従者は永遠(とわ)の誓いを立てる

 ただ、こういうことなのだ。主にダージルとロンが話をし、グレイスとマリーが控えめに参加することになる。
 グレイスはそれに少々の息苦しさを感じてしまう。ダージルが相手なのだから当たり前とはいえ、楽しいかと言われたら、そんなことはまったくなかったのだ。
 おしゃべりで奔放なのが本質なのだから、自由におしゃべりができるのならばそちらのほうが楽しいに決まっている。
 そう、例えばフレンと話をするときのような。なにもはばかることなく話せたら。
 思って、途中でグレイスは部屋のはしをちらっと見てしまった。
 フレンはそこに控えてくれている。なにか用があればすぐ対応できるように。
 グレイスが視線をやったことで視線が合う。それを見てフレンはどう思ったのか、笑みを浮かべた。グレイスが『なにか用事で呼びたい』と思ったのではないと気付いてくれたのだろう。
 そしてもっと言うならば、この状況に多少なり不安を覚えているから。フレンのほうを見てしまったのだと。それもわかってしまわれたはずだ。
 だから安堵させるように笑みを浮かべてくれた。
 グレイスは単純にも、それにほっとしてしまう。
 大丈夫、やるべきことをやれるわ。
 思って、フレンに微笑を返しておいて、数秒だけ向けていた視線を部屋の中心に戻した。
 そこではこの小旅行でなにをするかという話題になっている。
 くつろぐのが目的なので、ゆったりと時間を過ごすつもりであったが、森の中の散策や、湖の周りの散歩、天気が良ければボートに乗ったりもできる。できることなどいくつもあった。
 どの日にこれをしよう、などの楽しい計画。
 グレイスもそれに混ざり、控えめではあったものの、提案や同意をして、お茶の時間はゆったりと過ぎていった。
 翌日は森へ行った。幸い、良く晴れたのだ。遊歩道を歩いているだけで、木漏れ日が落ちてきてとても美しく、心が洗われるようだった。
 森の奥には小さな小屋があり、そこで軽く過ごせるようになっている。外のベンチなどでお茶を飲むことができるのだ。
 お茶は勿論フレンが淹れてくれた。森の中にぴったりの、アイスハーブティー。すっきりとした飲み心地のお茶はまるで森の空気を飲んでいるような味がした。
「ねぇグレイス! たくさんお花が咲いているわ。これ、去年はなかったわね」
 森の外れまできてマリーが嬉しそうな声をあげた。そこには白くて小さめの花が咲いていた。
「本当に。なんのお花かしら」
 近付いて見てみたけれど、グレイスにはわからなかった。特に派手でもない。
 しかし近付いてみればふわっと良い香りがした。なにか、知っているような香りのような気がするけれど。
 ちょっと考えたけれど、その答えはフレンがくれた。ちょうど近くに控えていてくれたのだ。
「ジャスミンですね。よくお茶になっているあれですよ」
「そうなの! 相変わらずフレンは博識ね」
 グレイスはそれを聞いて嬉しくなってしまう。
 不思議だ、ただ家で、アフレイド領の本来の家で過ごしているときはこんな会話、日常のことであるのに。旅行先というだけでなんだか新鮮に感じられるのだ。
「去年はまだ花がついていなかったのでしょうね」
 確かに茂っている草だけはあった気がする、と去年のことを思い出す。
 そこで去年のことを懐かしく思い出してしまった。
 去年。今回のようにダージルもロンもおらずに、マリーと一緒に森の散策をした。
 フレンも一緒に。
 あのときはまさか、次の年に自分が婚約していようなどとは思わなかったけれど……。
 なんだかとても遠くへ来てしまったような錯覚をグレイスは感じた。
「これはお茶にするために育てられているのかい」
 近くへダージルがやってきた。フレンは彼を振り返り、笑みを浮かべる。
「おそらく野のものかと思われます」
 丁寧な口調はそのままだったけれど、グレイスは確かに感じる。
 自分と話すときのものとはまったく違う、と。
 それは嬉しく感じられてしまうことだった。フレンの中で自分が特別なのだと感じられて。
 しかしグレイスはそれに心が少し陰るのを感じてしまった。
 本当はこんなふうに感じてはいけないのだろう。ダージルと率先して会話をして、仲良く過ごすのが理想的なのだ。なのにこんな、フレンのことばかり考えてしまって。
