胸のあたりに重々しい鉛があるかのように、苦しく塞がっている。
ずっと俯いたまま、くたびれたシューゲイザーのように足先を見つめる。
隣に腰掛けている彼女がどんな感情なのか、僕から見えない。
「……もしかして、誰かに何か言われた?」
日向さんは覗き込むようにして、俯く僕に綺麗な顔を近づけた。
夏の生暖かい風に乗って、ふんわりと花のようなフレイバーが鼻に届く。
本当の理由なんて、言えるわけがない。
鈴木さんに因縁をつけられたなんて話をすれば、友達想いで、優しい日向さんは、きっと傷ついてしまう。
きっと、鈴木さんも良い子なんだ。
クラスメイトたちといつも仲良く楽しそうにしている。
そんなまともな人間が、悪い奴であるはずがない。
そう、良い子。どこまでも良い子。
鈴木さんは、友達のために本気で怒ったり、本気で悲しんだりできる人なんだろう。
友達のためにわざわざ自分のエネルギーを使って、誰かに抗議することができる。
敵に向かって戦うことができる。
僕は、それができない。
いきなり言いがかりをつけてきたのはどうかと思ったけど、友達が僕のような人間に関わっていて、それに様子がおかしいとなれば、怒って当然だ。
僕が間違っていて、世界が正しい。
何度も言わせるなよ。何度も、何度も。
「……僕が自分でそう思っただけだよ。べつに誰かのせいじゃない」
「やっぱり言われたんだ」
顔を上げると、怒ったような表情で眉を寄せる日向さんの顔があった。
どうにも目を合わせることができず、逃げるみたいに視線を泳がせる。
「とにかく、もうこういう話はやめよう。日向さんも、無理して話しかけなくて良いよ」
「……無理なんてしてない」
不自然なほど静かで、落ち着いた口調。
日向さんは怒っているのか、悲しんでいるのか、その口調から読み取ることはできなかった。
「楽しくなかった? 私と一緒にいるの」
「それは……」
「私は、楽しかったよ。無茶苦茶言っちゃう私に、染谷君はちゃんと向き合ってくれた。染谷君は優しいから」
優しい? この僕が?
僕は、優しくなんかない。
優しい人間は、こんな風に相手を突き放そうとしたりなんかしない。
「夢の正体だって、まだ見つけてないんだよ」
「ーーどうだっていいんだよ、君の夢なんて」
膨れ上がった感情が、怪物のようにのたうち回って、僕の胸の内をドンドンと叩く。
思わず、乱暴な言葉が口から飛び出る。
止めようと思っても、止められない。
「だいたい、わがままじゃないか。いきなりあれこれ頼み込んで、僕には関係ことじゃないか」
日向さんの顔を見ることができない。
僕は地面に生えた雑草を見つめながら、強く拳を握りしめた。
「どうせ、僕みたいな地味な奴が、君みたい人気者に話しかけられて、浮かれているのを見て笑ってたんだろ。寂しい奴に構ってあげて、聖人にでもなったつもりなの。余計なお世話なんだよ」
「……染谷君」
僕は張り裂けそうな胸の痛みを感じながら、言葉を吐き出した。
まるで針の筵に自らを突き落としたかのように、全身から血が吹き出す感覚に囚われる。
本心ではなかった。
僕は嘘つきだから。
さようなら、楽しい時間。
もう、行かなくちゃ。
僕は己を奮い立たせるように再び拳を握りしめて、振り返ることもなくベンチを後にした。
日向さんが結局どんな顔をしていたのか、確認することはしなかった。
これでいい。
これでいいんだと、何度も自分に言い聞かせながら。
階段を登りながら、ぼーっとした頭を巡らせる。
鈴木さんの、怒ったような口調。
日向さんの、悲しむような表情。
ほら、こうなる。
人と深く関わるから、こうなるのだ。
分かっていたことじゃないか。
こうなることなんて。
あの日から、全てが始まったのだ。
終わりの、始まり。
僕は、両親が事故で死んだ、あの日を思い出していた。
◆
小学校三年生のある日だった。
今でもはっきりと覚えている。
あの不気味なほど真っ白で、怖いぐらいに清潔な病室。
目が覚めると、ズキズキと悲鳴をあげるように体の節々が痛んでいた。
特に、頭がぼんやりとして、まるで靄がかかったみたいに上手く働かない。
僕が目を開けたことに気がついた妹が、「やっとお兄ちゃんが目を覚ました」と、白いシーツにしがみついて泣いていた。
僕は天井を見つめながら、痛いから身体を揺らさないで欲しいと、ぼんやり思った。
