従者は永遠(とわ)の誓いを立てる

 クローゼットから先日の箱を取り出し、中身を出す。そして着ていたネグリジェを脱ぎはじめた。
 下着だけになって、普段あまり穿くことなどないズボンに足を通す。ズボン状になっている下の服は、運動の時間にしか着ることを許されていない。それも運動の時間など週に二日ほどしかないのだ。
 そのときだけ今着ているものよりずっと優雅なものであるが、ズボンは身に着けられる。活発なグレイスにとってはこちらのほうがよっぽど身軽に過ごせると思うのだが。
 それはともかく、そのときとは比べ物にならないほど質素なズボンを穿き、上はシャツを腕に通してボタンを留める。少々大きめの上着を羽織って……。最後に長い髪をひとつに束ねた。
 普段、髪を自分で弄ることなどないのだが、いかんせん、グレイスの趣味は刺繍。手先は器用なほうだ。
 ちょっと手間取りつつもリボンできゅっと結び、それをくるくるとまとめて、そこへキャスケットをかぶせる。その中に髪をすべて押し込んでしまった。
 これで準備は完成。部屋の姿見に自分の姿を映してみて、グレイスは満足した。
 どう見ても、貴族のお嬢様には見えない。大人の男性には見えないかもしれないが、とりあえず少年と言い張れるくらいには、中性的に見えるようになった。
 次に引っ張り出したのはこれまた布のカバン。肩から掛ける小さめのものだ。これも勿論、こういうときにしか使わないもの。その中にハンカチやちり紙、そして財布を入れる。
 財布。貴族の令嬢であるグレイスが普段、自分で支払いなどするものか。街に出たときだって大体は従者であるフレンが払ってくれる。
 けれど教養の一部としてお金の使い方は教えられていたし、そのとき勉強用に渡されたいくらかの紙幣や硬貨があった。それをとっておいたのだ。これを使えば、街でちょっとしたものを買うくらいには足りるだろう。
 これで準備は済んだ。グレイスはもう一度、姿見で違和感がないかを確かめて、すぅ、と息をついた。そしてぱっと目を開ける。
 今日は楽しもう。ちょっといけないことではあるけれど、これで自分の気持ちがあがるのならば、やってしまえ。グレイスの本来の気質である大胆、奔放さを今こそ発揮するとき。
 外の様子を十分に伺い、グレイスはそっと部屋を抜け出したのだった。
 ひとに遭わないように気をつけながら、裏口へ向かう。裏口は使用人が頻繁に出入りするので、昼間は解放されているのを知っていた。
 そこからそろそろ外へ出て、門ではなく、これも敷地内の裏へと向かった。けれどこちらにも簡単ではあるが警備が居る。屋敷に入る者はチェックされてしまうのだ。出ていく者に関しても同じこと。
 よってグレイスは裏の庭の端へ向かった。ここに良いものがあるのを知っている。
 がさがさ、と草をかき分けると、そこにはグレイスの目論見どおりのものがあった。石壁が壊れて穴になっている。
 良かった、まだ見つけられていなければ、修理などもされていないようだ。
 少し穴が小さいような気もしたのだけど、グレイスは身を屈めて穴に頭を突っ込んだ。そろそろ身を通そうとする。
 けれど穴の出っ張りに阻まれてしまった。昔はするっと通れたのに。
 グレイスはちょっと不満を覚える。今よりまだ体が小さかったので、するっと抜けられてしまったのだけど、グレイスの気付かぬうちに体は随分成長していた模様。
 それでも、引っかかっていた部分をできるだけ反対側に寄せて、体をじりじり進めていく。布のカバンが邪魔になりそうだったので、肩と頭から抜いて、先に壁の先へと押し込む。
 そうまでして、ようやく穴を通り抜けることができた。ふぅ、と息をつく。
 こんな、地面を半ば這うようなこと、普段するはずもない。ただの令嬢なら顔をしかめてしまうようなことかもしれないのだけど、グレイスはむしろ楽しくなってしまう。
 立ち上がり、布のカバンを元通り肩にかけた。うーん、と手をあげて伸ばす。
 文字通り、羽根を伸ばすためのこの『お転婆』。
 見回りの者や、通りかかったひとに見つからないとも限らない。さっさと行ってしまうに限る。グレイスは周りを見回し、ちょっと速足でさっさと屋敷から遠ざかっていったのだった。
 さて。首尾よく街へ向かうことができたグレイス。
 うきうきしていたけれど、すぐに感じたのは空腹感だった。当然だ、今日は朝食のほとんどを残してしまったのだから。まだ昼にもならないのにお腹は減っている。
 まずはなにか食べたほうがいいだろう。思って、違う意味で楽しみになった。
 街で食べるもの。屋敷で食べるものとはまったく違うものなのだ。
