僕と日向さんは、幾度かの失敗を重ねながら、まだペットボトルロケットの製作に勤しんでいた。

 もう放課後もだいぶ時間が経って、夕焼けが夜空に変わりかけていた。
 理科準備室の窓からも、空の色がグラデーションに変わっていく景色が見えた。

 部活や習い事とは無縁の学生生活を送ってきた僕からすると、こんな陽の落ちる時間まで校舎に残った経験はほとんどない。
 部活動の練習に汗を流している生徒たちも、そろそろ片付けて帰り始める時間だ。

「ーーお前ら、まだいたの」
「あ、五十嵐先生」

 顔を上げると、五十嵐先生が呆れた表情で僕らを見下ろしていた。

「もう帰ったと思って見にきたら、随分と熱心だな。授業も、それくらい熱心に受けてくれると有り難いが」
「私たちはわりと優等生じゃないですか〜」
「自分で言うな」

 日向さんが力なく笑う。
 元気がトレードマークの日向さんも、流石にそろそろ疲れてきたみたいだ。
 細かい作業が続いたせいか、僕も幾分かくたびれてきた。

「もう学校も閉める時間だ。そろそろ終われよ」
「はい、次でラストにします」

 何故こんな熱心に取り組んでいるのか、自分でもよく分からないけど、ここまで来たら完成させたい気持ちが強くなってきた。

 後日に持ち越すのも変な話だ。
 そんな夏休みの自由研究みたいに宿題にするのも嫌なので、ここで成功させて終わりにしたい。

「ーーあ、なんだろこれ」

 日向さんが不意に、呑気な声を上げる。

 僕と五十嵐先生が顔を向けると、彼女はいつのまにか何かの冊子を机の上に広げていた。
 どこから引っ張り出してきたのだろうか。

「何それ?」
「なんかそこの棚にあったから」

 日向さんは理科準備室の壁際に陳列されている棚を指さす。
 そこには授業で使われる実験器具などの他に、辞書や分厚い資料集などの書籍も並べられていた。
 でも、ほとんどの物品は埃を被って、まるで世界が終わった後に残されたオーパーツのようだった。

「どれどれ……」

 ペットボトルロケットの材料を片付けながら、僕も興味本位で冊子を覗き込んでみる。

 やや古ぼけて、埃の被った厚い冊子だった。
 それなりに丁寧に装丁されて、立派な見た目をしていた。
 冊子をめくると、その表紙には「西南高校野球部OB記念誌」とプリントアウトされていた。

 西南高校。もちろん、うちの学校名だ。

「ーーそれは俺のだ」

 五十嵐先生はしまったという顔をして、声を漏らした。

 普段のクールな態度からは意外なほど慌てた様子で、冊子に手を伸ばそうとする。
 すると、日向さんは冊子を抱き寄せて、奪われないように身を引いた。

「ちょっと見せてください! 興味があります」
「べつに見ても、なんにもならんぞ……」

 面倒くさそうにため息を吐く五十嵐先生。
 反対に、日向さんは疲れを忘れたみたいな顔で、目をキラキラさせながら冊子をめくり始めた。

「……うちの野球部の記念誌みたいなやつかな? なんで先生が?」

 僕が疑問を口にすると、五十嵐先生は気まずそうに口をへの字に曲げた。
 何か生徒に見られたら困るようなものでも写っているのだろうか。

「これ、五十嵐先生が写ってるんですか?」

 ずっとページをめくっていた日向さんが、嬉しそうにあるページを指さす。

 理科準備室の電灯にかざしながら覗き込むと、そこには少し年季の入った写真と、選手名簿が掲載されていた。
 写真には野球のユニフォームを身に纏った高校生たちが、整列している姿が収まっている。

「え、どれ?」
「ほら、これよこれ!」

 日向さんが嬉しそうに指をさす。
 まるでウォーリーを探せに夢中になる小学生みたいだ。

 言われるがままによく見ると、名簿に五十嵐先生の名前が記されており、写真にもその面影が残る坊主頭の高校生が写っているようだった。
 写真の日付は、今から十三年も前だ。

「え! 先生、野球部だったんですか?」
「――まあ、十年以上も昔の話だけどな」

 五十嵐先生は面倒くさそうな風で答えた。
 その様子からすると、あまり触れられたくない過去だったらしい。
 まあ、昔のアルバムの写真を他人に見られるのは、誰しも恥ずかしいものか。

