「ええ。終わっているわ」
「良かった! じゃあ一緒に行けるわね」
夏のはじめには、親戚と共に一週間ほど避暑地に旅行に行くのが毎年のことであった。一番近しくて仲のいいマリーと一週間も一緒に過ごせるのだから、きょうだいのいないグレイスには毎年とても楽しみにしていたことである。
「楽しみね! なにかいいところは増えているかしら。去年、湖で乗ったボートは随分楽しかったわね」
「ええ! まるで海を泳いでいるようだったわ」
海は見たことがない。この領にはないのだ。けれど勿論、存在は知っている。たっぷり水をたたえていて、広々していて、そしてそこを船でゆけば、別の国に辿り着くのだと。
世界はグレイスの知っているところより、随分広いものなのだ。それを見ることは叶わずとも、その体験のようなことでもできたのは楽しくてならなかった。
避暑地の遊びについて話しているうちに、こんこん、とサンルームの扉が鳴った。
グレイスは「はぁい」と明るい返事をする。入ってきたのは予想通り、フレンだ。
「お嬢様、マリー様。そろそろランチのお時間ですよ」
昼食に呼びに来てくれたのだ。
「まぁ、もうそんな時間」
「時間も忘れていたわね」
グレイスは驚いた。マリーも同じだったらしい。話に夢中になりすぎていた。
顔を見合わせて、くすっと笑ってしまう。
「今日はシェフが特に力を入れてくれたそうですよ。マリー様がいらっしゃるのですからと」
「そうなの! ここのシェフは腕がいいわね。いつもおいしいものを出してくれるもの」
「おや。それは嬉しいですね。厨房に伝えておきましょう」
マリーとフレンがそんな話をする。グレイスはまだ席に着いたまま、それを見守っていた。顔には笑みが浮かんでいる。
マリーと話したことで、少し気持ちが楽になった。思考の整理もできたと思う。そしてそれだけではなく、来月の旅行という楽しい話題。それによって、もっと気持ちは浮上した。マリーには感謝しなければだ。
「私もお腹が空いたわ。参りましょうよ」
マリーに言って、グレイスは席を立った。マリーもいそいそと立ち上がる。
今日、マリーはランチを食べて、夕方前に帰る予定になっていた。まだ三時間ほどは時間がある。ランチを食べても遊ぶ時間はたっぷり。
次は自室でなにかしようかしら。マリーに少し大人っぽく見えるコーディネートを教えてもらうのもいいかもしれないわ。
このあとのことももっと楽しみになってきて、グレイスはマリーやフレンと連れ立って、まずはおいしいランチをいただくために、サンルームを明るい気持ちであとにしたのだった。
謹慎中とはいえ、それはただ家の中だけのこと。外でのこなすべきことはそのまま進んでいった。なにしろ一番重要なことがあったのだから。
それはダージルの元を来訪するという予定である。
婚約の儀はオーランジュ家とその傍の教会で行われたので一度お邪魔したことはあったのだけど、個人的に、といっていいような来訪はまだであったのだ。
よってグレイスはある天気のいい日に馬車に乗り、オーランジュ領まで向かった。勿論グレイス付きのフレンも一緒にである。
馬車に共に乗り、おしゃべりをしつつ向かったのだが、その道中は意外と穏やかであった。先日マリーと楽しく過ごしたことでグレイスの気分は上向いていたらしい。
特に恋もしていない婚約者に会うというのはあまり嬉しくはないのだが、これとて務めのひとつ、くらいに感じられるようになっていた。
「いらっしゃい、グレイス。歓迎するよ」
そして迎えてくれたダージルは常の通り、にこにこ微笑んでいた。
どうやらダージルのほうからはグレイスを気に入ってくれたようなのだ。呼び方もより近しいものになっていた。それは喜ばしいやらちょっと複雑やらなのだけど。