 自分がまだ思いきれていない、とグレイスは思い知ってしまう。こんな些細なやりとりひとつからでも。
 近くに居ればどうしても想いはフレンに持っていかれてしまうし、そんな彼の前で婚約者と仲を深めようとするのも、本当は気が進まない。
 でも、しなければいけないのだ。それがこの旅行の目的なのだから。
 グレイスは無理やり自分に言い聞かせ、一歩踏み出してダージルの横に並んだ。
「グレイスはお花が好きかい」
 ダージルはグレイスを振り向き、笑みを浮かべた。グレイスの悶々としていた気持ちに気付いてはいないようだ。グレイスはほっとして頷いておく。
「はい。ジャスミンティーは飲んだことがありますが、お花を見るのは初めてなのです。とてもかわいらしいですね」
「ああ、私も新鮮だ。普段目にするのは手入れをされた庭の花が多いからね」
 そこからしばらく花の話などなんということもない話題になり、やがてダージルはかがんでジャスミンを一輪摘んだ。
 グレイスはどきっとする。別に摘むことはなんの問題もないだろう、育てられているのではないのだから。でもそのジャスミンの行き先はと考えたら。
 勿論、グレイスの想像した通りになった。
「ちょっとじっとしておいで」
 ダージルはグレイスの髪に手を伸ばし、髪のまとめてあるところへそっとジャスミンの花を差し込んでくる。ごそりと髪に触れられるけれど、その手つきはとても優しかった。嫌悪感はない。少なくとも。
「できた。黒髪に白がよく映えるね」
 すぐにダージルは一歩引いて、満足げな顔になった。グレイスも笑みを浮かべる。
「ありがとうございます」
 実際、ジャスミンは綺麗だった。髪に飾ったらかわいいだろう。今は自分で見えないけれど。
 そこへマリーもやってきた。
「あら、かわいいわね。素敵よ」
「ありがとう、マリー」
 そちらを見て、グレイスはマリーにもお礼を言った。マリーは振り返って、なにやら使用人と話をしていたらしいロンを呼んだ。
「ロン様! 私にも摘んでくださいませんか?」
 ロンはマリーの声に反応してこちらを向き、笑みを浮かべて近寄ってきた。
「おや、グレイスさん、綺麗だね。マリーも欲しいのかい」
「ええ! 私には合わないでしょうか?」
「そんなわけはないだろう。どの一輪がいいかな」
 マリーとロンはそんなほのぼのとしたやりとりをはじめた。どの花が美しいか、など選びはじめる。グレイスはダージルとはたでそれを見守りつつ、感謝していた。
 マリーは気を使ってくれたのだ。グレイスが居心地良いようにと。まだ一緒に過ごすのが数度目のダージルと上手くやれるようにと。
 この優しい従姉妹が一緒で本当に良かった。グレイスは感謝と安堵を同時に覚える。
 そこへ、すっと手が伸ばされた。グレイスの腰に回る。
 そちらを見ると、ダージルが腕を回して軽くグレイスを抱いたところで。
「素敵なご夫婦だね」
 マリーとロンを指して言っているのはすぐにわかった。そしてその中に含まれている意味も。
 自分とも『素敵な夫婦』になれたらいいと。そういうことだろう。
 グレイスは笑みを浮かべた。「ええ」とだけ返事をする。
 別段、拒否もしなければ嫌だとも思わなかった。そう感じられたことが、グレイスには安心、だった。自分が上手くやれているという事実だったのだから。
 小旅行の日々は穏やかに過ぎていった。普段と違う、野のものが多い食事、素朴な焼き菓子、夜には男性陣はお酒を酌み交わし、一緒に談笑した。
 近くの牧場へ行って動物を見たり、花畑で摘んだ花をドライフラワーにする遊びもした。
 ある日は湖でボートにも乗って、このときばかりはグレイスはとてもはしゃいでしまった。ゆらゆら揺れる水の上で、大人しくしていられるものか。
 あとからはしゃぎすぎたことに恥ずかしくなったのだけど、マリーが言ってくれた。「楽しいときは素直に楽しんだほうがいいのよ」と。
 確かにそういうものだ。グレイスは良かったことにしておこう、と思った。
 そのような日々の中。
 この日はお天気が良くなかった。曇り空で、芳しくない。でもまだ雨は降っていないし、雨雲らしきものも遠くだ。すぐには降らないだろうとグレイスは思った。
