従者は永遠(とわ)の誓いを立てる

 そうだ、来週は外出できるのだった。色々ありすぎて、グレイスはすっかり忘れていた。
 グレイスの嬉しそうな顔を見て、フレンも釣られたように笑む。その笑顔につい、甘えるような言葉が出てきていた。
「勿論、フレンが来てくれるのでしょう?」
 それは今までだったら訊かなかったようなこと。グレイスの従者であるフレンなのだ。外出についてこないということは、よっぽどのほかの用事がない限り、ありえない。
 そして今回もそうだったようだ。フレンは当たり前のように肯定した。
「ええ、私が参りますよ」
 単純なものだ。グレイスは一気に嬉しくなってしまう。
 外出自体が久しぶりなのだ。親戚の元にお出掛け、などでない用事。マリーや祖母レイアなどの身内以外、私的な『遊び』ともいえる外出は月に二、三度しか許されていなかった。
 なにをしようか、フレンの言ったように手芸店に布を見に行きたいし、それに洋服や雑貨、メイク用品も見たい。
 服は街中の店で売っているものなど、買っても家で着ることは許されない。貴族の娘らしい服でないと父は許してくれないのだ。
 なので欲しいと思ったものをチェックしておいて、屋敷で似たようなものを仕立ててもらうのが常であった。まったく同じにはならないけれど、とりあえず自分の好みに近いものは手に入る。それで満足しておくのが平和。
 まぁ、『貴族の娘』らしくない服を着ることも、ごく稀にあるのだけど……それはともかく。
 そのあとはフレンと、その外出の話になった。行き先は先程グレイスが頭に描いたことであったけれど、もう少し先にある夏の避暑地への用意なども視野に入れておいたらどうかということになり、相談、とはいうものの楽しい話がどんどん出てくる。
 あまりに楽しすぎて、屋敷からメイドが「お嬢様、お昼のお時間ですよ」と呼びに来てしまい、フレンはそこでやっと、時間に気付いたらしい。こうして話をしていても、普段は時間のチェックを怠らないのに。
 フレンは苦笑いして「夢中になりすぎましたね」と言ったのだが、グレイスは「いいえ、楽しかったわ」と心から笑みを浮かべたのだった。
 外出。買い物。
 その夜、グレイスは頭の中にそればかり描いてしまっていた。
 いや、昼にフレンと話したようなほのぼのした内容ではない。もう少し良くない……フレンに言わせれば『お転婆』なことである。
 クローゼットの中にこっそりしまってあるもののことを思い出す。しばらく使っていなかったけれど、サイズなどに問題はないだろう。つまり、準備としてはそう多くは要らないはず。
 そろそろおやすみなさいませとされて、ベッドに入っても色々考えてしまって。しばらくは考え事をしていたけれど、そのうちいてもたってもいられなくなって、がばっと起き上がった。さっき考えていたクローゼットを開ける。
 クローゼットの奥の奥。すぐに出せない場所に入れたうえに、厳重に箱に入れて保管してあるもの。久しぶりに取り出すことになった。
 箱ごと取り出して、ソファへ持っていって、そこで蓋を開けた。
 中に入っていたのはベージュのシャツと焦げ茶の上着。そして黒のズボン。それと、大きめのキャスケット。こんな場所にはまったくそぐわない服たち。
 これは、グレイスの秘密の服。そう、『お転婆』をするときの装備品なのだ。
 中身を確かめる。最後に着たのはもう数ヵ月前だったけれど、そこから体型はあまり変わっていないので大丈夫そうだ。元々、少し大きめの作りなのだし。
 久しぶりにこれを使うことを考えて、グレイスはどきどきしてきた。
 こんなこと、良くないことだ。そんなことわかりきっている。
 けれど、使いたくなってしまった。ここのところ、息が詰まることばかりであったから。
 来週は外出許可が出ていて、フレンとお出掛けができる。それも楽しみだったけれど、待ちきれなくなってしまったのだ。
 中身を元通り箱に戻して、クローゼットの元の場所に入れて、グレイスは改めてベッドに潜り込んだ。
 『それ』をいつにしようかと考える。ひとの目につかない日や時間がいいに決まっている。
 そう、父が外出中とか……仕事が忙しくてこもっているとか……。
 プラスして、フレンにも用事がある日でなければいけない。頭の中に自分の予定を思い描いて、今度フレンの用事もこっそり情報取得しなければ、と思う。
