従者は永遠(とわ)の誓いを立てる

「いただきます」
 小さく挨拶をして、グレイスはちょっとためらった。
 手づかみで食べる。お行儀が悪くないだろうか。
 でもこんな店では皆、こうして食べている。それなら倣うべきだろう。
 そろっと手を伸ばして、パンを掴む。落っことさないように気をつけながらそろそろと持ち上げて、口に入れようとしたのだけど、肉や野菜が挟まっているせいでずいぶん厚みがあった。これは大口を開けなければだ。
 それもまたお行儀が悪くないかと思ってしまったのだけど、思い切ってがぶりと噛みつく。
 しっかりと火の通った、香ばしい肉の味が口いっぱいに広がった。じゅわっと肉汁が広がる。そしてそこにチーズがとろっと絡んでくる。まろやかで、肉の味を引き立てるような味。
 おいしい。グレイスは笑みが浮かんでくるのを感じてしまった。
 この食べ物は、こうして豪快に食べるから一番おいしいのだ。そうまで感じられる。
 空腹だったお腹には魅力的すぎて、もう一度がぶりと噛みついたのだけど。
「……あっ」
 慣れないことだ。ぱたたっと肉汁がしたたってしまった。ズボンの上に落ちてしまう。
 いけない、汚しちゃったわ。
 思って、ハンバーガーをお皿に戻して慌ててちり紙を出した。ぽんぽんと擦るけれど、落ちたのかはわからない。ズボンは濃い色なのでよく見えないのだ。
 でも裏を返せば、そのためにあまり目立たないはずで。グレイスはちょっとだけ取ろうと頑張ったけれど、結局諦めた。帰ったらこっそり洗えばいい。
 それで食事に戻り、今度は慎重にかぶりついてハンバーガーを食べ進める。その間にポテトとやらを摘まんだけれど、こちらもおいしかった。かりっと揚げられているポテト。塩気が強かったけれど、ほくほくしたじゃがいもの味とよく合っていた。
 アイスティーを時折挟みながら食べていって、お腹の空いていたグレイスはぺろりと平らげてしまった。ふぅ、と息をつく。
「ごちそうさま」
 手を合わせて小さな声で言う。お腹はいっぱいに満たされていた。そして心まで満たされた。
 こういう食事。手づかみは初めて体験したけれど、そしてお行儀の良くないことだと思ったけれど、楽しいものだった。こんなに気軽に食べられる食事もあるのだ。
 普段の食事はナイフとフォークを使ってしずしずと食べなければいけないので、もう慣れ切っているとはいえ、かしこまったものである。ここではそんなこと、気にしなくていいのだ。
 普段からこうしたいとは思わないけれど、たまにはこういうところでも食べてみたい。そうグレイスに思わせてくるような食事のひとときであった。
 さて、そろそろ行きましょう。
 食休みに残っていたアイスティーを飲んでいたけれど、それもなくなった。あまり時間もないのでグレイスはそろそろ店をおいとますることにする。
 お金はカウンターで払っていたので、もう特に払わなくていいだろう。
 ただ、この店は食器も自分で片付けるようだ。食べ終わったひとたちはトレイに空いたお皿や紙などを乗せて、どこかへ向かっている模様。
 グレイスは食べるうちや、食休みをしているうちに、それをちゃんと観察していた。
 それに倣って、トレイに使ったものを全て乗せて、持ち上げた。折よく同じように食器を下げようとしているひとを見つけたので、ついていく。カウンターの横にある、台。そのひとはトレイをそこに置き、紙類は横にあるごみ箱らしいものに放り込んだ。
 なるほど、ああするのね。そのひとが行ってしまってからグレイスは同じように片付けた。
 自分の食べたものを片付ける。生きてきて、ほんの数回しかしたことがない。
 確かにちょっと面倒ではあると思った。けれど、今回は楽しさのほうが強かった。
 これも街での楽しみのひとつ。片付けも終えて、グレイスは出口へ向かった。
 お腹と好奇心。両方が満たされて、すっかり満足しながら。
 うきうきとグレイスは街を行く。そろそろ昼時にさしかかろうとしている街は活気に溢れていた。昼休み、というひとたちもいるのだろう。食べ物の店が賑わっているように見えた。