 それに堂々と街へ出られる外出日だって、食事をしに入る店は高級店のたぐい。屋敷のものより多少劣るとしても、それなりの質のものを食べるのだ。
 このお忍びではそんな気遣いは要らない。なにを食べようかと、街へ入ってグレイスはきょろきょろしてしまった。暮らしていないとはいえ、幼い頃から何度も来ているのだからなんとなくは地理もわかる。
 けれど前回来たときとは店の具合が少し変わっているように感じた。新しそうな店も増えている。街は豊かになっているのだろうか、と歩きながらグレイスは感じた。
 それは治世がうまくいっているということなので良いことなのだけど、今はまだ父の管轄。グレイスはそんな事情はわからなかった。
 見つけたのは一軒の派手な店だった。ハンバーガー、などと書いてある。パンズに肉や野菜を詰めて、手で食べるものだ。
 そう、手で食べるもの。グレイスは俄然興味が湧いた。手づかみでものを食べるなど、普段ないからである。
 この店で食べることに決めた。店の前の看板には簡単なメニューが書いてあったのだけど、グレイスの手持ちの金額で十分払えるような値段だと載っていたのも安心できた。
 よって店へ入ったのだけど、ちょっと戸惑った。がやがや賑やかな店内。広いホールにはたくさんテーブルと椅子が並んで、街の人々が食事をしていたり、おしゃべりをしたりしている。
 見ていると、どうやら皆、カウンターでなにか話をしているようだ。そしてハンバーガーや添え物の副菜らしきものが乗ったトレイを受け取って、テーブルに持っていっている。
 しばらく見ていてグレイスはなんとなく察した。カウンターで食べたいものを言うのだ。そして自分でテーブルへ持っていくのだ。こんなシステムの店は初めてなので感心してしまった。
 なんと効率が良いことか。勝手に食べ物が出てくるか、もしくはテーブルについて注文するような店しか知らないグレイスは感動すら覚えてしまった。
 やり方もなんとなくわかったので、グレイスはカウンターへ向かった。初めてなのでちょっとおどおどはしてしまったけれど。
「いらっしゃいませ! ご注文、お決まりですか?」
 カウンターにいたのは元気の良い若い女性だった。グレイスはどきどきしてしまいつつ、「こ、このお店は初めてで」と言った。普段の言葉づかいにならないように気をつけながら。少年らしく聞こえるように、ちょっと乱暴にしておかなければならない。
「かしこまりました。メニューはこちらです。セットメニューがお得になっております」
 示されたのは、カウンターに貼ってある紙。ハンバーガー、チーズバーガー、フィッシュバーガー……など色々あるようだ。そしてそこに飲み物とサラダなどがつけられると書いてある。
 本当はじっくり見たかったのだけど、どうもそういうわけにはいかない雰囲気。なにしろここはスピード重視の店のようだから。
 グレイスはとりあえず無難なものにしておこうと、「では、このチーズのものを」と指差した。
「かしこまりました! サイドメニューはサラダとポテト、どちらにいたしますか?」
 ポテト……茹でたじゃがいもだろうか。
 グレイスはそう予想して、「では、そのポテトを」と答える。そのあともうひとつ、「お飲み物は」という質問が来たので「アイスティーで」と言っておく。それでやっと注文が済んだ。
 慣れない財布を取り出し、慎重に硬貨を数えて、求められただけの金額を出す。お店の女性はそれを受け取って数えて、間違いはなかったようで「ではそちらでお待ちください」と別のカウンターを指差してくれた。
 良かった、上手くいったようだ。グレイスはほっとしてそちらへ向かい、やがて出来上がったハンバーガーのセットとやらを受け取った。
 テーブルへ運んで、椅子につく。これも当たり前だが屋敷や普段行く店とは比べ物にならないほど簡素だった。木がむき出しで、お尻がちょっと痛い。今はドレスやワンピースに仕込んでいるパニエなどもないことも手伝って。でもこれも楽しいもの。非日常なのだから。
 よって気にしないことにして、目の前の食べ物を改めて見た。
 作り立てのハンバーガーはまだ湯気をあげていた。肉とチーズの良い香りが食欲をそそる。
 添えられていたのはじゃがいもだったけれど、茹でたものではなく、細く切って揚げてあるもののようだ。紙の包みに入っていたそれは初めて見るもので、グレイスはしげしげと見てしまった。
 アイスティーはまぁ、屋敷のものとほぼ変わらない。グラスに入ってストローがさしてある。
 さて、いただきましょう。
「いただきます」
 小さく挨拶をして、グレイスはちょっとためらった。
