従者は永遠(とわ)の誓いを立てる

「こんばんは、グレイス。今日はおめでとう」
 そこへ次のお客様がやってきた。ぱっとグレイスの顔は輝く。
「ありがとうございます! おばあさま!」
 それはグレイスの祖母。白髪になった髪をアップにし、ワインレッドの落ちついた色味のドレスを身に着けた美しい姿だった。
「まぁまぁ、とても綺麗ねぇ」
 グレイスの姿をよく見て、祖母のレイアは笑みを浮かべて褒めてくれる。グレイスはそれだけでも嬉しかったのに、次の言葉にはもっと嬉しくなってしまった。
「それにドレスだけではないわ。良い淑女になったものね」
 祖母だけあって、幼い頃から知られているに決まっている。昔はこの屋敷で一緒に暮らしていたし。
「ありがとうございます」
 嬉しくなったけれど、ちょっとはにかんでしまった。くすぐったさもあったのだ。
「また私のところへ遊びに来てちょうだい。いつでも歓迎するわ」
「はい! お邪魔いたします」
 マリーと同じように、レイアの屋敷へも割合頻繁に訪ねている。レイアの屋敷ではいつもグレイスの好きな料理やスイーツを出してくれるし、心許せる優しい祖母であるレイアと過ごす時間はいつも心地良かった。
「ではね。良い晩を」
 レイアはそれで去っていった。グレイスは小さくお辞儀をしてそれを見送る。
「おめでとう、グレイス」
 次にやってきたのは伯父であった。今は亡き、母の兄である。
「ありがとうございます、おじさま」
 グレイスは丁寧にお辞儀をした。そんなグレイスを伯父はまじまじと見て、「美人になったものだ」と感心したように言ってくれた。
「髪の色は違うが、顔立ちがアイリスにそっくりだ。懐かしいよ」
 伯父はグレイスの母、アイリスの名前を挙げて褒めてくれる。グレイスもなんだか懐かしいような気持ちを覚えた。
 母のこと。物事つくかつかないかという頃に亡くなってしまったのだから、良くは知らない。
 ただ、つやつやの金髪と、グレイスと同じ翠の瞳を持った外見くらいはぼんやり覚えているし、似ていると言われれば嬉しいに決まっている。
 伯父は当然のように、アイリスが嫁ぐまで一緒に過ごしてきたのだ。一緒に成長してきた兄妹なのだ。アイリスが亡くなったときはさぞ嘆いたことだろう。
「それに今日はいいお話があるそうじゃないか」
 しかし次に出た話題はあまり嬉しくなかった。グレイスの顔はほんの少し、ほんの少しだろうが曇ってしまう。伯父はそれには気付かなかったらしい。上機嫌のようだった。
「遠目に拝見しただけだが素敵なお方だな。伯爵家の方だというではないか」
 そのまま婚約の話になってしまう。流石に親戚なのだから話が通っていたらしい。それでも一応、まだ発表前のこと。それだけで終わってくれた。
「では、またな」と伯父が行ってしまってから。グレイスは小さくため息をついてしまった。
 いい返事をすると受け入れたものの、話題に出されれば楽しくなくなってしまうのは、自分が未熟過ぎる気がしたのだ。こんなことではいけないのに。
「お嬢様、お飲み物はいかがですか?」
 横から声がかかった。フレンだ。飲み物で満ちたグラスを持っている。
 グレイスを落ちつかせるようににこっと笑ってくれた。きっとグレイスの複雑な心境をわかってくれたのだろう。
 大丈夫、フレンは傍にいてくれるのだから。そう誓ってくれたのだから。
 良いことに目を向けようと思って、グレイスは笑顔を浮かべた。ちょっと無理はしたけれど。
「ええ。ありがとう」
 受け取ったグラスはオレンジジュースが入っていた。ルージュが落ちないように気をつけつつ飲む。良いオレンジを使っているようで、酸味が少なく、むしろ甘かった。その甘味がグレイスを落ち着けてくれたのか。
「こんばんは、グレイス」
 今度はまた違う親戚がやってきても、にこっと笑顔を浮かべて「こんばんは、本日はお越しいただきありがとうございます」と、素直に言うことができたのだった。
 パーティーも佳境となった。そろそろだろう。グレイスもきちんとパーティーの計画は把握していた。
 その通り、ベルが鳴った。軽やかなベルの音に、お客様たちはおしゃべりをやめて、グレイスの父のいる壇上へ目を向ける。グレイスは父の横に控えていた。どきどきしてくる。
