従者は永遠(とわ)の誓いを立てる

 あたたかな体温が伝わってくる。とくとくと速い鼓動も。
 なに、これは、いったい。
 ぼんやりと、グレイスは追いつかない思考の中で呟いた。
「良かった……良かった、です……ご無事で」
 フレンの声は震えていた。涙声にも近い。
 ただ、グレイスはそれをはっきり認識することはなかった。
 彼の腕に抱かれている。そればかりが大きく心と体に迫ってくる。
 どく、どく、と違う意味で心臓が騒ぎだす。熱い血を体中に巡らせるように。
 そのとおりに、かぁっと体が熱くなった。
 そのうち、そっと体は離されてしまった。代わりにフレンの瞳がグレイスを覗き込んでくる。
 グレイスはされるがままになるしかなく、翠色をしたそれをぼんやりと見つめ返した。
「帰りましょう」
 ふっと、フレンの目が緩む。
 その瞳を見て、やっとグレイスにまともな思考が戻ってきたのかもしれない。まだ震えるくちびるを開いて、やっと言葉を押し出した。
「……ごめん、なさい……、フレン」
 裂かれたシャツの上にフレンの上着を着せられて、待機していたらしき馬車に乗せられた。そして屋敷へと連れ帰られたのである。
 なにが起こるのかはわかっていた。勿論、父の叱責である。
 それでも服や身がこんな状態だ、一旦部屋に返された。フレンがメイドにグレイスを引き渡す。
 あとはメイドたちの仕事。バスルームへ押し込まれて、服を脱がされて、湯をかけられた。
 街では普通に歩いていただけとはいえ、石壁の穴をくぐったときに地面を這ったので、土が少しくっついていた。まずは汚れを落とすということだ。
「まったく、お嬢様……大胆なことをなさって……」
 中心になってくれている、メイドのリリス。ちょっと呆れたようにグレイスにシャワーの湯をかけていく。
 リリスはじめ、メイドたちにはグレイスが良からぬ男たちに捕まるところだったということは聞かされていないだろう。単に『抜け出して街へ行った』としか把握していないようだった。
 服だって、フレンが「引っかけて破ってしまったそうです」と言い訳してくれたので、それを信じられた模様。
「……ごめんなさい……」
 あたたかい湯は気持ち良かった。グレイスは心がほどけていくのを感じながら、謝った。
「いつぶりでしょうね。お嬢様の『お転婆』は」
 それは今回と同じように、屋敷を抜け出して街へ行ったことを示していた。確かに以前にもあって、そしてそのときもフレン、メイド、そして父に呆れられたものだ。
 いや、父からは呆れるより怒りであったが。娘が危険を冒して街などに行けば当たり前であろうが。
 でもグレイスが『お転婆』をしたのは一度や二度ではない。途中で捕まってしまった幼い頃をカウントすれば、一体何回あるか。あまり良くはないことだが、メイドたちも「またか」という反応であった。
 グレイスの気持ちも少しは察してくれているのだと思う。
 男爵家のお嬢様として、自由に遊びに行くこともできない身。生まれたときからそういうものだとはいえ、息が詰まることもあるだろうと。
 おまけに婚約に関する、連日のこれである。許してくれるはずはないが、「仕方ない」とは思われているらしい。
 もっとも、今回ほど危険な目に遭ったと知れば、「もうなさらないでください」と泣かれたかもしれないが。
 心配をかけてしまった。グレイスは改めて反省した。
 体も髪も綺麗にされて、浴槽で少しお湯に浸かって。普段通りの服を着せられた。
 キナリ色のお気に入りのワンピース。普段の自分の格好。
 特になにも思っていなかった、いや、かわいらしくて好きだと思っていたのに、あの服のあとではちょっと窮屈な気持ちが浮かんでくる。そんなことを言える立場ではないのだが。
 さて、このあとは叱責が待っている。父から直々のお叱りだ。
 メイドに付き添われて、グレイスは憂鬱な気持ちで父の部屋へ向かったのだった。
「馬鹿者! なんということをしてくれたのだ!」
 入って早々、雷が落ちてきた。グレイスは身を縮めるしかない。
「申し訳ございません」
 謝ったものの、それだけで許されるはずはなかった。父は「良い歳の娘が」だの「男爵家令嬢としての自覚が」などと、くどくど説教をはじめた。
 グレイスに口ごたえなどできるはずもない。はい、はい、すみません。と、おとなしくそれを享受した。
 不意に、こんこん、と扉が鳴った。父は一旦言葉を切って、「入れ」と許可を出す。
「失礼いたします」
 入ってきて一礼したのはフレンだった。グレイスは違う意味で憂鬱になった。