 グレイスはなんだかわくわくしてきてしまった。良くないことを企んでいるというのに。元々、自分には合っていなかったのだ、と思う。どうにもならないことをうじうじ思い悩んでしまうなんて。
 だから、これはグレイスが自分らしく羽を伸ばせるためのこと。
 計画を立てているだけで、ちょっとの罪悪感はあれど、久しぶりに胸躍るようなことだった。
 計画実行できる日は意外と早く来てしまった。父が隣の領へ出掛けることになり、そしてその日は良いタイミングでフレンも公休となっていた。従者とはいえ休日の一日もないわけがない、それが同じ日に当たってくれたことをグレイスは感謝した。
 週末の直前だったのも幸い。週末は街にひとが増えると聞いていた。それは街に慣れないグレイスにとってはちょっと困ることであったので、平日にあたったことを感謝しておく。
 その日は朝からこそこそと準備を整え、朝食の席でグレイスはちょっと憂鬱そうな顔をしておいた。計画通り、メイドが心配そうに「お体の具合でも優れませんか?」と訊いてくれる。
「ええ……でも大丈夫よ。月のものだから」
 いい言い訳である、この理由は。具合が悪くなっても仕方がないという理由。おまけに病気ではないのだから、お医者や薬をと言われることもない。
 こういう言い訳に使うのはどうかと思うのだが、グレイスにとって一人きりになって静かにさせてもらえるのに一番いい『理由』であったのだ。
「まぁ、それは良くありませんわ。今日はゆっくりなさってくださいまし。お勉強は……」
「日を替えてもらえるかしら?」
「ええ、それは勿論。教師にお伝えいたしますね」
 そのようなやりとりで済んでしまった。一応、具合が悪いという体だったのでグレイスは申し訳ないと思いつつも、朝食のほとんどを残すことになる。それでメイドもグレイスが本当に調子が優れないのだろうと思ってくれたらしい。
 朝食後は「お大事になさってくださいね」と部屋に入れられて、ホットミルクを出されて、一人になることができた。
 しばらく様子をうかがってから、グレイスは形だけ入っていたベッドから勢いよく出る。俄然楽しみになってきた。
 クローゼットから先日の箱を取り出し、中身を出す。そして着ていたネグリジェを脱ぎはじめた。
 下着だけになって、普段あまり穿くことなどないズボンに足を通す。ズボン状になっている下の服は、運動の時間にしか着ることを許されていない。それも運動の時間など週に二日ほどしかないのだ。
 そのときだけ今着ているものよりずっと優雅なものであるが、ズボンは身に着けられる。活発なグレイスにとってはこちらのほうがよっぽど身軽に過ごせると思うのだが。
 それはともかく、そのときとは比べ物にならないほど質素なズボンを穿き、上はシャツを腕に通してボタンを留める。少々大きめの上着を羽織って……。最後に長い髪をひとつに束ねた。
 普段、髪を自分で弄ることなどないのだが、いかんせん、グレイスの趣味は刺繍。手先は器用なほうだ。
 ちょっと手間取りつつもリボンできゅっと結び、それをくるくるとまとめて、そこへキャスケットをかぶせる。その中に髪をすべて押し込んでしまった。
 これで準備は完成。部屋の姿見に自分の姿を映してみて、グレイスは満足した。
 どう見ても、貴族のお嬢様には見えない。大人の男性には見えないかもしれないが、とりあえず少年と言い張れるくらいには、中性的に見えるようになった。
 次に引っ張り出したのはこれまた布のカバン。肩から掛ける小さめのものだ。これも勿論、こういうときにしか使わないもの。その中にハンカチやちり紙、そして財布を入れる。
 財布。貴族の令嬢であるグレイスが普段、自分で支払いなどするものか。街に出たときだって大体は従者であるフレンが払ってくれる。
 けれど教養の一部としてお金の使い方は教えられていたし、そのとき勉強用に渡されたいくらかの紙幣や硬貨があった。それをとっておいたのだ。これを使えば、街でちょっとしたものを買うくらいには足りるだろう。
 これで準備は済んだ。グレイスはもう一度、姿見で違和感がないかを確かめて、すぅ、と息をついた。そしてぱっと目を開ける。
 今日は楽しもう。ちょっといけないことではあるけれど、これで自分の気持ちがあがるのならば、やってしまえ。グレイスの本来の気質である大胆、奔放さを今こそ発揮するとき。
 外の様子を十分に伺い、グレイスはそっと部屋を抜け出したのだった。