「なんか、意外!」

 日向さんは写真と実物の五十嵐先生を見比べながら、感嘆の息を漏らした。
 かなり失礼だからやめた方が良い気がする。

「まあ、今じゃ演劇部の顧問だしな」

 意外だと言う点については、完全に同意だ。
 今では痩身で色白な容姿で、文化系なイメージがある五十嵐先生にも、そんな時期があったのか。
 というか、うちの高校のOBだったんだ。
 初めて知る事実だ。

「強かったんですか?」
「いや、弱かったよ」

 五十嵐先生はいつも以上に静かな声で、諦めたようにポツリと答えた。

「ポジションは?」
「……セカンドだった」
「思い出とかあるんですか?」

 まるで若手インタビュアーのように、矢継ぎ早に質問を繰り出す日向さん。
 担任教師の若き日の話に興味津々のようだ。

 いつもくたびれたような顔をした五十嵐先生の高校球児時代。
 たしかに僕も少し気になるけど。

「べつにねえよ」
「嘘だ、少しくらいあるでしょ」

 五十嵐先生は眉を寄せて、少しだけ考える素振りを見せた。
 そして深く息を吸い込んで、窓から覗く暗い空を眺める。

「......あれは三年生の夏だった」

 ゆっくりと、語って聞かせるようなトーンで先生は口を開いた。

「そうだな、地区大会の二回戦、六対五の二死満塁」

 夏の暑さには似合わない、低く響くような声色だった。
 僕と日向さんは突然のモノローグに、驚いて顔を見合わせる。

 五十嵐先生は授業の教科書でも読み上げるみたいに、淡々と言葉を紡いだ。

「俺はセカンドを守っていた。あと一つアウト取れば勝ちって場面。相手は打ち損じてフライを上げた。フライは俺の頭上に来た。その場にいた仲間全員が勝ちを確信した」

 五十嵐先生は、机の上に転がる空のペットボトルを手に取って、ポンポンと掌で叩いた。
 まるで、スタンドで試合を観戦する応援団のようだった。

「だが、俺はエラーした。信じられないようなミスだった。呆然としているうちに、俺のチームは負けていた。最後の夏はあっけなく終わった」

 五十嵐先生は吹き出すような短い笑い声を喉から鳴らした。

 担任教師の、意外な青春時代
 僕は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。

 日向さんの方を見ると、彼女は眉を寄せて、なんとも言えない切なそうな感情を浮かべていた。

「べつに甲子園がかかってたわけでもないし、プロ野球を目指してたわけでもない。なんて事のない、地方大会の二回戦だ。よくある話さ」

 五十嵐先生が言葉を切ると、重たい沈黙が流れる。

 誰もが抱えている、忘れられない過去。
 それが五十嵐先生にとっては高校の野球部時代だったのだな、とすぐに分かった。

「ーーでもな、今でも思うんだよ。もしあのとき、セカンドフライを取ってたらって」

 五十嵐先生は言葉を切って、遠い目で、窓から広がる夕闇に染まった景色を眺めた。

「セカンドフライ……か」

 物音ひとつしない、静かな校舎の中。
 窓を挟んだ遠く外の校庭から、運動部の声出しが聞こえてくる。
 まさに五十嵐先生の後輩に当たる野球部連中も、こんな遅くまで練習に精を出しているのかもしれない。

「先生......意外と感傷的なんだね」
「ほっとけ」

 なぜか嬉しそうに五十嵐先生を見つめる日向さん。

 照れくさいのを誤魔化すためか、五十嵐先生はその視線から逃れるように頭を掻いた。

 僕は部活で悔しい思いをしたこともない。
 劣等感なら毎日感じて生きてはいるけど、努力とか、挑戦とか、そういったことから逃げた生活をしている。

 だから五十嵐先生が抱えている心のわだかまりが、どういう類のものなのか、いまいち実感できなかった。
 でも、五十嵐先生にとっては忘れられない、心の傷みたいな思い出なんだろう。