その後、高齢のおじいちゃんみたいなお医者さんが来て、病室のベットの上に横たわる僕に、いろいろ説明してくれた。
僕はぼんやりとした頭を必死に働かせて、なんとか理解しようとした。
交通事故だった。
僕と、一歳下の妹と、母と、父。
四人家族を乗せた自動車は、対向車線をはみ出して突っ込んできたトラックと正面衝突をした。
トラックは、飲酒運転だった。
結局、どこの誰が犯人なのか、犯人はどんな顔をしていたのか、どんな反省の弁を述べたのか、僕と妹はあえて何も聞かなかった。
僕らはただ、警察や弁護士たちが、親戚の人たちと話している姿を何度か見ただけだった。
ただ、無慈悲なまでの現実が僕らの目の前を覆っていた。
避ける間も無く、予感する間も無く、突如として不条理な運命が、平凡で幸せな家族を破壊した。
両親が死んだ。
残されたのは僕と、妹の二人きり。
妹は軽症だったが、僕の場合は命があっただけでも奇跡だと、お医者さんは言った。
でも、そんな奇跡もありがたがる気持ちにはなれないくらい、この事故は小学生になる僕ら兄妹には、あまりに残酷な話だった。
優しかった父さん、母さん、もう会えないんだ。
もう、二度と。
僕と妹は絶望に打ちひしがれた。
そして、事故がもたらしたのは、両親の死だけではなかった。
「悠介君、君はーー」
お医者さんが僕に告げた、病名。
聞き馴染みのない、難しい漢字の羅列。
でも、そんな病名を聞くまでもなく、僕がおかしくなってしまったことに、僕自身気が付いていた。
だって、文字通り、一目瞭然だったから。
「治療法が見つからない限り……完治は難しいでしょう」
お医者さんの告げた言葉。
小学三年生の僕には難しいことはよく分からないけど、なるほど、もう僕は誰とも深く関わることはできない、それだけは確かなようだった。
それは世界で一番悲しいプロポーズだった。
その日から世界は、すっかりと姿を変えてしまった。
あの不思議なベンチでの出会い。
なんの縁か、今まで話したことすらないようなクラスの人気者と、一緒に過ごす時間が増えた。
放課後の図書館で一緒に調べ物をしたり、夜遅くまでペットボトルロケットの打ち上げに挑戦したり。
改めて考えてみると、僕と日向さんはどいう関係なのだろうか。
人に説明してみろと言われても、説明できる気がしない。
友達、なのだろうか。
もうしばらくそう呼べる存在がいなかったから、いまいち実感が湧かない。
喋るようになった日数は浅いし、日常的に休み時間に話したりする関係でもない。
あくまで、彼女が僕のもとにやってくると始まる、その時間だけの交流。
いつも、日向さんの方から僕のもとにやってきて、あーでもないこーでもないといろんな提案をふっかけてくる。
僕から何か働きかけをしたわけじゃない。
僕は偶然、ベンチで眠る彼女を見つけただけ。
全てはそこから始まったのだ。
だいたい、夢の正体を見つけてくれなんて、無理難題にも程がある。
そんなの占い師か、心理学者でもない限り分かるわけがない。
何故こんな、孤独で暗い僕のような人間に頼み込んできたのか。
とにかく自分の思う好きな方向に、僕の手を引いて突っ走っていくのか。
「まったく……」
僕は彼女の顔を想像しながら、小さく呟いた。
そう。
とんだ迷惑だと口にしながらも、内心満更でもない想いを抱えている自分に、気がついていた。
今まで味わったことのない非日常。
いや、あるいはみんなが当たり前に味わっている、友達との日常。
そんな感覚が、いつしか日向さんとの間に芽生えていた。
こんな、あまりに一方的で、あまりに行き当たりばったりな不思議な関係を、僕は楽しいと思っていたのだ。
このままなんとなく、彼女の思いつきやわがままに付き合わされて。
やれやれと面倒くさそうに呟きながら、その背中に着いていく。
そんな関係が続いていけば良い。
そんな日常が続いていけば良い。
そう、思ってしまったのだ。
◆
放課後、下駄箱を降りて校舎を出たところで、誰かに肩を叩かれた。
振り返ると、女子生徒が黙ってこちらを見て立っていた。
襟元にある、灰色のリボンに青い流星の刺繍が目に入る。
何度も見たトレードマーク。
「あ、日向さん」
「え? 私、鈴木だけど……」
僕の見当違いなセリフに、目の前の女子生徒が驚きに目を見開いた。