 ひとに遭わないように気をつけながら、裏口へ向かう。裏口は使用人が頻繁に出入りするので、昼間は解放されているのを知っていた。
 そこからそろそろ外へ出て、門ではなく、これも敷地内の裏へと向かった。けれどこちらにも簡単ではあるが警備が居る。屋敷に入る者はチェックされてしまうのだ。出ていく者に関しても同じこと。
 よってグレイスは裏の庭の端へ向かった。ここに良いものがあるのを知っている。
 がさがさ、と草をかき分けると、そこにはグレイスの目論見どおりのものがあった。石壁が壊れて穴になっている。
 良かった、まだ見つけられていなければ、修理などもされていないようだ。
 少し穴が小さいような気もしたのだけど、グレイスは身を屈めて穴に頭を突っ込んだ。そろそろ身を通そうとする。
 けれど穴の出っ張りに阻まれてしまった。昔はするっと通れたのに。
 グレイスはちょっと不満を覚える。今よりまだ体が小さかったので、するっと抜けられてしまったのだけど、グレイスの気付かぬうちに体は随分成長していた模様。
 それでも、引っかかっていた部分をできるだけ反対側に寄せて、体をじりじり進めていく。布のカバンが邪魔になりそうだったので、肩と頭から抜いて、先に壁の先へと押し込む。
 そうまでして、ようやく穴を通り抜けることができた。ふぅ、と息をつく。
 こんな、地面を半ば這うようなこと、普段するはずもない。ただの令嬢なら顔をしかめてしまうようなことかもしれないのだけど、グレイスはむしろ楽しくなってしまう。
 立ち上がり、布のカバンを元通り肩にかけた。うーん、と手をあげて伸ばす。
 文字通り、羽根を伸ばすためのこの『お転婆』。
 見回りの者や、通りかかったひとに見つからないとも限らない。さっさと行ってしまうに限る。グレイスは周りを見回し、ちょっと速足でさっさと屋敷から遠ざかっていったのだった。
 さて。首尾よく街へ向かうことができたグレイス。
 うきうきしていたけれど、すぐに感じたのは空腹感だった。当然だ、今日は朝食のほとんどを残してしまったのだから。まだ昼にもならないのにお腹は減っている。
 まずはなにか食べたほうがいいだろう。思って、違う意味で楽しみになった。
 街で食べるもの。屋敷で食べるものとはまったく違うものなのだ。
 それに堂々と街へ出られる外出日だって、食事をしに入る店は高級店のたぐい。屋敷のものより多少劣るとしても、それなりの質のものを食べるのだ。
 このお忍びではそんな気遣いは要らない。なにを食べようかと、街へ入ってグレイスはきょろきょろしてしまった。暮らしていないとはいえ、幼い頃から何度も来ているのだからなんとなくは地理もわかる。
 けれど前回来たときとは店の具合が少し変わっているように感じた。新しそうな店も増えている。街は豊かになっているのだろうか、と歩きながらグレイスは感じた。
 それは治世がうまくいっているということなので良いことなのだけど、今はまだ父の管轄。グレイスはそんな事情はわからなかった。
 見つけたのは一軒の派手な店だった。ハンバーガー、などと書いてある。パンズに肉や野菜を詰めて、手で食べるものだ。
 そう、手で食べるもの。グレイスは俄然興味が湧いた。手づかみでものを食べるなど、普段ないからである。
 この店で食べることに決めた。店の前の看板には簡単なメニューが書いてあったのだけど、グレイスの手持ちの金額で十分払えるような値段だと載っていたのも安心できた。
 よって店へ入ったのだけど、ちょっと戸惑った。がやがや賑やかな店内。広いホールにはたくさんテーブルと椅子が並んで、街の人々が食事をしていたり、おしゃべりをしたりしている。
 見ていると、どうやら皆、カウンターでなにか話をしているようだ。そしてハンバーガーや添え物の副菜らしきものが乗ったトレイを受け取って、テーブルに持っていっている。
 しばらく見ていてグレイスはなんとなく察した。カウンターで食べたいものを言うのだ。そして自分でテーブルへ持っていくのだ。こんなシステムの店は初めてなので感心してしまった。
 なんと効率が良いことか。勝手に食べ物が出てくるか、もしくはテーブルについて注文するような店しか知らないグレイスは感動すら覚えてしまった。
 やり方もなんとなくわかったので、グレイスはカウンターへ向かった。初めてなのでちょっとおどおどはしてしまったけれど。
「いらっしゃいませ! ご注文、お決まりですか?」