 手づかみで食べる。お行儀が悪くないだろうか。
 でもこんな店では皆、こうして食べている。それなら倣うべきだろう。
 そろっと手を伸ばして、パンを掴む。落っことさないように気をつけながらそろそろと持ち上げて、口に入れようとしたのだけど、肉や野菜が挟まっているせいでずいぶん厚みがあった。これは大口を開けなければだ。
 それもまたお行儀が悪くないかと思ってしまったのだけど、思い切ってがぶりと噛みつく。
 しっかりと火の通った、香ばしい肉の味が口いっぱいに広がった。じゅわっと肉汁が広がる。そしてそこにチーズがとろっと絡んでくる。まろやかで、肉の味を引き立てるような味。
 おいしい。グレイスは笑みが浮かんでくるのを感じてしまった。
 この食べ物は、こうして豪快に食べるから一番おいしいのだ。そうまで感じられる。
 空腹だったお腹には魅力的すぎて、もう一度がぶりと噛みついたのだけど。
「……あっ」
 慣れないことだ。ぱたたっと肉汁がしたたってしまった。ズボンの上に落ちてしまう。
 いけない、汚しちゃったわ。
 思って、ハンバーガーをお皿に戻して慌ててちり紙を出した。ぽんぽんと擦るけれど、落ちたのかはわからない。ズボンは濃い色なのでよく見えないのだ。
 でも裏を返せば、そのためにあまり目立たないはずで。グレイスはちょっとだけ取ろうと頑張ったけれど、結局諦めた。帰ったらこっそり洗えばいい。
 それで食事に戻り、今度は慎重にかぶりついてハンバーガーを食べ進める。その間にポテトとやらを摘まんだけれど、こちらもおいしかった。かりっと揚げられているポテト。塩気が強かったけれど、ほくほくしたじゃがいもの味とよく合っていた。
 アイスティーを時折挟みながら食べていって、お腹の空いていたグレイスはぺろりと平らげてしまった。ふぅ、と息をつく。
「ごちそうさま」
 手を合わせて小さな声で言う。お腹はいっぱいに満たされていた。そして心まで満たされた。
 こういう食事。手づかみは初めて体験したけれど、そしてお行儀の良くないことだと思ったけれど、楽しいものだった。こんなに気軽に食べられる食事もあるのだ。
 普段の食事はナイフとフォークを使ってしずしずと食べなければいけないので、もう慣れ切っているとはいえ、かしこまったものである。ここではそんなこと、気にしなくていいのだ。
 普段からこうしたいとは思わないけれど、たまにはこういうところでも食べてみたい。そうグレイスに思わせてくるような食事のひとときであった。
 さて、そろそろ行きましょう。
 食休みに残っていたアイスティーを飲んでいたけれど、それもなくなった。あまり時間もないのでグレイスはそろそろ店をおいとますることにする。
 お金はカウンターで払っていたので、もう特に払わなくていいだろう。
 ただ、この店は食器も自分で片付けるようだ。食べ終わったひとたちはトレイに空いたお皿や紙などを乗せて、どこかへ向かっている模様。
 グレイスは食べるうちや、食休みをしているうちに、それをちゃんと観察していた。
 それに倣って、トレイに使ったものを全て乗せて、持ち上げた。折よく同じように食器を下げようとしているひとを見つけたので、ついていく。カウンターの横にある、台。そのひとはトレイをそこに置き、紙類は横にあるごみ箱らしいものに放り込んだ。
 なるほど、ああするのね。そのひとが行ってしまってからグレイスは同じように片付けた。
 自分の食べたものを片付ける。生きてきて、ほんの数回しかしたことがない。
 確かにちょっと面倒ではあると思った。けれど、今回は楽しさのほうが強かった。
 これも街での楽しみのひとつ。片付けも終えて、グレイスは出口へ向かった。
 お腹と好奇心。両方が満たされて、すっかり満足しながら。
 うきうきとグレイスは街を行く。そろそろ昼時にさしかかろうとしている街は活気に溢れていた。昼休み、というひとたちもいるのだろう。食べ物の店が賑わっているように見えた。
 早めに、街へ来てすぐに食事の店に入ったのは良かったことだったようだ。
 グレイスは街の様子でそのように思った。
 あまりきょろきょろしてしまうのは街中に慣れていないと思われてしまうかもしれない。
 よって、気をつけながらグレイスはそれでも街中のあちこちを見てしまった。
 たくさんの店が並んでいる。露店もある。果物、野菜、あるいは雑貨のようなものが並んでいた。
 行き交うひとたち。大人も子供も楽しそうに見えた。
 ここは良い街のよう。グレイスは感じて、なんだか嬉しくなってしまった。