ダージルから気に入られなければ、向こうからお断りとなった可能性はあるのだ。それは家のこととしては困るものの、グレイスの心情的には助かるものなのだから。
「お招き感謝いたします、ダージル様」
グレイスは招き入れられた客間のソファから立ち上がり、スカートを持ってお辞儀をした。
お出掛け用の服の中では一番いいものを着てきた。今日のために仕立ててもらったものだ。レースがふんだんに使われている、濃い青色のドレス。そろそろ暑い時期なので涼し気でぴったりだ。
隣にはフレンが控えていて、彼も軽く礼をしたようだった。
「遠くから疲れただろう」
しばらくお茶をしつつくつろぐことになり、ダージルはグレイスの対面の椅子に座り、話しはじめた。話す内容は他愛もないことであったけれど、グレイスはそれをすべて覚えられるように注意して聞いていた。
覚えておいて、次に会って話すときに生かせるようにしなくては。まさか聞いていなかったと思われるわけにはいかないからである。
出されたお茶は薫り高くておいしかった。家で飲むものも高級品なのだが、これもきっとそうなのだろう。
ダージルは成人してしばらくするので、今は領主である父から仕事や社交を習っているところなのだとか、だからこそアフレイド家に入り婿をしたとしても、それほど仕事に苦労はしないだろうとか話していた。自信の溢れた内容で言い方であったけれど、グレイスは思った。
この方はプライドが高いのかしら。それとも自信を疑わないタイプなのかしら。
高圧的ではないけれど、少々酔ったような物言いだわ、と感じたのである。
貴族の息子としてはなにもおかしなことではないのだろうけれど、グレイスにとって身近で特別な男性、フレンのことを考えてしまっては、あまり好印象ではなかった。
何故ならフレンはいつでも丁寧で、腰が低く、優しい物言いをするからである。そういう相手を好きになったのだから、そうでない、ある意味真逆ともいえるダージルのことは違和感を覚えても仕方がなかったかもしれない。
「ああ、あまり部屋にこもっているのもつまらないだろうね。なにしろ良い天気だ。庭でも散策するのはどうかい」
提案されて、グレイスはほっとした。ちょっと空気に疲れていたところだったのだ。
「そうですね。お邪魔してみたいです」
グレイスが良い返事をしたからかダージルはにこりと微笑み、立ち上がった。グレイスの近くまで来て手を差し出してくれる。
「さぁ、お手をどうぞ」
グレイスは一瞬、戸惑った。白手袋をしたダージルの手。取るのがためらわれたのだ。男性に手を伸べられるなど慣れているのに。
それは勿論フレンに、だ。でもこれからはフレンではなく、ダージルが手を伸べてくれることのほうが多くなるのかもしれない。それを実感してしまって、ずしりと心が重くなった。
おまけにフレンは今、ソファの傍らに控えてくれていたのだ。これを見てどう思っただろう。
けれど取らないわけにはいかない。グレイスは意識して笑みを浮かべて「ありがとうございます」とそっと手を乗せた。
さらりとした手袋の感触が伝わってくる。普段触れる手はとても心地良く、グレイスの胸を高鳴らせるものなのに、今のものはかえって心を落ち込ませてしまうようなものだったけれど。
「最近は薔薇が見頃なのだよ。赤や白などたくさん植えさせている」
「そうなのですね。とても美しいです」
連れ立って庭を歩く。確かに庭はとても美しかった。グレイスの家の庭とは比べ物にならないほど広く、また豪華であった。まるで王族の住まう王宮の庭のようである。
ツタの絡んだアーチをくぐれば、薔薇が咲き誇る中を歩けるようになっている道ができていた。そこをゆっくり歩いて話を続けていった。今は手は取られなかった。腕も組まなかった。