 一体どこまで話されるというのか。内容によっては雷がもっと大きくなるだろう。
 でもわかっていた。取り繕うことはできない。
 何故なら、グレイスの捜索に自警組織が動いていたからだ。そこを誤魔化すことができるはずもない。
 いくらフレンがグレイスの全面的な味方という立場の従者でも、できることとできないことがある。それに、フレンとて怒っていないという保証はないのだ。いや、怒って当たり前のことなのであるが。
「グリーティア。事の顛末を聞かせてもらおう」
 父は怒りを押し殺している、という顔と口調でフレンを見る。
 フレンに非があろうはずはない。すべてグレイスが勝手にしたことである。
 おまけにフレンは今日、公休だったはず。グレイスは今更そのことを思い出した。事前にチェックして、休みだからこそ今日を選んだというのに。
 つまり、公休のフレンはグレイスの傍に一日ついていない日であったのだから、監督不行き届きと責められるいわれもないのである。
 しかし、父の怒りはフレンに向いているものではなさそうだった。
「はい。自警組織に指示を出し、街中の捜索を……」
 フレンが話しはじめたのは、グレイスを見つけるために動いてくれた自警組織への指示と、自分の動向についてであった。淡々と説明していく。
「……賊の捕縛はすべて完了。領主様よりご処分を」
 説明の最後に、フレンは胸に手を当て、一礼した。父はそれをすべて聞き、組んでいた手の上に額を押し付けて、はぁ……とため息をついたが、すぐに顔をあげた。
「……わかった。あとは私が処理しよう」
 話は一旦、区切りがついたようだ。けれどグレイスが安心できるのはまだだった。
「グレイス。先日十六になっただろう。もう大人といっても良いのだぞ」
「……はい」
 話の矛先がどこへ行くのか。グレイスはそれで察した。良い大人としてなんということを、である。
 そしてそのとおりのことをくどくど責められた。グレイスは首を縮めて聞くしかない。
 確かにその点に関しては、少々軽率だったといえる。もう、子供の悪戯で済むことではなかったのだ。大人として、ひとに……フレンや自警組織、そして勿論、父に心配をかけ、手をわずらわせてはいけなかったのに。
 グレイスの心が沈んでいく。婚約の話から誕生日パーティーでの婚約発表。
 それらが怒涛のように起こって、気持ちがくさくさしていたのが原因だ。気を晴らしたかった。
 けれどだからといって、して良いことにはなりはしない。見つからなければ良い、などというのは軽すぎる観測だったのだ。今日、遭った事件でグレイスはやっと思い知った。
 街は楽しくて自由なだけの場所ではない。今までこのようなことがなかったのは、単に運が良かっただけなのだ。
 それをやっと思い知った。危険な目に遭ってから理解するなど、馬鹿だったと思う。
「……申し訳ございません」
 心から反省し、涙もうっすら浮かんだ。それを見て、父はもうひとつため息をついて、そこでおしまいにしてくれた。グレイスが素直に反省したのは伝わったのだろう。
「これでおしまいにしておく。だがお前に処分なしとはいかない」
 それは当然のことだ。ここまでの騒ぎを起こしておいて。
「来週の外出は取り止め。そして今月中は謹慎だ。たとえ親戚の屋敷でも許可は出さん」
 ただ、父はグレイスに甘いほうである。よって、この程度の『処分』で許してくれることになった。グレイスとしては、だいぶほっとした。
「かしこまりました」
 謹んでそれを受け、グレイスはやっと解放された。けれどまだおしまいではない。肝心なことが残っている。
 すなわち。……助けにきてくれたフレンからのお叱りが、である。
 部屋へ戻されて、グレイスはちんまりとソファに腰かけていた。
 フレンはもう少し父と話があると言っていたがそれが終わればこちらへ来るだろう。その来訪を待つように言われていた。
 待つように言われずとも、謹慎は既にはじまっているのだから、グレイスは部屋で静かにしているしかなかったのであるが。
 ぼうっと先程の反省を反芻した。主にこれから来るであろうフレンについて、である。
 公休のフレンがどうして来てくれたのかはわからないが、それだけことが重大であったから呼び出されたのかもしれない。そうであれば、休みを邪魔してしまったことになる。
 それだけでも申し訳ないのに、多大な心配をかけて。
 おまけに男たちにナイフを振るったこと。気分など良くないだろうに。