 とはいえ、いつ降るかは定かでなかったので、この日は屋敷の中で過ごすことにした。持ってきていた刺しかけの刺繍を見せて、刺すところも少し披露したりして。
 マリーは以前からグレイスのこの趣味を知っているので喜んでくれた。
「私も久しぶりにやってみようかしら」
 たまに付き合ってくれることは以前からあったので、グレイスは嬉しくなった。
「ええ、いいわね! フレン……」
 控えてくれていたフレンを振り返ると、彼もにこっと笑う。
「かしこまりました。用意致しましょう」
 そう言って、準備をするのだろう。部屋を出ていった。
 フレンのことだ、布と糸、あとは針など必要な用具を持ってきてくれるのだろうが、あまり慣れていないマリーにも使いやすいような簡単なものにしてくれるのだろう。そういうひとだ。そしてそんな細やかなところが魅力なのである。
「おや、綺麗だね。こんなに細かく刺せるものなのか」
 隣にやってきたダージルも褒めてくれて、グレイスはちょっと誇らしくなった。
「ええ。得意なのです」
「グレイスは器用なのですよ。作ったものがお部屋にいくつもあるのです」
 マリーも褒めてくれる。ダージルは目を細めて「そうかい」と言ってくれた。
 そのまま刺繍を進めようかと思ったのだけど、グレイスはふと顔をあげた。布を手にしていたことで思い出したのだ。
 昨日、出掛けたときに羽織ったストール。レース素材の薄手のもの。
 外の竿にかけたままだった気がする。もしあのままであれば、雨が降ったら濡れてしまうだろう。誰かが取り込んでくれたかもしれないけれど、その保証はない。
 よって、グレイスはちょっと様子を見てこようと思った。フレンが居たのならフレンに「ストールは取り込んであるかしら」と訊けば良いのだが、生憎席を外している。それもグレイスの用事で。ふたつ用事を言いつけるのも、と思ってグレイスは立ち上がった。
「どうしたの、グレイス」
 マリーがソファに座ったところから見上げてくる、それにグレイスは笑みを返しておいた。
「昨日のストール、出しっぱなしだったかもしれないの。ちょっと見てくるわね」
「あら、それはいけないわ。気をつけてね」
 それでグレイスは一人、談話室を出た。廊下を歩く。
 廊下の窓から見た外は、だいぶ雲が多くなっていた。昼間なのに薄暗い。
 もう降るかもしれないわ。急がないと。
 グレイスは急ぎ足で玄関へ向かい、外へ出て、裏に回った。確かここに掛けておいたはずだけど、と物干しが並んでいるところへ向かう。
 普段なら遠くから洗濯物がはためいている様子が見えるのだけど、この天気で外に干すはずもない。なにも見えなかった。
 そう、なにも、だ。グレイスのストールも見えなかった。
 あら、無いわ。誰か取り込んでくれたのかも。
 思いつつも、一応ちゃんと確認しておこうとグレイスはもう少し屋敷から離れる。そこで目を丸くしてしまった。
 ストールはそこにあった。けれど、樹に引っかかっている。
 どうやら風に煽られて飛んで、そこにかかってしまった、という具合だった。
「まぁ……あんなところになんて」
 グレイスは独り言を言い、そちらへ近付いた。そう高い樹ではないので手を伸ばせば届くと思ったのだけど。
「ん……っ」
 寄ってみれば意外と高いところに引っかかってしまっていたようで、ひょいっと取るというわけにはいかなかった。背伸びをしたけれど、ストールのはしに僅かに手が触れるのみ。掴むには至らない。
 しばらく奮闘したものの、グレイスは諦めた。樹にくぼみがあるのを見て思い付いたのだ。
 あそこに足をかければ届くかもしれない。
 思い付けば、俄然わくわくしてきてしまった。
 久しぶりにちょっとお転婆なことができる。それも、ストールを取るためなのだから別に悪いことでもない。マリーはともかく、慣れないダージルと過ごすのには少し気を張っていたので、ちょっとした気分転換になるだろう。
 よって、グレイスは低い枝に手をかけて、スカートをちょっと避けてから樹のくぼみに足をかけた。そのまま力を入れてのぼりかけたのだけど。
「グレイス!」
 唐突に名前を呼ばれた。直後、がしっと体が掴まれる。
 しかしそのせいでむしろバランスを崩した。ぐらっと体がかしぐ。
「きゃ……」
 枝からも手が離れてしまってグレイスはひやっとした。
 倒れる……!