 これからついに、婚約がおおやけになる。実際のことになってしまうのだ。返事は決まっているとはいえ、初めてのことだ。緊張が解けない。
「皆様。これより領主様よりお話がございます」
 執事長が粛々と告げた。お客様は静まり返る。お客様の中でも話が通っていないひとたちもいるだろう。そのひとたちの、少々戸惑った空気も伝わってきた。
「皆様。この度、娘に良いお話をいただきました。……オーランジュ様」
 父が名を呼びそちらに視線を向ける。ダージルはやはり元の椅子にいたのだが、その視線で腰を上げ、つかつかとこちらへやってきてくれた。胸に手を当て、深々とお辞儀をする。その様子は、この場にいる誰よりも身分が高いなどとは感じさせてこない丁寧さだった。
「ダージル=オーランジュと申します」
 その挨拶だけでその場にざわめきが広がった。ダージルが伯爵家であるオーランジュ家だと名乗ったことでだ。家族構成など知らずとも、つまりダージル本人を知らずとも、お客様は貴族の方たちだ。伯爵家の名を知らないはずがない。この状況でなんの発表かも悟られただろう。
「オーランジュ様と、娘・グレイス。この度、婚約を交わすことになりました」
 父の宣言に、その場には、おお、と感心したような声が溢れる。お客様のいるホールから、嬉し気な空気が伝わってくるのをグレイスは感じた。これは祝福されそうである、と思う。
 受け入れられないよりはよっぽど良いが、逆に受け入れられたことで外堀を埋められる形にはなるのだわ、とぼんやり思った。
「グレイス嬢」
 ダージルがグレイスの前に進む。グレイスも一歩踏み出し、お客様たちの前に立った。そのグレイスの手を、ダージルが取る。
 白い手袋をした手は、手袋ごしでもほのかにあたたかいのが伝わってきた。グレイスの手をすくい、持ち上げ、そしてそっと顔を伏せた。手の甲へのくちづけ。
「わたくしと、婚約してくださいますか」
 それはただの形式美であった。グレイスの答えは決まっているのだから。
 グレイスは胸の中でごくりと息を呑んでしまった。ホールは静まり返っている。固唾をのんで見守っている、という空気だ。今、そちらを見るわけにはいかなかったけれど。
「わたくしでよろしいのでしたら、謹んでお受けいたします」
 グレイスはしっかりと返答した。決めていたとおりの言葉を言う。ダージルも、グレイスの返事などわかっていただろうが、満足したように目を細めた。
 婚約の成立に、おお、とホールに再びどよめきが広がった。一拍遅れて、パチパチと拍手の音が聞こえる。すぐにホールに響くほどの音量になった。
 会場の皆から祝福されて、グレイスは笑みを浮かべた。ほかに表情などないではないか。
 グレイスのこれを作り笑顔だと思ったか、どうか。ダージルも笑みを浮かべたのだった。
「後日、改めて婚約の儀を執り行います。改めまして、皆様にもご挨拶のお便りを……」
 そのあとは父の話に戻った。父もほっとしただろう。そんな空気がグレイスに伝わってくる。
 ダージルの横に並び、それを静かに聞きながら、グレイスは右手が気になっていた。
 ダージルにされた、求婚のくちづけ。やわらかく感じたくちびるの感触。
 嫌悪はなかった。そういうものだと思った。
 けれど、喜びはない。ときめいたり、どきどきしたりする気持ちもない。
 フレンにされたときとはまったく違っていた、とグレイスは思ったのだった。
 左手の薬指できらきらと輝くシルバー。グレイスはそれを陽にかざしてじっと見つめた。
 先日の『婚約の儀』。そこでダージルにもらったものだ。グレイスのほっそりとした薬指に婚約指輪を通してくれたダージルは、誕生日パーティーのときと同じように優しげだった。
 こうして、名実ともに婚約は成立してしまった。結婚式は一年後ということになっている。
 一年。遠いのか近いのか。グレイスにはまだ実感がわかなかった。
「ここにおられましたか、お嬢様」
 さくさくと草を踏む音がして、グレイスは振り返った。庭のベンチ、木陰でぼうっとしていたところを見つかったようだ。