 早めに、街へ来てすぐに食事の店に入ったのは良かったことだったようだ。
 グレイスは街の様子でそのように思った。
 あまりきょろきょろしてしまうのは街中に慣れていないと思われてしまうかもしれない。
 よって、気をつけながらグレイスはそれでも街中のあちこちを見てしまった。
 たくさんの店が並んでいる。露店もある。果物、野菜、あるいは雑貨のようなものが並んでいた。
 行き交うひとたち。大人も子供も楽しそうに見えた。
 ここは良い街のよう。グレイスは感じて、なんだか嬉しくなってしまった。
 この街は父の領の管轄内。そこに住むひとたちが楽しそうに、それなりに豊かそうにしていてくれるというのはやはり。そこでちょっと思ってしまったけれど。
 もし私が。ダージル様との婚約が、無事結婚までこぎつけて、ダージル様がここの領主になって、私が奥方になったのなら。この平和そうな街を維持することができるだろうか。
 その思考はグレイスの思考を少しだけ曇らせた。あまり考えたくないことだった。自分の約一年後のことについては。婚約を受け入れておいて今更であるが、結婚の実感はまだない。
 そのあとどうなるかもわからない。先行きの不透明さと不安さは確かにある。
 ちょっとだけ思考に沈んでしまったけれど、そこへ大きな音が聞こえてきてグレイスは顔をあげた。シャンシャン、と楽し気な音がする。なにか、派手な格好をしたひとたちが楽器らしきものを持って向こうからやってきていた。
「旅芸人よ!」
「明日の催し、行かない?」
 そばにいたひとたちも足をとめて、そんな話をしていた。旅芸人、というものはわからないけれど、芸、というからにはなにか、能力を披露してひとを楽しませるのだろう。グレイスはそのように予想した。そして週末に、その芸を披露してくれる催しとやらがあるようだ、と。
 見てみたいと思った。そんなものは見たことがないし、街のひとたちも楽しみにしているようなのだ、きっと面白いのだろう。
 それが見られないのは残念だと思ったけれど、グレイスにも今、この場のちょっとした楽しみはあった。
 旅芸人は少し先の広場へ向かっていくようだ。街にいた人々もぞろぞろついていく。
 なにかやるのかしら。グレイスは思って、興味からそれに混ざった。旅芸人たちの一行は、楽器を奏でたり、旗を振ったりして、いかにも楽しそう。そして広場に着いて、声を上げた。
「さぁさぁ皆さん! 明日はこの広場で大道芸!」
 先頭に立っていた太った男が両手をあげて宣言する。見ていたひとたちの間から、わぁっと歓声があがった。
 同行のひとたちはぽんぽんと玉を投げて両手で軽やかに操ったり、らっぱを吹いたりしている。今日はまだ宣伝なのだろうが、これだけでもグレイスの視線を奪うにはじゅうぶんなもので。グレイスはそれに見とれてしまっていた。そして、それはだいぶ無防備なことだったのだ。
 ぽん、と肩になにかが乗った。グレイスはびくっとする。
 それは大きな手だった。振り返ると何人かの男が立っていた。グレイスはひと目で悟った。
 これは、あまり、良くないひとたち。
 警戒心が一気に湧いたけれど、どうももう遅かったよう。グレイスの肩に手をかけた男が口を開いた。
「お前、さっきウチの店の林檎を盗っただろう」
 一瞬、なにを言われているのかわからなかった。『盗る』という単語がよくわからなかったのもある。けれど、こんな口調で責めるように言われて思い至った。
 なにか、盗んだと誤解されたのだ。ひやりと心臓が冷えた。
 そんなことは誤解に決まっている。思い当たることなんてなにもないのだから。
「そんなこと、してな……して、いない」
 つい普段通りの口調でしゃべってしまいそうになり、言いなおした。少年に聞こえただろうか、と思いつつ。
「いいや、確かに見たね」
 声をかけた男のうしろにいた男が続けた。グレイスは黙らされてしまう。
「そのカバンに入れたんだろう」