 そんなことを考えていると、五十嵐先生がポツリと呟いた。

「お前ら見てると思い出すわ。高校生のガキだった頃」
「私はガキじゃないですよー」

 日向さんが唇を突き出して嘯く。
 私はとはなんだ。僕はガキなのか。

「――お前らの時間は今しかない」

 零すようにそうセリフを残した後、五十嵐先生は日向さんの手元から記念誌を取り上げた。

「あっ」
「ラストチャレンジするんだろ。さっさと終わらせろよ」

 僕は五十嵐先生の言葉の真意を測りかねて、日向さんに目をやった。
 彼女は納得したような、そうでもないような表情で、五十嵐先生を眺めていた。

「先生! 良かったら、見て行ってください」
「……まあ、いいけど」

 僕は思わず、立ち上がって五十嵐先生を引き止めた。
 自分でも、意外な行動だった。

 五十嵐先生は僕からそんな申し出をしたのが意外だったのか、物珍しいものを見る目で頷いた。

 理科準備室を片付けて、鞄と共に荷物を持つ。
 三人揃ってもうほとんど人気のない校舎を通って中庭に向かった。

 もう何度目かの挑戦だ。手慣れてきた手つきでペットボトルロケットをセッティングする。

「さあ、やるぞー!」
「あいよ」

 日向さんの威勢の良い掛け声に背中を押されながら、僕は空気入れを動かし始めた。

 ピストン運動が続くにつれて、膨張していくペットボトルロケット。
 段々と機体の中の気圧は増していき、いよいよ限界を迎えーー

「おお!」

 思わず大きな声で叫ぶ。
 ペットボトルロケットは、シュポンと気持ちの良い音を立てながら、勢い良く飛び上がった。

 ぴゅーん、そんな擬音が頭に浮かぶような見事な放物線を描いて、校舎の三階近くまでみるみる飛んでいく。

「すごい! 大成功だ!」

 日向さんが歓喜の声をあげる。
 僕と日向さん、ついでに五十嵐先生も加えて、首を傾けながらペットボトルロケットの行く末を見すえる。

 ペットボトルロケットは限界まで上昇した後、推進力を失ってゆっくりと落下を始めた。

 中身が空っぽになったペットボトルロケットが、空気の抵抗を受けながらゆらゆらと揺れて、僕らのちょうど足元あたりに落ちた。
 からんころん、とペットボトルロケットが地面に転がる。

「いやー、良い飛びっぷりだったね」
「……そうだね」

 日向さんが嬉しそうにペットボトルロケットを拾い上げて、僕に駆け寄る。
 苦労したプロセスがあったせいか、打ち上げに成功した瞬間、僕もにわかに興奮してしまった。
 比べられるわけもないけど、もしかしたら宇宙ロケットを作っている人たちも、きっとこんな気持ちなのかもしれない。

「まあ、悪くなかった」

 五十嵐先生も、満更でもない様子で頷いた。

「先生、ありがとうございました! 場所貸してくれて」
「僕からも、ありがとうございました」

 二人揃って、ぺこりと頭を下げる。
 べつに部活動でもないのに、いきなりペットボトルロケットを飛ばそうなんていう謎のお願いに場所を貸しくれただけでなく、こんな遅くまで付き合ってくれるなんて、五十嵐先生は相当優しい人だ。
 正直、見直した。

「これに懲りたら、ちゃんと勉強しろよ」
「……はい」

 二人で協力して、役目を終えたペットボトルロケットや打ち上げ台を回収し、帰り支度を済ませる。

「それじゃ、帰りますね」
「気をつけて帰れー」

 鞄を背負って、下駄箱の外に出る。
 もう外はすっかり真っ暗だった。早く帰って夕飯が食べたい。

「あ、理科準備室の鍵、返していけよ」

 五十嵐先生が思い出したように、下駄箱から声をかける。
 僕は慌ててポケットを探すが、持っていない。ということは、日向さんが手にしているはずだ。

 五十嵐先生のセリフを聞いた日向さんは、ニヤリと笑うと突然駆け出して、数メートル進んだ先で振り返った。

「先生! ほら、カッキーン」

 彼女は小気味好い効果音を叫びながら、手に持った理科準備室の鍵を天高く放り投げた。

 鍵は夕闇の中、蛍光灯の灯りを反射してキラキラ輝きながら、ゆるやかな放物線を描く。

 僕は蛍光灯の眩しさで鍵を見失わないように目を細めながら、その行く先を追いかけた。

 パシッ。

 先生は顔の前に手を伸ばし、鍵を空中でキャッチした。
 それはまるで、野球のフライのように。

「......ナイスキャッチ」

 僕は思わず呟いた。
 それは世界で一番鮮やかな、セカンドフライだった。

「ばーか、物を投げるな。そんで早く帰れ」

 先生は手にした鍵をしばらく眺めた後、その手に握り直して、怒るでもなく呆れたように笑った。

「それじゃあ、先生、ありがとね!」
「おう」

 日向さんは手をブンブンと振り回しながら、足早に駆けていく。
 五十嵐先生は早く行けとばかりに面倒くさそうに手を振った。
 僕はペコリと頭を下げてから、彼女の後を追う。

 日向さんの行動の意図は分からない。
 五十嵐先生がそれをどう受け止めたのかも、僕には想像がつかない。

 人の心なんて、分かるわけがないんだから。

 何も分からない僕は、夜空を背景に小さくなっていくその背中を、ただ追いかけた。