 カウンターにいたのは元気の良い若い女性だった。グレイスはどきどきしてしまいつつ、「こ、このお店は初めてで」と言った。普段の言葉づかいにならないように気をつけながら。少年らしく聞こえるように、ちょっと乱暴にしておかなければならない。
「かしこまりました。メニューはこちらです。セットメニューがお得になっております」
 示されたのは、カウンターに貼ってある紙。ハンバーガー、チーズバーガー、フィッシュバーガー……など色々あるようだ。そしてそこに飲み物とサラダなどがつけられると書いてある。
 本当はじっくり見たかったのだけど、どうもそういうわけにはいかない雰囲気。なにしろここはスピード重視の店のようだから。
 グレイスはとりあえず無難なものにしておこうと、「では、このチーズのものを」と指差した。
「かしこまりました! サイドメニューはサラダとポテト、どちらにいたしますか?」
 ポテト……茹でたじゃがいもだろうか。
 グレイスはそう予想して、「では、そのポテトを」と答える。そのあともうひとつ、「お飲み物は」という質問が来たので「アイスティーで」と言っておく。それでやっと注文が済んだ。
 慣れない財布を取り出し、慎重に硬貨を数えて、求められただけの金額を出す。お店の女性はそれを受け取って数えて、間違いはなかったようで「ではそちらでお待ちください」と別のカウンターを指差してくれた。
 良かった、上手くいったようだ。グレイスはほっとしてそちらへ向かい、やがて出来上がったハンバーガーのセットとやらを受け取った。
 テーブルへ運んで、椅子につく。これも当たり前だが屋敷や普段行く店とは比べ物にならないほど簡素だった。木がむき出しで、お尻がちょっと痛い。今はドレスやワンピースに仕込んでいるパニエなどもないことも手伝って。でもこれも楽しいもの。非日常なのだから。
 よって気にしないことにして、目の前の食べ物を改めて見た。
 作り立てのハンバーガーはまだ湯気をあげていた。肉とチーズの良い香りが食欲をそそる。
 添えられていたのはじゃがいもだったけれど、茹でたものではなく、細く切って揚げてあるもののようだ。紙の包みに入っていたそれは初めて見るもので、グレイスはしげしげと見てしまった。
 アイスティーはまぁ、屋敷のものとほぼ変わらない。グラスに入ってストローがさしてある。
 さて、いただきましょう。
「いただきます」
 小さく挨拶をして、グレイスはちょっとためらった。
 手づかみで食べる。お行儀が悪くないだろうか。
 でもこんな店では皆、こうして食べている。それなら倣うべきだろう。
 そろっと手を伸ばして、パンを掴む。落っことさないように気をつけながらそろそろと持ち上げて、口に入れようとしたのだけど、肉や野菜が挟まっているせいでずいぶん厚みがあった。これは大口を開けなければだ。
 それもまたお行儀が悪くないかと思ってしまったのだけど、思い切ってがぶりと噛みつく。
 しっかりと火の通った、香ばしい肉の味が口いっぱいに広がった。じゅわっと肉汁が広がる。そしてそこにチーズがとろっと絡んでくる。まろやかで、肉の味を引き立てるような味。
 おいしい。グレイスは笑みが浮かんでくるのを感じてしまった。
 この食べ物は、こうして豪快に食べるから一番おいしいのだ。そうまで感じられる。
 空腹だったお腹には魅力的すぎて、もう一度がぶりと噛みついたのだけど。
「……あっ」
 慣れないことだ。ぱたたっと肉汁がしたたってしまった。ズボンの上に落ちてしまう。
 いけない、汚しちゃったわ。
 思って、ハンバーガーをお皿に戻して慌ててちり紙を出した。ぽんぽんと擦るけれど、落ちたのかはわからない。ズボンは濃い色なのでよく見えないのだ。
 でも裏を返せば、そのためにあまり目立たないはずで。グレイスはちょっとだけ取ろうと頑張ったけれど、結局諦めた。帰ったらこっそり洗えばいい。
 それで食事に戻り、今度は慎重にかぶりついてハンバーガーを食べ進める。その間にポテトとやらを摘まんだけれど、こちらもおいしかった。かりっと揚げられているポテト。塩気が強かったけれど、ほくほくしたじゃがいもの味とよく合っていた。
 アイスティーを時折挟みながら食べていって、お腹の空いていたグレイスはぺろりと平らげてしまった。ふぅ、と息をつく。
「ごちそうさま」
 手を合わせて小さな声で言う。お腹はいっぱいに満たされていた。そして心まで満たされた。