 指されるけれど、誤解なのだ。この男たちがどうしてそんな誤解をしたのかわからないけれど、と素直なグレイスは思った。実際はただ、いちゃもんをつけられているだけなのだが。
「あくまで盗ってないって言うなら、中身を見せてくれてもいいよな?」
「こっちに来いよ」
 男たちが次々に言う。こんなふうに責められるようなことを言われたことなどグレイスにはない。どうしたらいいのかわからなくなってしまった。
 そしてその様子は男たちを調子づかせたらしい。最初に肩に手を乗せてきた男が手を伸ばした。あっと思う間にグレイスの腕が掴まれてしまう。
 痛い、と言うところだった。握りしめるような強い力だったものだから。しかしそんな痛みに構っているどころではなくなった。男がぐいっと捕まえた腕を引っ張ってくる。
 振り払いたかった。けれど男の力が強すぎて少しもがくことしかできなかったうえに、それ以上に恐ろしくなっていた。
 一体なにをされるというのか。お金でもとられるのか、それともどこかに売り飛ばされたり。
 心臓が一気に冷えてくる。そんなグレイスを見て、男たちは楽し気な、いやらしげでもある表情を浮かべて。旅芸人に見入っていてこんな些細なやりとりには気付かなかったらしい街のひとたちの間から、グレイスを思い切り引っ張って連れて行ってしまったのだった。
 無理やり連れて行かれた場所。それは路地裏だった。
 ここが危険なことくらい、グレイスにはわかる。心臓が嫌な具合に騒いでいる。なにか、良くないことが起こるのは明らかだった。
「坊ちゃんよ、よその街から来たんだろう」
 にやにやしながら男が言った。
 坊ちゃん?
 グレイスは恐ろしく思いつつも、疑問に思った。この服と姿なのだ、少年には見えたらしいけれど、こんな見た目で坊ちゃんなどと言われた理由がわからない。
「そ、そんなものじゃ、ない」
 やっと言った。お金持ちなどではないとわかれば解放されるかもしれない。そう期待しつつ。
「嘘をつけよ。その服、地味だがいい布じゃねぇか。おおかた、どこかのお坊ちゃんがおうちを抜け出してきたってところだろう」
 言われてグレイスはぎくっとした。男の言うことは、グレイスの性別を取り違えている以外は当たっていたのだから。
 服に使っている布。そしてその仕立て。そこまで考えたことはグレイスにはなかったのだ。布や仕立てに、庶民との違いがあるなんて発想は初めてだった。
 けれど、どちらにせよ、もう遅い。
「金をたっぷり持ってるんだろう。出してみな。おとなしく出せば許してやるよ」
 もう、林檎がどうこうという話はされなかった。
 グレイスだってわかっていた。あれは言いがかりだったのだ。グレイスに声をかけ、捕まえるための。
 ただ、お金を持っていそうな少年、しかも非力そうだからという理由だったのだろう。
 グレイスが動かなかったためか、男のほうが先に手を伸ばした。カバンに触れ、引っ張ってくる。しかし布製のカバンはしっかりした作りで、グレイスの肩から外れることはなかった。
 チッ、と男は舌打ちして、次はヒモ部分に手をかけた。ぐいっと乱暴に持ち上げ、グレイスの肩から引き抜こうとしたのだが……。
「きゃっ!」
 思わず素の声が出ていた。持ち上げられたカバンのヒモが、ぱしっとキャスケットに当たったのだ。勿論、キャスケットはただかぶせてあるだけなのでぐらっとかしいで。
 ぱさっと地面に落っこちていた。その中からふわっと広がったのは、グレイスの長い黒髪。リボンで留めてはいたものの、髪が長いことはわかってしまっただろう。
 そして長い髪と、この少年というには少々かわいらしい顔立ちであったことと併せてみれば。
「女……!?」
 男の手が止まった。グレイスからカバンを取り上げてはいたが、そちらへの興味よりグレイスの正体についてのほうが問題だったらしい。
 数秒、その場は無言だった。しかしその沈黙は破られた。くっくっ、と低い笑い声がする。それはうしろにいた男から。そしてその下卑た笑い声はすぐその場に満ちた。
