うきうきとグレイスは街を行く。そろそろ昼時にさしかかろうとしている街は活気に溢れていた。昼休み、というひとたちもいるのだろう。食べ物の店が賑わっているように見えた。
早めに、街へ来てすぐに食事の店に入ったのは良かったことだったようだ。
グレイスは街の様子でそのように思った。
あまりきょろきょろしてしまうのは街中に慣れていないと思われてしまうかもしれない。
よって、気をつけながらグレイスはそれでも街中のあちこちを見てしまった。
たくさんの店が並んでいる。露店もある。果物、野菜、あるいは雑貨のようなものが並んでいた。
行き交うひとたち。大人も子供も楽しそうに見えた。
ここは良い街のよう。グレイスは感じて、なんだか嬉しくなってしまった。
この街は父の領の管轄内。そこに住むひとたちが楽しそうに、それなりに豊かそうにしていてくれるというのはやはり。そこでちょっと思ってしまったけれど。
もし私が。ダージル様との婚約が、無事結婚までこぎつけて、ダージル様がここの領主になって、私が奥方になったのなら。この平和そうな街を維持することができるだろうか。
その思考はグレイスの思考を少しだけ曇らせた。あまり考えたくないことだった。自分の約一年後のことについては。婚約を受け入れておいて今更であるが、結婚の実感はまだない。
そのあとどうなるかもわからない。先行きの不透明さと不安さは確かにある。
ちょっとだけ思考に沈んでしまったけれど、そこへ大きな音が聞こえてきてグレイスは顔をあげた。シャンシャン、と楽し気な音がする。なにか、派手な格好をしたひとたちが楽器らしきものを持って向こうからやってきていた。
「旅芸人よ!」
「明日の催し、行かない?」
そばにいたひとたちも足をとめて、そんな話をしていた。旅芸人、というものはわからないけれど、芸、というからにはなにか、能力を披露してひとを楽しませるのだろう。グレイスはそのように予想した。そして週末に、その芸を披露してくれる催しとやらがあるようだ、と。
見てみたいと思った。そんなものは見たことがないし、街のひとたちも楽しみにしているようなのだ、きっと面白いのだろう。
それが見られないのは残念だと思ったけれど、グレイスにも今、この場のちょっとした楽しみはあった。
旅芸人は少し先の広場へ向かっていくようだ。街にいた人々もぞろぞろついていく。
なにかやるのかしら。グレイスは思って、興味からそれに混ざった。旅芸人たちの一行は、楽器を奏でたり、旗を振ったりして、いかにも楽しそう。そして広場に着いて、声を上げた。
「さぁさぁ皆さん! 明日はこの広場で大道芸!」
先頭に立っていた太った男が両手をあげて宣言する。見ていたひとたちの間から、わぁっと歓声があがった。
同行のひとたちはぽんぽんと玉を投げて両手で軽やかに操ったり、らっぱを吹いたりしている。今日はまだ宣伝なのだろうが、これだけでもグレイスの視線を奪うにはじゅうぶんなもので。グレイスはそれに見とれてしまっていた。そして、それはだいぶ無防備なことだったのだ。
ぽん、と肩になにかが乗った。グレイスはびくっとする。
それは大きな手だった。振り返ると何人かの男が立っていた。グレイスはひと目で悟った。
これは、あまり、良くないひとたち。
警戒心が一気に湧いたけれど、どうももう遅かったよう。グレイスの肩に手をかけた男が口を開いた。
「お前、さっきウチの店の林檎を盗っただろう」
一瞬、なにを言われているのかわからなかった。『盗る』という単語がよくわからなかったのもある。けれど、こんな口調で責めるように言われて思い至った。
なにか、盗んだと誤解されたのだ。ひやりと心臓が冷えた。
そんなことは誤解に決まっている。思い当たることなんてなにもないのだから。
「そんなこと、してな……して、いない」
つい普段通りの口調でしゃべってしまいそうになり、言いなおした。少年に聞こえただろうか、と思いつつ。
「いいや、確かに見たね」
声をかけた男のうしろにいた男が続けた。グレイスは黙らされてしまう。
「そのカバンに入れたんだろう」
指されるけれど、誤解なのだ。この男たちがどうしてそんな誤解をしたのかわからないけれど、と素直なグレイスは思った。実際はただ、いちゃもんをつけられているだけなのだが。
「あくまで盗ってないって言うなら、中身を見せてくれてもいいよな?」
「こっちに来いよ」
男たちが次々に言う。こんなふうに責められるようなことを言われたことなどグレイスにはない。どうしたらいいのかわからなくなってしまった。
そしてその様子は男たちを調子づかせたらしい。最初に肩に手を乗せてきた男が手を伸ばした。あっと思う間にグレイスの腕が掴まれてしまう。
痛い、と言うところだった。握りしめるような強い力だったものだから。しかしそんな痛みに構っているどころではなくなった。男がぐいっと捕まえた腕を引っ張ってくる。
振り払いたかった。けれど男の力が強すぎて少しもがくことしかできなかったうえに、それ以上に恐ろしくなっていた。
一体なにをされるというのか。お金でもとられるのか、それともどこかに売り飛ばされたり。
心臓が一気に冷えてくる。そんなグレイスを見て、男たちは楽し気な、いやらしげでもある表情を浮かべて。旅芸人に見入っていてこんな些細なやりとりには気付かなかったらしい街のひとたちの間から、グレイスを思い切り引っ張って連れて行ってしまったのだった。
無理やり連れて行かれた場所。それは路地裏だった。
ここが危険なことくらい、グレイスにはわかる。心臓が嫌な具合に騒いでいる。なにか、良くないことが起こるのは明らかだった。
「坊ちゃんよ、よその街から来たんだろう」
にやにやしながら男が言った。
坊ちゃん?