それは安心であったが、なにしろ二人きりである。
フレンや、もしくはダージルのお付きもおいてきてしまったのだ。
婚約している男女なのだ、ここで二人きりにならずしてどうするのだ、ということ。
しかしグレイスは緊張してしまっていた。当たり前だ、身内や使用人以外の男性と二人でこんな場所を歩くなどしたことがない。初めての経験なのだ。
ただ散歩をしているだけなのに、ちっとも落ちつけないし、美しいですねと言った言葉すら、事実ではあるものの定型文のようになってしまっていた。
グレイスの緊張はどうも伝わってしまったらしい。ダージルはグレイスのほうを見て、「あまり気を張らなくても良いよ」と言ってくれた。気を使わせてしまった。グレイスの胸が痛む。
それはダージルを気づかって、というよりも、嫌な印象を与えてしまっただろうか、という不安だったのだけど。
ダージルの話に耳を傾けつつも、なるべく薔薇の美しさに集中するようにする。
薔薇は好きだった。特にピンクの薔薇が好きなのだ。元々ピンク色を好んで服もそういう色合いのものが多くなっているし、なんとなく優しい雰囲気を持っていると感じるのだった。
と、そこへ高い声が響いた。
「きゃん、きゃんっ」
それはひとの声ではなかった。動物だ。
なにか動物がいるらしい。こんな、手入れされた庭で野生動物ではないだろう。
もしかしてなにか飼われているのかしら。グレイスは思い、ちょっと警戒してしまった。
動物自体は苦手ではない。けれど苦手な動物がいるのだ。それであったら嫌だな、と思ったのだけど。ことはグレイスにとって困ったほうへ転がってしまった。
「おお! リモーネ! お散歩中かい!」
ダージルはいきなり高い声を上げた。ばっと両手を広げる。
グレイスは思わずきょとんとしてしまった。来た動物が『リモーネ』という名前らしいのはわかる。けれどダージルのこんな様子は初めて見たのだ。
目がきらきら輝いていて、満面の笑みだった。しかもここまでの様子とまったく違う。グレイスをエスコートしてくれているときとは、まったく。
ダージルの声に反応したように、茂みががさがさっと鳴り、ばっと姿を現したもの。
「……っ」
思わず悲鳴をあげるところだった。なんとか呑み込んだが。出てきたのは大きな犬だったのだから。白い毛並みで、グレイスの腰のあたりまでくるほどの大型犬。
とてもかわいらしい……と言いたいところだったが。
グレイスにそれは難しい。グレイスの苦手な生き物。それは犬、なのであるから。
リモーネ、と呼ばれた犬はたったっと走ってきて、ダージルに飛びついた。ダージルも満面の笑みでそれを受けとめる。
「きゃん、きゃん!」
リモーネが喜び、また興奮しているのは明らかだった。それは微笑ましいと言えるものであっただろうけれど、グレイスは今すぐこの場から逃げ出したくなった。心臓が嫌な具合にばくばく打つ。
犬が苦手なのは、単純なこと。子供の頃に飛びかかられて、噛みつかれそうになったからだ。そんな怖い体験があって、好きになれるはずがないだろう。
来ないで、こちらには。心の中で必死に念じた。
幸いリモーネはダージルにじゃれることに夢中になっていて、グレイスのほうはちらりとも見なかった。
「こらこらリモーネ、くすぐったいぞ!」
リモーネはその体格の良さも手伝って、ダージルを倒さんばかりだった。なんとか踏みとどまっていたダージルだったが、そのうちぐらっと体が傾いた。
危ない!
違う意味でグレイスの心が冷えたのだけど。
どさっ!
大きな音と共に、ダージルは地面に倒れ込んでいた。
た、大変! ひとを呼ばないと!