思わず口をついて出たセリフに、猛烈な後悔が襲ってきた。
「あ、えっと、その……」
しどろもどろになりながら、なんとか言い訳の言葉を頭の中で探す。
だけど、この場を逃れる最適なセリフは、なかなか浮かんでこなかった。
やってしまった。
僕が絶対にしてはいけないミスを、今してしまった。
「鈴木さん……」
鈴木さん、そうだ、名前なら分かる。
日向さんとよく一緒にいる、目立つクラスメイトたちの一人だ。
こうして会話するのも、なんなら面と向かって顔を合わせるのも初めての相手。
最悪の初対面だ。
鈴木さんは、不審者を見るような目つきで、うろたえる僕の顔を睨んでいる。
気まずい沈黙が、二人の間を漂流物のように流れる。
「その、リボン……」
僕が灰色のリボンを指さす。
我が校の女子生徒にはもれなく着用が義務付けられている、地味でパッとしないリボン。
そこに、少しお洒落で垢抜けた、青い流星の刺繍が施されている。
「ああ、これ、佳乃に刺繍してもらったやつだけど……なんで知ってるの?」
鈴木さんはイライラとした様子で、不満そうに首を傾けた。
「そんなことより、最近、佳乃と仲良いよね」
「仲良いというか、べつに」
まるで囚人を詰問する尋問官のように、鈴木さんは強い口調で言い放つ。
穏やかな様子でないことは、どんなに鈍い人間でも一目瞭然だ。
「でも、私を佳乃と間違えるなんて、どうかしてるんじゃないの? わけわかんない」
どうかしてる。
そうですか、どうかしてますか。
僕はどうかしてる人間ですか。
クラスメイトに向けているとは思えないほど、軽蔑を込めた視線で僕の顔を睨みつける。
どういう了見でこんな喧嘩を売りにきたような態度をとっているのか分からないけど、僕は火に油を注いでしまっているようだ。
「それは……」
言葉を探しているうちに、目の前が急にぐるぐると渦巻いて、気分が悪くなってきた。
さざ波が押し寄せるように、頭がズキズキと痛み始める。
呼吸が、異常をきたしたように荒くなっているのを自分で感じる。
「この前、佳乃と話してるの見たの。アンタみたいな名前も覚えてないような暗い奴が、なんで佳乃と一緒にいるわけ?」
鈴木さんは一歩前に出て、僕へにじり寄る。
その語気は強く、威圧的な態度であることを隠そうともせず、こちらへ睨みを効かせている。
明らかな、敵意だ。
「佳乃、最近おかしいの。放課後すぐ帰っちゃうし、引退した陸上部の後輩の指導も来なくなったし」
僕は何も言い出せず、俯いたまま鈴木さんの言葉を聞いていた。
そんな話は、完全に初耳だ。
日向さんの口から、彼女の友人関係や最近の様子について聞いたことはなかった。
「通ってた塾も辞めちゃったみたい。何も私たちに説明してくれない……なのに、なんで染谷、あんたとは一緒に楽しそうにしてるのよ」
「べつに……そんなんじゃないけど」
言い訳にもならない言い訳を、なんとか捻り出すので精一杯だった。
僕は日向さんのことについて、何も知らない。
高校三年生になるまで、人と関わらないようにしていたから、他人からの無関心には慣れていた。
でも、こうした真っ向からの敵意には、まったく対処の仕方を知らなかった。
「とにかく、もう佳乃に近づかないで。受験生で、大切な時期なのに……」
「……ごめん」
念を押すようにして、鈴木さんは改めて僕の顔を鋭い双眸で睨んだ。
謝ることしかできない。
鈴木さんの認識の中では、僕が何か怪しいことを日向さんに吹き込んで、様子をおかしくさせているというシナリオが出来上がっているようだ。
どんな返事も、彼女の気を逆撫ですることしかないだろう。
僕が間違っていて、世界が正しい。
ただそれだけは、ずっと前から不変の原理なんだから。
僕はうろたえながら、日向さんについて頭を巡らせた。
鈴木さんの口から聞いたことは、僕の知らないことばかりだった。
鈴木さんの方が、きっとよっぽど日向さんについて詳しいはずだ。
友人付き合いが悪くなったとか、部活に顔を出さなくなったとか、そんなこと日向さんとの関わりの中で話題にすらあがったことはない。
そもそも、普段彼女が何をしているかなんて僕は知らない。
日向さんはいつも、思いつきのようなセリフを吐いて、僕を困らせるばかりだ。
塾をいきなり辞めたなんて、たしかにちょっと普通の話ではない。