グレイスは恐ろしく思いつつも、疑問に思った。この服と姿なのだ、少年には見えたらしいけれど、こんな見た目で坊ちゃんなどと言われた理由がわからない。
「そ、そんなものじゃ、ない」
やっと言った。お金持ちなどではないとわかれば解放されるかもしれない。そう期待しつつ。
「嘘をつけよ。その服、地味だがいい布じゃねぇか。おおかた、どこかのお坊ちゃんがおうちを抜け出してきたってところだろう」
言われてグレイスはぎくっとした。男の言うことは、グレイスの性別を取り違えている以外は当たっていたのだから。
服に使っている布。そしてその仕立て。そこまで考えたことはグレイスにはなかったのだ。布や仕立てに、庶民との違いがあるなんて発想は初めてだった。
けれど、どちらにせよ、もう遅い。
「金をたっぷり持ってるんだろう。出してみな。おとなしく出せば許してやるよ」
もう、林檎がどうこうという話はされなかった。
グレイスだってわかっていた。あれは言いがかりだったのだ。グレイスに声をかけ、捕まえるための。
ただ、お金を持っていそうな少年、しかも非力そうだからという理由だったのだろう。
グレイスが動かなかったためか、男のほうが先に手を伸ばした。カバンに触れ、引っ張ってくる。しかし布製のカバンはしっかりした作りで、グレイスの肩から外れることはなかった。
チッ、と男は舌打ちして、次はヒモ部分に手をかけた。ぐいっと乱暴に持ち上げ、グレイスの肩から引き抜こうとしたのだが……。
「きゃっ!」
思わず素の声が出ていた。持ち上げられたカバンのヒモが、ぱしっとキャスケットに当たったのだ。勿論、キャスケットはただかぶせてあるだけなのでぐらっとかしいで。
ぱさっと地面に落っこちていた。その中からふわっと広がったのは、グレイスの長い黒髪。リボンで留めてはいたものの、髪が長いことはわかってしまっただろう。
そして長い髪と、この少年というには少々かわいらしい顔立ちであったことと併せてみれば。
「女……!?」
男の手が止まった。グレイスからカバンを取り上げてはいたが、そちらへの興味よりグレイスの正体についてのほうが問題だったらしい。
数秒、その場は無言だった。しかしその沈黙は破られた。くっくっ、と低い笑い声がする。それはうしろにいた男から。そしてその下卑た笑い声はすぐその場に満ちた。
「ほぉ……どうもかわいらしいお顔だと思ったら、女の子だったわけか」
グレイスの身に、今度は違う恐ろしさが膨れた。少年だと思われていたら、カバンを取り上げられるだけで済んでいたかもしれない。抵抗せずに、僅かなお金しか入っていないカバンなど、さっさと渡してしまえばよかったと、今更であることを思う。
もう遅かった、けれど。
今度は違うところへ男の手が伸びた。グレイスの前まで迫り、その生温かい息がグレイスの顔にかかる。煙草の不快な臭いがグレイスの鼻をついた。
嫌悪感に顔をそむけようとしたけれど、あごを掴まれてしまった。じろじろと顔を舐め回すように見られる。
「どっかのいい家の嬢ちゃんってわけだな。こりゃいい。坊ちゃんよりずっといい」
男のうしろから、またくっくっと低い笑いがする。その場を嫌な空気で冒していくような声。
急に、とんでもないところに手が伸びてきた。がばっと上着を広げられる。
ブチッと嫌な音がして上着のボタンがはじけ飛んでいた。そしてその中のシャツ。がしっと胸部を掴まれた。ほぼ大人の女性の体なのだ。それなりに豊かな胸を有している、ところを。
「いっ……」
痛い、と言いたかったけれど、声にならなかった。痛みもあるが、こんなところに無遠慮に触られたショックで声が詰まってしまったのだ。
グレイスの胸を掴んで、男はにたりと笑う。いやらしい笑みだった。
「なかなか上物らしいぜ」
確かめるように乱暴に揉まれる。鈍い痛みがグレイスを襲った。酷い嫌悪感も同時に。吐き気すら込み上げそうになってくる。
「やめ……」
それでもなんとか言ったのだが。今度はシャツのあわせに手がかけられた。
まさか。グレイスの心臓がひゅっと冷えたと同時。
今度はボタンが飛ぶどころではない。ビリィッと布が勢いよく避ける音が耳を刺した。
グレイスは呆然とするしかなかった。もう、ショックやら嫌悪感やらを通り越してしまって、頭が思考を拒んでいるようだったのだ。