心の中でグレイスは叫んで、すぐに声を出そうとしたのだが。目の前の光景にその声は出てこずに呑み込まれてしまう。ダージルは心底嬉しそうな表情を浮かべていたのだから。
「困った子だ! そんなに俺が好きかい!」
リモーネの体に手を伸ばしてわしゃわしゃと撫でる。その表情は崩れていて、なんというか……デレデレ、といっても良いものであった。グレイスはあぜんとした。
ダージルのこんな様子も言葉遣いも、見るのが初めてだったのに決まっている。
なんなんでしょう、この方は、先程まではあれほど紳士的だったのに。
でもきっと、これが素……。
胸の中でグレイスはそのように思い、ぽかんとしてしまった。
嫌悪感より、犬に対する恐怖より、驚きがもはや勝っていた。
「あ、あの……ダージル、様……?」
なんとか言った。グレイスのその言葉にやっとダージルはこちらを見てくれた。
しかし勿論、地面に転がったままである。おまけに笑顔のままだった。
つい素を晒してしまったようなのだ、気まずげになるかと思ったのだが、そんなことはちっともない。そんな顔だった。
「ああ、すまない……リモーネ、退いておくれ」
ダージルが声をかけると、リモーネは残念そうな様子を見せたものの、大人しく引いた。
ダージルはそのまま立ち上がって、上等な服をぱんぱん、と払った。けれど土の上に倒れたのだ。汚れはしっかり残ってしまっている。
「すまない、つい興奮してしまって」
興奮。犬に……リモーネに、に決まっている。
グレイスはなんと言ったものかわからなくなった。
だって、この様子ではダージルは犬好きに決まっている。そしてグレイスは犬嫌い……。
これは。
厄介な……こと。
なのでは。
グレイスは一文一文、この嫌な可能性を噛みしめるしかなかった。
「紹介しよう。俺……あ、いや、私の飼い犬のリモーネだ」
だいぶ遅い気がしたが、ダージルはリモーネを紹介してくれた。
リモーネも自分が話題になったのはわかったのだろう。グレイスのほうを見た。
金色の目をしていた。レモンのような色で、それでリモーネという名前なのかもしれなかった。
グレイスには名前など気にしているところではなかったが。なんという名前でも種類でも、犬であることに変わりはないのだから。どの犬だって同じである。
「そ、そう、なのですね……よ、よろしくお願いします……リモーネさん……」
でもなんとか言った。おそるおそるになったが。
リモーネが名前を呼ばれたことにか、吠えた。きゃんっと大きな声で。これには隠すことはできなかった。グレイスは、ひっと、口にこそ出さなかったものの体を数ミリ引いてしまう。
「……グレイス?」
この様子を流石におかしいとダージルは思ったらしい。怪訝な声を出した。
「犬は……苦手、なのかい……」
言われてしまった。グレイスの心臓がひやっとする。婚約者の愛犬が苦手など。失礼に決まっていただろう。別にリモーネが嫌いなのではなく、犬が嫌い、なのだが。
「す、すみま、せん……子供の頃、ちょっと……」
しかしこんな様子で「いえ、平気です」なんて嘘がつけるものか。グレイスは観念して本当のことを言うしかなかった。
グレイスの返事にダージルは明らかに『気落ちした』という顔をした。それはそうだろう、あれだけ嬉しそうに愛玩していたのだ。グレイスにも気に入ってほしかっただろうから。
けれど幸い、ダージルは優しかった。
「そうなのか。いや、気にしなくていいよ。誰しも苦手なもののひとつやふたつあるだろう」
完全にフォローであったが、今はそれに甘えるしかない。
「すみません……」
グレイスはしゅんとしてしまう。これでは嫌われてしまうかもしれない。そんな不安が胸に膨れたのだ。
「いやいや、私こそ知らなかったとはいえ、すまなかったね。……リモーネ、小屋にお帰り」
ダージルはちょっと惜しそうな声をしていたが、リモーネにそう言った。リモーネは言葉と言われた内容がわかったらしく、きゃん! とまた鳴いて、そしてたったっと駆けていってしまった。
残ったのは気まずい空気。仕方がないこととはいえ。
そのあとも散歩は続いたのであるが、最初の空気は消えてしまっていた。グレイスの胸の中があまり快くなかったのは、言うまでもないだろう。