もしかしたら何か事情があるのかもしれないけど、少なくともたかが一週間程度の付き合いしかない僕が原因なんてことはないはずだ。
「そうだ……」
嫌な予感が頭をよぎる。
あの、居眠り病のことについては、もしかしたら鈴木さんも知らないのかもしれない。
見たこともないような、薬の束。
まだ、僕は彼女のことを何も知らないのだ。
黙っている僕にうんざりしたのか、言いたいことを言えてスッキリしたのか、鈴木さんはふんと鼻を鳴らして、その場を去っていった。
僕は一歩も動けず、ただ肌にまとわりつく不快な暑さの中で立ち尽くしていた。
◆
昼休み、中庭のベンチで一人でご飯を食べていると、目の前に女子生徒が現れた。
「また一人で食べてる、染谷君」
「……日向さん」
顔を上げる。灰色のリボンに、青色の流星。
今度こそ、日向さんだ。
日向さんはくすっと笑って、僕の隣に腰掛けた。
「この前、体育の授業ですれ違ったよね。合図したのに、なんでシカトしたの」
「いや、べつに」
「出た、いや、べつに」
日向さんは子供みたいにベーッと舌を出した。
「ーー僕みたいな地味な奴が君に話しかけたら、クラスで変な感じになるでしょ」
「なんでそんなに卑屈なの」
僕は食べかけの惣菜パンを口に押し込んで、なんとか嚥下した。
空になったプラスチックの袋をクシャクシャに丸めて、ポケットに詰める。
そして、早々に会話を切り上げるつもりで、ベンチから立ち上がった。
「もう教室に戻るの? お昼休みはまだ時間あるし、お話ししようよ」
「いや、もう戻らないといけないし」
「……なんか怒ってる?」
日向さんは眉を寄せて、少し悲しそうな顔をした。
僕はその小動物のようなリアクションに胸がずきりと痛んだが、その痛みを押し殺すように俯く。
「……怒ってないけど」
「怒ってるよ」
まるで子供同士の押し問答のようなやりとりだ。
本当に、怒ってなんていない。
「なんかおかしいよ」
「べつにおかしくない……」
僕はおかしくない。
おかしくない、のかな。
自分でも、自分のことが分からない。
そんな僕が他人のことなんて、分かるわけがないじゃないか。
「もう、あまり関わるのは良くないと思う。僕と関わっていたら、きっと変な風に思われる」
禍々しい毒を吐き出すように、僕はなんとか呟いた。
胸のあたりに重々しい鉛があるかのように、苦しく塞がっている。
ずっと俯いたまま、くたびれたシューゲイザーのように足先を見つめる。
隣に腰掛けている彼女がどんな感情なのか、僕から見えない。
「……もしかして、誰かに何か言われた?」
日向さんは覗き込むようにして、俯く僕に綺麗な顔を近づけた。
夏の生暖かい風に乗って、ふんわりと花のようなフレイバーが鼻に届く。
本当の理由なんて、言えるわけがない。
鈴木さんに因縁をつけられたなんて話をすれば、友達想いで、優しい日向さんは、きっと傷ついてしまう。
きっと、鈴木さんも良い子なんだ。
クラスメイトたちといつも仲良く楽しそうにしている。
そんなまともな人間が、悪い奴であるはずがない。
そう、良い子。どこまでも良い子。
鈴木さんは、友達のために本気で怒ったり、本気で悲しんだりできる人なんだろう。
友達のためにわざわざ自分のエネルギーを使って、誰かに抗議することができる。
敵に向かって戦うことができる。
僕は、それができない。
いきなり言いがかりをつけてきたのはどうかと思ったけど、友達が僕のような人間に関わっていて、それに様子がおかしいとなれば、怒って当然だ。
僕が間違っていて、世界が正しい。
何度も言わせるなよ。何度も、何度も。
「……僕が自分でそう思っただけだよ。べつに誰かのせいじゃない」
「やっぱり言われたんだ」
顔を上げると、怒ったような表情で眉を寄せる日向さんの顔があった。
どうにも目を合わせることができず、逃げるみたいに視線を泳がせる。
「とにかく、もうこういう話はやめよう。日向さんも、無理して話しかけなくて良いよ」
「……無理なんてしてない」
不自然なほど静かで、落ち着いた口調。
日向さんは怒っているのか、悲しんでいるのか、その口調から読み取ることはできなかった。
「楽しくなかった? 私と一緒にいるの」
「それは……」
「私は、楽しかったよ。無茶苦茶言っちゃう私に、染谷君はちゃんと向き合ってくれた。染谷君は優しいから」
優しい? この僕が?