 衝撃を恐れ、咄嗟にぎゅっと目をつぶった。
 けれど地面には叩きつけられなかった。代わりにぽすっとやわらかいものに体が当たる。
「危ないじゃないか」
 上から声が降ってきた。グレイスは戸惑ったけれど、そろそろと目を開ける。
 そのままちょっと視線をあげると、目が合った。
 自分を抱き留めたひとと。
 青い色の瞳だった。
 一瞬、グレイスは視界が揺らぐような思いを味わう。
 いつもなら、こういうとき、目に入るのは、翠……なのに。
 ぼうっとした。それは嫌な意味のぼんやりとした気持ちだった。
 しかしすぐにはっとする。見つかったのだ。それも何故かここにいるダージル、に。
「す、すみません……」
 なんとか言った。心臓がばくばくしてくる。樹にのぼろうとしていたのが露見したのもそうだが、それ以上に、腕に抱かれてしまっているのだ。
 数日前、ジャスミンの花たちの前で腰を抱かれたときとは比べ物にならなかった。もっと密着して、はっきりと抱かれてしまっている。
「ストールを取ろうとしたのかい」
 ダージルの口が動くのが見えた。グレイスは、ええ、とか、すみません、とか言うつもりだったのだが。
 そこにぽつっとなにかが触れた。どうも水滴のようだった。つられるように上のほうに視線をやると、ぽつぽつっと小さな雫が落ちてきはじめている。雨が降り出したようだ。
「……いけないね。戻らなくては」
 ダージルも雨には気付いたらしい。そう言って、グレイスはほっとした。このまま屋敷に戻ることになると思ったのだ。
 実際、ダージルもグレイスを起こしてしっかり立たせてくれた。
 体が離れて、グレイスはもうひとつ、ほっとする。ダージルは背が高いので、樹に引っかかったストールに難なく手が届いたようだ。引き寄せて、無事に確保した。
「あ、ありがとう、ございます……」
 そのまま渡してくれると思ったので、グレイスは手を出しかけたのだけど、ダージルの行動は違っていた。
 ふわっと、グレイスの髪の上にストールがかけられたのだから。グレイスはきょとんとしてしまう。
「雨がかかるといけないからね」
 言われたことには納得したけれど。確かに雨除けにはなるだろう。
 でも屋敷はすぐそこなのだから、走れば……。
 しかしすぐに思いなおす。
 走るなんて、婚約者の前でできるものか。そんなお転婆。
 ずきっと、グレイスの胸が痛んだ。
 樹にのぼることも、走ることもできない。なんと窮屈なことか。
 こんな行動、ちっとも自分らしくない。その実感に。
 グレイスの様子をどう思ったのか。ダージルが目を細めた。もう一度、手が伸ばされる。
 グレイスの頬に、やわらかなものが触れた。今日は手袋をしていない、ダージルの手。
 その感触に、何故か。グレイスの体はぞくりとしてしまったのだった。
「まるでウエディングヴェールだね」
 ヴェール。
 すぐにはわからなかった。知らないはずではないのに、すぐ連想ができなかったのだ。
「とても綺麗だよ」
 ぼうっと聞くしかなかったグレイスだったが、その頬が軽く撫でられた。それはちっとも乱暴なんてものではなく、むしろ優しすぎるもので。
 なのにグレイスが感じたのはぞくぞくする感覚、だった。
 これは、まさか、そういうことが。
 不安がどんどん濃くなっていく。そしてグレイスの予想した通りになった。
「その日が楽しみだ」
 撫でられた頬。包み込まれて、そっと顔が近付けられる。
 ぐぅっと近付いた顔同士。
 目を閉じようと思った。けれど閉じる前。ちらりと見えてしまったもの。
 ……青の瞳。
 どくんっとグレイスの胸が高鳴った。一瞬で体に悪寒が走る。
 これは、ちがう。
 本能の部分でかそう感じ、グレイスは無礼などとも考えることができず、身をよじっていた。
「……っ!」
 なんとか声を出すのは堪えた。けれど振り払う手は止めることができなくて。
 ぱしっと。
 ダージルの手に触れ、触れていた手が離される。