 フレンのナイフの腕は確かなもので、護身術として身に着けたものだという。それは自分の身を守るものという以上に、グレイスを護るための『護身術』という意味だ。
 でも護身術など使わないほうがいい、使う場面になんてならないほうがいいのだ。それを自分は、自分からそんな危険を冒してしまって。一体どこから謝ればいいのかわからない有様であった。
 あれそれ考えているうちに、扉が鳴った。こんこんと軽い音を立てる。
 来た。フレンだ。
 グレイスは流石にびくりとした。それでも拒むわけにはいかないので、「はい」と返事をする。
 返ってきたのは当たり前のように「私です」というフレンの声。
 どくりと胸が鳴るのを感じる。今はあまり良くない意味、で。
「失礼いたします」
 入ってきたフレンはカートを押していた。お茶の支度が乗っている。
 それを見て、グレイスは理解した。それなりの長さになるのだ、フレンからの『話』は。
 これまでもそうだった。フレンからのお叱りがあるときには、大概紅茶が出てくる。味わう余裕はあまりないのだったが。
「お嬢様、ひとまずお茶でも」
「……ええ」
 からからとカートはグレイスのソファの傍まできて、すぐに紅茶が入った。すでに抽出された紅茶がポットに入っていたらしい。
「どうぞ」
 かたりと小さな音を立てて、ソーサーがローテーブルに置かれる。グレイスは「ありがとう」とそれを手に取った。
 ほっこりとあたたかな温度が伝わってくる。それに、一連の騒動以来、水分を取っていなかったのだから喉も渇いていた。
 熱い紅茶に息を吹きかけて、火傷をしないように気をつけつつ飲んでいく。喉が渇いていたせいで、すぐに飲み終えてしまった。
 フレンのほうをちらりと見ると、フレンは困ったように、でも笑みを浮かべてくれる。
「お代わりを」
「……ありがとう」
 フレンにカップを渡すと、すぐにお代わりの紅茶が注がれた。それが改めてソーサーに乗る。お代わりを半分ほど飲んで、喉も落ちついた。
 ほう、と思わず息をついたグレイス。それでグレイスが少し落ちついたのを悟ったのだろう。
「まったく、久しぶりに『お転婆』をなさったものですね」
 フレンが呆れたような声で話を切り出した。
 フレンはグレイスの従者で、使用人ではある。しかし教育係でもあるのだ。
 よって、こういうときにはお説教をする権限を有している。母の亡いグレイスは半ばフレンに育てられたようでもあるので、お叱りを受けるのが初めてであろうはずもない。
「ごめんなさい」
 全面的に自分が悪いことなどもう散々身に染みていたので、グレイスは素直に謝った。けれど謝ればすぐに許してもらえることであるものか。
「領主様が色々とお叱りをされましたから、私から同じことは申しませんが。もう少し、ご自分を大切になさってくださいませ」
「……ええ」
 フレンが言ったのはそれだけだった。グレイスがすっかり反省したのは伝わったらしい。
 それでも謝るつもりで、グレイスは疑問点を口に出した。
「あの……フレンは今日、お休み、だったのよね?」
「それをご存知でたくらまれたのだと存じますが」
 そろそろと言ったことにはちょっと睨まれた。グレイスの企みなどお見通しであったわけだ。
「……ええ、……はい。ごめん、なさい……私のために、来て、くれたのでしょう……」
 休みを奪ってしまったことを謝る。フレンはひとつ息をついた。
「そうですね。領主様に代休をお願いせねば」
 確かに、このような事態で呼び出されることになったのだから、フレンは責められるどころか、むしろ被害をこうむっているといえた。父とて、あっさりと代休許可を出すだろう。
 グレイスはもう一度謝ることになる。しかし、まだお叱りは終わらなかった。
「もうひとつ。お嬢様に反省していただきたい点がございます」
 フレンの言ったことは曖昧だったので、グレイスは首をかしげた。
 もうたくさん反省したし、これ以上の反省点はわからない。
「え、……ええと……?」
 疑問の声が出てしまった。グレイスが『わからない』と思ったと察したのだろう。フレンは、ふっと表情を崩した。ちょっと悲しそうな顔になる。
「来週の外出。謹慎で、なくなってしまわれたでしょう」
「ええ……」
 そのどこが反省だというのか。自分の自業自得だ。
 グレイスがまだわからないという顔をしたからか。フレンは困ったように笑う。
「私は、随分楽しみにしていたのですよ」
 フレンの悲しそうな表情の意味。グレイスは理解した。
 理解、したが……。
 直後、信じられない気持ちになった。
 フレンが?