「こりゃいい」
グレイスの胸元を開き、繊細なレースに飾られた下着を晒しておいて、男はぺろりとくちびるを舐める。舌なめずり、という様子がぴったりだった。
グレイスはそれを見ても、もうなにも頭に浮かばなかった。ただ、舐め回すような視線に晒されているしかない。
「おい、お前ばっか楽しもうとすんなよ」
「そうだそうだ」
うしろからも声が聞こえてきて、じりじりとほかの男たちも迫ってくる。
もうわかっていた。この男たちは、なにかいやらしいことをするつもりなのだ。
それがなんなのか、グレイスに具体的にはわかっていなかったのだが、なにか、とても良くないことで、傷つけられるようなことなのはわかる。
ヒッ、と息が詰まった。恐ろしさという感情が戻ってきて、グレイスの体を凍り付かせた。
「さて、まずは……」
もう一度。グレイスの美しい胸元に手がかかったときだった。
シュッ、となにか鋭い音がグレイスの耳を刺した。それがなんなのか理解する前に、目の前の男がびくんと体を跳ねさせた。
「ぐぁっ!?」
恐ろしい呻き声をあげた男に、違う意味でグレイスは恐怖した。
しかしそれはまだ早かったのだ。だって、目の前の男の肩にはナイフが深々と突き刺さっていたのだから。とろとろと血が流れだしてきている。
その赤はとても不吉な色で。グレイスの体を凍り付かせる。
「なんだ!?」
「一体、なに……グァァッ!?」
うしろに居た二人の男が振り返ろうとした途端。一人の男が鈍い声をあげて、勢いよく前のめりになった。それだけではなく、どさっと地面に倒れ込んでしまう。
それを間近で見て、ひっと隣の男が息を詰めたと同時。
タッ、と小気味いい音がした。上等の靴が地面を叩いた音。
男の一人の頭を蹴り倒して、地面に降り立ったその上等な靴の人物。
グレイスは、のろのろと視線をあげた。そして違う意味で心臓がどくんと跳ねた。
ふぅ、と息をついていたのは、普段と同じ燕尾の黒服を身に着けた……フレンではないか。
しかしグレイスが声を出せることはなかった。体が凍り付いていた以外にも、フレンがまるで残像が見えるほど素早く脚を振ったのだから。
勢いをつけて繰り出された長い脚。今度は、一連の出来事に固まっていた男たちの最後の一人の脇腹に叩き込まれる。
「ぐぅっ!」
鈍い声だけを残して、やはりどさっとその男も地面に沈んでしまう。
その男を、体勢を戻したフレンが見降ろす。恐ろしく冷たい目をしていた。
彼がこれほど冷え切った目をすること。グレイスは知らなかった。見たこともなかったのだ。
これは、ほんとうに、フレンなの。
心の中だけでしか言えなかったけれど、呆然と呟いた。
しかしこれで終わりではなかった。グレイスに迫っていた男。どろどろ肩から血を流しているところをなんとか押さえている男に。
フレンはなにかを突きつけた。ぎらっと光ったそれ。自分に向けられたわけでもないのに、グレイスはそれが心臓に突き刺されるのかと感じてしまった。
「お嬢様に」
男の頬のすぐ横にナイフを突きつけておいて、フレンはゆっくりと口を開いた。
「手を出すな」
出てきた言葉。先程の視線と同じように、低く氷のように冷たい声をしていた。
フレンは男にナイフを突き刺すことはなかった。
が、先程飛んできたナイフはフレンが投げたものであること、そして男の反応によっては、今、手にしているナイフを振るうことも辞さない姿勢であること。よく思い知ったのだろう。
男は、ひっ……とだけ声を洩らして、情けなくどさりと座り込んだ。
フレンはしばらくそれを見降ろしていたけれど、男が降参の態度になったことで一連のことを終えたらしい。ポケットからなにかを取り出した。口に咥え、どうするかと思えば。
ピーッ!
鋭い音があたりをつんざいた。耳に刺さるかと思うほど鋭く、大きな音。
あれはどうやら笛だったらしい。思ったことで、グレイスは、はっとした。
やっとなにかが頭に浮かんだ、と思う。
それはグレイスの凍り付いた心が、笛の音の刺激で一気に溶けたことを示していた。
遅すぎることだが、ぶるっと体が震えた。それは悪寒のようにグレイスの体を冒していき、体から力を奪った。脚ががくがく震えて倒れ込みそうになってしまったグレイス。
しかし倒れ込むことはなかった。グレイスの体は力強い腕に支えられていたのだから。