そのあとはランチをいただいた。ダージルと、そのご両親とだ。
グレイスは勿論、気を張ってしまっていて、正直料理の味などよくわからなかった。家で食べているものもそれなりに上質なのだが、それよりもっと豪華であり、またおいしい食事だっただろうに。
午後も同じようにダージルやご両親との交流で過ごし、夕方やっと帰路につくことになった。ご挨拶をして馬車に乗る。
馬車に乗るときはフレンが手を差し伸べてくれた。彼はグレイスの傍についているとき以外は使用人室かどこかで待機していてくれたらしい。
差し出してくれた、その手。ほわっとあたたかかった。グレイスはその手を取った瞬間、安堵が溢れてしまった。お招き中、ずっと張っていた気持ちがするするとほどけていったのだ。
不思議なことだと思う。ただ、手に触れただけなのに。
今日触れられたダージルの手とはまるで違っていた。グレイスに安心を与えてくれる手だ。
馬車の席に落ちつき、やがて馬車は発車した。がらがらと車輪が音を立てて道をゆく。上等な馬車なので振動は最小限だけれど。
やっと家路につけて、グレイスははぁ、とはっきりため息をついてしまった。
隣に腰掛けているフレンがちょっと顔を覗き込むような様子を見せる。
「お疲れ様でした。お気を使われたでしょう」
その顔には微笑が浮かんでいて、グレイスを安心させようとしてくれているのが伝わってきた。グレイスはそのフレンの笑みにもほっとしてしまう。
「ええ……やはり大変だったわ」
「そうでしょう。お屋敷に帰ったらお茶を淹れますね」
「ありがとう。ロイヤルミルクティーがいいわ」
「かしこまりました」
そんなやりとり。日常のやりとり。
今まで当たり前のようにあったもの、そしてそれが世界のすべてだったもの。
でもこれからは違うのだ。
ダージルの屋敷にはこれからもちょくちょく訪ねることになるだろうし、あの家にお嫁入りとはならないけれど、ダージルがグレイスの元へ入り婿にやってくるのである。
今までと同じように、好き勝手に奔放に、は、きっとできなくなる。それをカケラだけでも感じてしまって、既に憂鬱だった。
でも今、そんなことを言うわけにはいかない。言わなくてもフレンはよくわかってくれているだろうし。
「あのね、ちょっと困ったことがあって」
グレイスは今日あったことで一番の問題を話題に出した。
これは言って構わないだろう。今、言わなくてもきっといつか知られてしまうだろうし。
「おや。なんでしょう」
フレンはちょっと首をかしげた。
「その……ダージル様は犬を飼ってらしたの」
グレイスのそのひとことだけで、フレンは事態を理解してくれたらしい。目を丸くした。
「なんと……それはちょっと、困りますね」
「ええ」
フレンがグレイスの犬嫌いを知らないはずがない。そもそもグレイスが犬に襲われたとき、助けてくれたのはフレンなのだから。よく知っているに決まっている。
「それで、溺愛されているようで……その、なんと言ったら良いかしらね。なんだか意外なお顔だったというか……」
流石に、犬に押し倒されて地面に転がっても満面の笑みだったとは言えない。グレイスは言い淀んで、誤魔化してしまった。
フレンには『誤魔化した』とはわかってしまっただろうが、言いにくいことだったからだというのもわかってくれたらしい。小さく頷いた。
「飼い犬様を愛してらしたのですね」
「まぁ……ええ。そういう様子で」
とりあえずそこが伝わればいいのだ。ほっとしてグレイスも頷いた。
「そうですか……。好ましく思われませんでした、か?」
心配そうな声でフレンが訊いてきた。今、馬車の中は二人なのだ。ついてきたほかの使用人たちは別の馬車に乗っているのだし、御者は馬車に誂えられた部屋の外。はばかることはない。
「ん……よくわからないわ」
グレイスはちょっと考えて、曖昧な返事をした。
確かに驚いた。けれど人間、良い面ばかりではないのだ。意外な一面だとか、ちょっと困った面だってあるだろう。だから、そういうもののひとつを見ただけで『嫌』とも言えやしない。
「そうですよね。まだお互いのことをよく知っているとは言い難いですものね。これから色々とあるでしょうし」
フレンもそれだけで済ませてくれた。グレイスはほっとする。
同時に不安にもなったけれど。