「ほぉ……どうもかわいらしいお顔だと思ったら、女の子だったわけか」
 グレイスの身に、今度は違う恐ろしさが膨れた。少年だと思われていたら、カバンを取り上げられるだけで済んでいたかもしれない。抵抗せずに、僅かなお金しか入っていないカバンなど、さっさと渡してしまえばよかったと、今更であることを思う。
 もう遅かった、けれど。
 今度は違うところへ男の手が伸びた。グレイスの前まで迫り、その生温かい息がグレイスの顔にかかる。煙草の不快な臭いがグレイスの鼻をついた。
 嫌悪感に顔をそむけようとしたけれど、あごを掴まれてしまった。じろじろと顔を舐め回すように見られる。
「どっかのいい家の嬢ちゃんってわけだな。こりゃいい。坊ちゃんよりずっといい」
 男のうしろから、またくっくっと低い笑いがする。その場を嫌な空気で冒していくような声。
 急に、とんでもないところに手が伸びてきた。がばっと上着を広げられる。
 ブチッと嫌な音がして上着のボタンがはじけ飛んでいた。そしてその中のシャツ。がしっと胸部を掴まれた。ほぼ大人の女性の体なのだ。それなりに豊かな胸を有している、ところを。
「いっ……」
 痛い、と言いたかったけれど、声にならなかった。痛みもあるが、こんなところに無遠慮に触られたショックで声が詰まってしまったのだ。
 グレイスの胸を掴んで、男はにたりと笑う。いやらしい笑みだった。
「なかなか上物らしいぜ」
 確かめるように乱暴に揉まれる。鈍い痛みがグレイスを襲った。酷い嫌悪感も同時に。吐き気すら込み上げそうになってくる。
「やめ……」
 それでもなんとか言ったのだが。今度はシャツのあわせに手がかけられた。
 まさか。グレイスの心臓がひゅっと冷えたと同時。
 今度はボタンが飛ぶどころではない。ビリィッと布が勢いよく避ける音が耳を刺した。
 グレイスは呆然とするしかなかった。もう、ショックやら嫌悪感やらを通り越してしまって、頭が思考を拒んでいるようだったのだ。
「こりゃいい」
 グレイスの胸元を開き、繊細なレースに飾られた下着を晒しておいて、男はぺろりとくちびるを舐める。舌なめずり、という様子がぴったりだった。
 グレイスはそれを見ても、もうなにも頭に浮かばなかった。ただ、舐め回すような視線に晒されているしかない。
「おい、お前ばっか楽しもうとすんなよ」
「そうだそうだ」
 うしろからも声が聞こえてきて、じりじりとほかの男たちも迫ってくる。
 もうわかっていた。この男たちは、なにかいやらしいことをするつもりなのだ。
 それがなんなのか、グレイスに具体的にはわかっていなかったのだが、なにか、とても良くないことで、傷つけられるようなことなのはわかる。
 ヒッ、と息が詰まった。恐ろしさという感情が戻ってきて、グレイスの体を凍り付かせた。
「さて、まずは……」
 もう一度。グレイスの美しい胸元に手がかかったときだった。
 シュッ、となにか鋭い音がグレイスの耳を刺した。それがなんなのか理解する前に、目の前の男がびくんと体を跳ねさせた。
「ぐぁっ!?」
 恐ろしい呻き声をあげた男に、違う意味でグレイスは恐怖した。
 しかしそれはまだ早かったのだ。だって、目の前の男の肩にはナイフが深々と突き刺さっていたのだから。とろとろと血が流れだしてきている。
 その赤はとても不吉な色で。グレイスの体を凍り付かせる。
「なんだ!?」
「一体、なに……グァァッ!?」
 うしろに居た二人の男が振り返ろうとした途端。一人の男が鈍い声をあげて、勢いよく前のめりになった。それだけではなく、どさっと地面に倒れ込んでしまう。
 それを間近で見て、ひっと隣の男が息を詰めたと同時。
 タッ、と小気味いい音がした。上等の靴が地面を叩いた音。
 男の一人の頭を蹴り倒して、地面に降り立ったその上等な靴の人物。
 グレイスは、のろのろと視線をあげた。そして違う意味で心臓がどくんと跳ねた。
 ふぅ、と息をついていたのは、普段と同じ燕尾の黒服を身に着けた……フレンではないか。