 この街は父の領の管轄内。そこに住むひとたちが楽しそうに、それなりに豊かそうにしていてくれるというのはやはり。そこでちょっと思ってしまったけれど。
 もし私が。ダージル様との婚約が、無事結婚までこぎつけて、ダージル様がここの領主になって、私が奥方になったのなら。この平和そうな街を維持することができるだろうか。
 その思考はグレイスの思考を少しだけ曇らせた。あまり考えたくないことだった。自分の約一年後のことについては。婚約を受け入れておいて今更であるが、結婚の実感はまだない。
 そのあとどうなるかもわからない。先行きの不透明さと不安さは確かにある。
 ちょっとだけ思考に沈んでしまったけれど、そこへ大きな音が聞こえてきてグレイスは顔をあげた。シャンシャン、と楽し気な音がする。なにか、派手な格好をしたひとたちが楽器らしきものを持って向こうからやってきていた。
「旅芸人よ!」
「明日の催し、行かない?」
 そばにいたひとたちも足をとめて、そんな話をしていた。旅芸人、というものはわからないけれど、芸、というからにはなにか、能力を披露してひとを楽しませるのだろう。グレイスはそのように予想した。そして週末に、その芸を披露してくれる催しとやらがあるようだ、と。
 見てみたいと思った。そんなものは見たことがないし、街のひとたちも楽しみにしているようなのだ、きっと面白いのだろう。
 それが見られないのは残念だと思ったけれど、グレイスにも今、この場のちょっとした楽しみはあった。
 旅芸人は少し先の広場へ向かっていくようだ。街にいた人々もぞろぞろついていく。
 なにかやるのかしら。グレイスは思って、興味からそれに混ざった。旅芸人たちの一行は、楽器を奏でたり、旗を振ったりして、いかにも楽しそう。そして広場に着いて、声を上げた。
「さぁさぁ皆さん! 明日はこの広場で大道芸!」
 先頭に立っていた太った男が両手をあげて宣言する。見ていたひとたちの間から、わぁっと歓声があがった。
 同行のひとたちはぽんぽんと玉を投げて両手で軽やかに操ったり、らっぱを吹いたりしている。今日はまだ宣伝なのだろうが、これだけでもグレイスの視線を奪うにはじゅうぶんなもので。グレイスはそれに見とれてしまっていた。そして、それはだいぶ無防備なことだったのだ。
 ぽん、と肩になにかが乗った。グレイスはびくっとする。
 それは大きな手だった。振り返ると何人かの男が立っていた。グレイスはひと目で悟った。
 これは、あまり、良くないひとたち。
 警戒心が一気に湧いたけれど、どうももう遅かったよう。グレイスの肩に手をかけた男が口を開いた。
「お前、さっきウチの店の林檎を盗っただろう」
 一瞬、なにを言われているのかわからなかった。『盗る』という単語がよくわからなかったのもある。けれど、こんな口調で責めるように言われて思い至った。
 なにか、盗んだと誤解されたのだ。ひやりと心臓が冷えた。
 そんなことは誤解に決まっている。思い当たることなんてなにもないのだから。
「そんなこと、してな……して、いない」
 つい普段通りの口調でしゃべってしまいそうになり、言いなおした。少年に聞こえただろうか、と思いつつ。
「いいや、確かに見たね」
 声をかけた男のうしろにいた男が続けた。グレイスは黙らされてしまう。
「そのカバンに入れたんだろう」
 指されるけれど、誤解なのだ。この男たちがどうしてそんな誤解をしたのかわからないけれど、と素直なグレイスは思った。実際はただ、いちゃもんをつけられているだけなのだが。
「あくまで盗ってないって言うなら、中身を見せてくれてもいいよな?」
「こっちに来いよ」
 男たちが次々に言う。こんなふうに責められるようなことを言われたことなどグレイスにはない。どうしたらいいのかわからなくなってしまった。
 そしてその様子は男たちを調子づかせたらしい。最初に肩に手を乗せてきた男が手を伸ばした。あっと思う間にグレイスの腕が掴まれてしまう。
 痛い、と言うところだった。握りしめるような強い力だったものだから。しかしそんな痛みに構っているどころではなくなった。男がぐいっと捕まえた腕を引っ張ってくる。
 振り払いたかった。けれど男の力が強すぎて少しもがくことしかできなかったうえに、それ以上に恐ろしくなっていた。
 一体なにをされるというのか。お金でもとられるのか、それともどこかに売り飛ばされたり。
 心臓が一気に冷えてくる。そんなグレイスを見て、男たちは楽し気な、いやらしげでもある表情を浮かべて。旅芸人に見入っていてこんな些細なやりとりには気付かなかったらしい街のひとたちの間から、グレイスを思い切り引っ張って連れて行ってしまったのだった。