 楽しみに?
 してくれていた?
 それは勿論、遊びに行けることではないだろう。フレンはお付きとして来てくれるのだから。
 でも、この言い方ではまるで『グレイスと遊びに行ける』ということを楽しみにしていたようではないか。
 いえ、そんなことはただの思い上がり。きっと違う意味……。
 グレイスは動揺しつつも自分に言い聞かせたのだけど、胸が高鳴ってしまうのはどうしようもなかった。
「そ、……そうなの。それは……」
 それはすまなかったわ。と、言うつもりだった。とりあえず、楽しみをふいにしてしまったのだからそこは謝らないと、と思って。
 けれどその言葉は出てこなかった。フレンがグレイスの傍らに屈んで、その手が伸ばされたのだから。ワンピースの膝に重ねていたグレイスの手へ。
「せっかくのお嬢様と二人でのお出掛けだったのです。あそこへ向かいましょう、お食事はなにをいただきましょう、と考えて……」
 グレイスは目を丸くしてしまう。このような言い方。まるで、……。
 ……まるで、恋人同士の、デートのよう。
 フレンがこのような物言いをしたことは、今までなかったと思う。あくまでも『お付き』としての言い方だったのだから。
 その違いに戸惑うやら、漂ってくる、なんだかほの甘いような空気を感じて胸が高鳴ってしまうやら。
 目を白黒させるしかなかったグレイスであったが、フレンがふと、触れていた手をそっと握ってきた。白手袋の手で、グレイスの手を包み込む。
「ですから、私もお嬢様から『代わり』をいただいてもよろしいですよね?」
 理由はわからないものの、求められたことはわかる。
 その提案は、グレイスの胸を、かっと熱くした。顔まで赤くなったかもしれない。
「そ、……れは……お出掛け……?」
 やっと言ったのに、フレンは当たり前のように肯定する。しかもその言い方が。
「ええ。特別な、ですよ」
 追いうちまでかけられたようだった。念を押すように、グレイスの認識を促すような言い方で言われる。
「……わかった、わ」
 返事などそれしかないではないか。グレイスはやっと答えた。
 妙に空気があたたかい。それは包まれている手から生まれているような気がした。
「ありがとうございます。……さて、ではおしまいにいたしましょう」
 フレンはにこっと笑った。もう、困ったような顔もしていない。
 本当に話を終えて、許してくれるつもりなのだ。まだ戸惑いが去らないグレイスだったが、フレンはさっさとお茶の支度を片付けはじめてしまう。
 なにか言おうと思った。
 それはどういう意味、とか、どうして私と、とか、楽しみだったのは何故、とか。
 聞きたいことなどたくさんあって。でもそのひとつもグレイスの口からは出てこなかった。
 そんなこと。自分が欲しい答えなどひとつしかないからである。
 そして、それ以外の答えであれば、落ち込んでしまうのは確かだったからである。
 よって、出てきやしなかった。
 グレイスの内心などフレンが知る由もない。お茶の支度はすべてカートの上へ回収されて、フレンは「では」と退室の意を示した。