 今日は午後からしか予定が入っていない。でもそろそろ昼食の時間だろうか。それで呼びに来た、などだろうか。
 グレイスはフレンがやってきた理由をそのように予想した。
「なぁに? もうお昼?」
 そのまま訊いたのだけど、フレンは笑って首を振る。
「いえ、まだお早いですよ。良いものが届いたので、早くお見せしようと」
 フレンの持ってきたもの。それはひとつの箱だった。蓋を開けてくれたのでグレイスは覗き込む。そして、ぱっと目を輝かせてしまった。
「綺麗ね……!」
 入っていたのは、色とりどりの糸の束。赤、青、黄色……色ごとに、丁寧に揃えてまとめられている。これは刺繍糸。グレイスの趣味には欠かせないものだ。
 少し前に「新しい糸が欲しいわ」とフレンに相談していた。消耗品だからなくなってしまうのだ。いくら趣味のひとつの刺繍で使うだけで、大量には使わないとはいえ。つまり、フレンが新しく手に入れてくれた刺繍糸、というわけだ。
「つやつやね」
「はい。絹糸です。これ以上細いものは作れないそうで……繊細な刺繍に使うのにはとても向いているでしょうね」
「そうね。細かい模様を刺したらとても綺麗だと思うわ」
 そっと一束持ち上げる。それはピンク色のもの。つい、好きな色を手に取ってしまった。
 手にして感嘆した。見た目よりももっとつやつや。手触りはしなやか。外の領か、もしくは外国などから取り寄せてくれたのかもしれない。この近くに、これほど上等の絹糸が取れる養蚕業はないから。
「なにを作りましょうか。細かい模様でしたらカフェカーテンなどもよろしいかもしれませんね。これから暑くなりますし」
「それ、いいわねぇ。お部屋の窓の傍の棚にかけたら綺麗だと思うわ」
 そんな何気ない話をする。このピンクの糸で部屋の装飾になるものを作ったらとても良い気持ちで毎日が過ごせるだろう。
 なにを作ろうかに夢中になっていて、グレイスはついつい手元から目を離してしまったようで。くっと、いきなり指先ではないところが糸を引っ張ってしまった感触がして驚いた。
 そちらに視線をやると、糸が引っかかってしまっている。……グレイスの銀色の指輪、に。
 グレイスはちょっと目を細めてしまった。楽しい話をしていたのに、指輪に意識を引き戻されたように感じてしまったのだ。
 楽しいのは今だけ。いつかこの時間はなくなるのだ、と。
「ああ……引っかかってしまわれたのですね」
 けれどフレンは特になにも思わなかったのか。事実だけを告げて、グレイスの手元に手を伸ばしてきた。「失礼しますね」とことわってから、糸をそっと外してくれる。
 その様子はまたグレイスをちょっと寂しくさせた。フレンの手、手袋をしていてもほのかに伝わるあたたかさ。
 それが触れてくれるのが、この指輪をつけてくれるときではなかったこと。
 馬鹿なことだと思う。そんなことは当たり前なのに。
「まだ慣れなくて……たまに引っかけてしまうの」
「すぐに慣れますよ」
 グレイスの言葉は、引っかけてしまって落ち込んだものだと思われたのだろう。フレンはグレイスの指元から回収した糸を、くるくるまとめている。
 今、元通りにはならないだろうが、フレンならあとで、束から引っ張り出してしまったことなどわからないくらい綺麗にまとめてくれるのだろうと思う。
「ところで、お嬢様」
 理由はともかく、グレイスの気持ちを慮って、かもしれない。フレンはグレイスの顔を覗いて、にこりと笑った。
「来週に外出許可が出ておられるでしょう。そのときに、布を見に行くのはいかがですか?」
 フレンの提案は、グレイスの心を簡単に浮上させてくれた。ぱっとグレイスの顔が輝く。
「行きたいわ!」
 そうだ、来週は外出できるのだった。色々ありすぎて、グレイスはすっかり忘れていた。
 グレイスの嬉しそうな顔を見て、フレンも釣られたように笑む。その笑顔につい、甘えるような言葉が出てきていた。
「勿論、フレンが来てくれるのでしょう?」
 それは今までだったら訊かなかったようなこと。グレイスの従者であるフレンなのだ。外出についてこないということは、よっぽどのほかの用事がない限り、ありえない。
 そして今回もそうだったようだ。フレンは当たり前のように肯定した。