僕は、優しくなんかない。
優しい人間は、こんな風に相手を突き放そうとしたりなんかしない。
「夢の正体だって、まだ見つけてないんだよ」
「ーーどうだっていいんだよ、君の夢なんて」
膨れ上がった感情が、怪物のようにのたうち回って、僕の胸の内をドンドンと叩く。
思わず、乱暴な言葉が口から飛び出る。
止めようと思っても、止められない。
「だいたい、わがままじゃないか。いきなりあれこれ頼み込んで、僕には関係ことじゃないか」
日向さんの顔を見ることができない。
僕は地面に生えた雑草を見つめながら、強く拳を握りしめた。
「どうせ、僕みたいな地味な奴が、君みたい人気者に話しかけられて、浮かれているのを見て笑ってたんだろ。寂しい奴に構ってあげて、聖人にでもなったつもりなの。余計なお世話なんだよ」
「……染谷君」
僕は張り裂けそうな胸の痛みを感じながら、言葉を吐き出した。
まるで針の筵に自らを突き落としたかのように、全身から血が吹き出す感覚に囚われる。
本心ではなかった。
僕は嘘つきだから。
さようなら、楽しい時間。
もう、行かなくちゃ。
僕は己を奮い立たせるように再び拳を握りしめて、振り返ることもなくベンチを後にした。
日向さんが結局どんな顔をしていたのか、確認することはしなかった。
これでいい。
これでいいんだと、何度も自分に言い聞かせながら。
階段を登りながら、ぼーっとした頭を巡らせる。
鈴木さんの、怒ったような口調。
日向さんの、悲しむような表情。
ほら、こうなる。
人と深く関わるから、こうなるのだ。
分かっていたことじゃないか。
こうなることなんて。
あの日から、全てが始まったのだ。
終わりの、始まり。
僕は、両親が事故で死んだ、あの日を思い出していた。
◆
小学校三年生のある日だった。
今でもはっきりと覚えている。
あの不気味なほど真っ白で、怖いぐらいに清潔な病室。
目が覚めると、ズキズキと悲鳴をあげるように体の節々が痛んでいた。
特に、頭がぼんやりとして、まるで靄がかかったみたいに上手く働かない。
僕が目を開けたことに気がついた妹が、「やっとお兄ちゃんが目を覚ました」と、白いシーツにしがみついて泣いていた。
僕は天井を見つめながら、痛いから身体を揺らさないで欲しいと、ぼんやり思った。
その後、高齢のおじいちゃんみたいなお医者さんが来て、病室のベットの上に横たわる僕に、いろいろ説明してくれた。
僕はぼんやりとした頭を必死に働かせて、なんとか理解しようとした。
交通事故だった。
僕と、一歳下の妹と、母と、父。
四人家族を乗せた自動車は、対向車線をはみ出して突っ込んできたトラックと正面衝突をした。
トラックは、飲酒運転だった。
結局、どこの誰が犯人なのか、犯人はどんな顔をしていたのか、どんな反省の弁を述べたのか、僕と妹はあえて何も聞かなかった。
僕らはただ、警察や弁護士たちが、親戚の人たちと話している姿を何度か見ただけだった。
ただ、無慈悲なまでの現実が僕らの目の前を覆っていた。
避ける間も無く、予感する間も無く、突如として不条理な運命が、平凡で幸せな家族を破壊した。
両親が死んだ。
残されたのは僕と、妹の二人きり。
妹は軽症だったが、僕の場合は命があっただけでも奇跡だと、お医者さんは言った。
でも、そんな奇跡もありがたがる気持ちにはなれないくらい、この事故は小学生になる僕ら兄妹には、あまりに残酷な話だった。
優しかった父さん、母さん、もう会えないんだ。
もう、二度と。
僕と妹は絶望に打ちひしがれた。
そして、事故がもたらしたのは、両親の死だけではなかった。
「悠介君、君はーー」
お医者さんが僕に告げた、病名。
聞き馴染みのない、難しい漢字の羅列。
でも、そんな病名を聞くまでもなく、僕がおかしくなってしまったことに、僕自身気が付いていた。
だって、文字通り、一目瞭然だったから。
「治療法が見つからない限り……完治は難しいでしょう」
お医者さんの告げた言葉。
小学三年生の僕には難しいことはよく分からないけど、なるほど、もう僕は誰とも深く関わることはできない、それだけは確かなようだった。
それは世界で一番悲しいプロポーズだった。
その日から世界は、すっかりと姿を変えてしまった。