「ええ、私が参りますよ」
 単純なものだ。グレイスは一気に嬉しくなってしまう。
 外出自体が久しぶりなのだ。親戚の元にお出掛け、などでない用事。マリーや祖母レイアなどの身内以外、私的な『遊び』ともいえる外出は月に二、三度しか許されていなかった。
 なにをしようか、フレンの言ったように手芸店に布を見に行きたいし、それに洋服や雑貨、メイク用品も見たい。
 服は街中の店で売っているものなど、買っても家で着ることは許されない。貴族の娘らしい服でないと父は許してくれないのだ。
 なので欲しいと思ったものをチェックしておいて、屋敷で似たようなものを仕立ててもらうのが常であった。まったく同じにはならないけれど、とりあえず自分の好みに近いものは手に入る。それで満足しておくのが平和。
 まぁ、『貴族の娘』らしくない服を着ることも、ごく稀にあるのだけど……それはともかく。
 そのあとはフレンと、その外出の話になった。行き先は先程グレイスが頭に描いたことであったけれど、もう少し先にある夏の避暑地への用意なども視野に入れておいたらどうかということになり、相談、とはいうものの楽しい話がどんどん出てくる。
 あまりに楽しすぎて、屋敷からメイドが「お嬢様、お昼のお時間ですよ」と呼びに来てしまい、フレンはそこでやっと、時間に気付いたらしい。こうして話をしていても、普段は時間のチェックを怠らないのに。
 フレンは苦笑いして「夢中になりすぎましたね」と言ったのだが、グレイスは「いいえ、楽しかったわ」と心から笑みを浮かべたのだった。
 外出。買い物。
 その夜、グレイスは頭の中にそればかり描いてしまっていた。
 いや、昼にフレンと話したようなほのぼのした内容ではない。もう少し良くない……フレンに言わせれば『お転婆』なことである。
 クローゼットの中にこっそりしまってあるもののことを思い出す。しばらく使っていなかったけれど、サイズなどに問題はないだろう。つまり、準備としてはそう多くは要らないはず。
 そろそろおやすみなさいませとされて、ベッドに入っても色々考えてしまって。しばらくは考え事をしていたけれど、そのうちいてもたってもいられなくなって、がばっと起き上がった。さっき考えていたクローゼットを開ける。
 クローゼットの奥の奥。すぐに出せない場所に入れたうえに、厳重に箱に入れて保管してあるもの。久しぶりに取り出すことになった。
 箱ごと取り出して、ソファへ持っていって、そこで蓋を開けた。
 中に入っていたのはベージュのシャツと焦げ茶の上着。そして黒のズボン。それと、大きめのキャスケット。こんな場所にはまったくそぐわない服たち。
 これは、グレイスの秘密の服。そう、『お転婆』をするときの装備品なのだ。
 中身を確かめる。最後に着たのはもう数ヵ月前だったけれど、そこから体型はあまり変わっていないので大丈夫そうだ。元々、少し大きめの作りなのだし。
 久しぶりにこれを使うことを考えて、グレイスはどきどきしてきた。
 こんなこと、良くないことだ。そんなことわかりきっている。
 けれど、使いたくなってしまった。ここのところ、息が詰まることばかりであったから。
 来週は外出許可が出ていて、フレンとお出掛けができる。それも楽しみだったけれど、待ちきれなくなってしまったのだ。
 中身を元通り箱に戻して、クローゼットの元の場所に入れて、グレイスは改めてベッドに潜り込んだ。
 『それ』をいつにしようかと考える。ひとの目につかない日や時間がいいに決まっている。
 そう、父が外出中とか……仕事が忙しくてこもっているとか……。
 プラスして、フレンにも用事がある日でなければいけない。頭の中に自分の予定を思い描いて、今度フレンの用事もこっそり情報取得しなければ、と思う。
 グレイスはなんだかわくわくしてきてしまった。良くないことを企んでいるというのに。元々、自分には合っていなかったのだ、と思う。どうにもならないことをうじうじ思い悩んでしまうなんて。
 だから、これはグレイスが自分らしく羽を伸ばせるためのこと。
 計画を立てているだけで、ちょっとの罪悪感はあれど、久しぶりに胸躍るようなことだった。