「いらっしゃい」
通された客間。訪ねてくればいつも通されるようになっていた部屋だ。
そこでそわそわ待っていたグレイス。しばらくしてダージルがやってきた。
今までとまったく変わらない、ぱりっとした格好をしている。その姿を見るのは旅行以来であった。もう一ヵ月近く前。
グレイスの胸に罪悪感が溢れる。あのときの振る舞いが失礼であったと、今まで以上に胸に迫った。
グレイスは立ち上がって、ばっと頭を下げた。
「申し訳ございません、ダージル様。とんだご無礼を……」
グレイスがそうすることなどわかっていただろう。ダージルはすぐに「いや」と遮ってきた。
「もういい。それより話をしよう」
そう求められて、グレイスはそろそろ顔をあげた。
ダージルは微笑んではいなかった。怒り、ではないとは思うが、とりあえず友好的な表情ではない。
こんな状況では当たり前のことだろうが。それでもグレイスの胸には恐ろしさが確かに生まれた。
促されたので、グレイスはそろそろと元座っていたソファへ再び腰掛けた。ダージルは向かいの肘掛け椅子にどっかり腰を下ろす。グレイスは逆に、ちんまりするしかない。
「グレイス」
口火を切ったのはダージルだった。グレイスは小さな声で「はい」と答えた。
「あのときのことはもう謝らなくてもいいが。訊きたいことがある」
なにを訊かれるなんてことはわかりきっていたのだが、グレイスはやはり「はい」と言うしかなかった。
「あの従者。グリーティアとかいったか。あれと恋仲なのかな」
フレンの名字を出されて、グレイスの胸がひやっとした。話題にならないはずがないので覚悟はしてきたけれど、実際に直面してしまえば。
「いえ、」
グレイスは震えるくちびるを開いた。なんとか言葉を押し出す。
「恋仲では……ございません」
そう言うしかないのは違う意味で胸が痛む。もう散々思い知っているというのに。
ダージルはグレイスの言葉に眉を寄せた。はっきりと不快だという表情になる。
今まで丁寧な態度で接してくれていたダージルのこのような様子、初めて見る。グレイスとの今の状況からしたら、まだ優しいほうだったかもしれなかったが。
「嘘をつかないでくれるか。恋仲でないなら抱擁などしないだろう」
もう一度、グレイスの胸がひやっとした。今度ははっきり痛みもついてきた。
見られていた、ようだ。
もしかしたら、ダージルはフレンがグレイスの元にやってきたあとから追いかけてきて、見つけていたのだろうか。
これは羞恥よりも恐怖が強かった。
それでも説明しなければいけない。嘘をついても意味がないし、誤解もされたくない。
グレイスはからからになった喉で無理やり唾を呑み込んで、もう一度くちびるを開いた。
「本当に違うのです。……わたくしが、……想っているだけ、です」
グレイスの釈明に、ダージルは黙った。口をつぐんでしまう。
わかっただろう。フレンと恋仲なのではなく、グレイスが片恋をしているだけなのだと。
少なくとも、関係としてはそのような状況なのだと。
そうであれば、ダージルからの取り方も少し変わってくることになる。
沈黙が落ちた。グレイスはワンピースの膝の上で、手をぎゅっと握っているしかない。
恐ろしいと思う。
今すぐ出ていけと言われるかもしれない。
もしくは、ぶたれたりするかもしれない。
そうされても仕方がないとも思うけれど。
一体どのくらい沈黙が続いただろう。唐突にダージルが口を開いた。
「正直に述べると、失望したよ」
どくん、とグレイスの心臓が跳ねた。言われて当たり前のことなのに。
「きみも結婚について、前向きでいてくれると思っていた。そりゃあ、貴族の家のことだ。結婚と恋が結びつくかは別だろう。実際、私ときみとて婚約が先立っていたのだから」
グレイスはただそれを聞く。口を挟むことなどできやしない。
「だから別のところで想っていた相手がいるというのは、別段おかしいとは思わない。従者というからには付き合いも長いだろうし」
ダージルは一人で話を続けた。特にグレイスには返事などを求めてこない。
「だが私と婚約を交わしたというのにそれを引きずるのかい。受け入れたのなら、このようなことは困るのだ」
「……申し訳、ございません」
ダージルの言葉はすべて正論であった。グレイスは視線を落として、謝罪の言葉を述べる。
これからどうなろうとも、グレイスに拒否権はない。婚約解消と言われようとも、このまま嫁げと言われようとも。
それはレイアによってなにか介入があるのかもしれないが、とりあえず、ダージルから要されたことならグレイスに嫌ですなどと言える権限はないのである。
だからグレイスはなにを言われても受け入れるつもりであった。
「……少し考えさせてくれ。私も、そういう女性とこれから共にいることについて考えねばならないから」
ダージルの言ったことは『保留』であった。グレイスを赦してくれるものでも、逆に赦しはしないというものでもない。
ある意味、グレイスにとっては生殺し状態であり、こちらの状況のほうが苦しいもの。
けれど、ダージルとてグレイスの状況や心情を把握したのはこれが初めてなのだ。すぐにどちらかに決めろというのも酷な話である。
「かしこまりました」
グレイスはただ、そう言った。
それで、この日の訪問は済んでしまった。お茶や休憩もすることはなかった。そんな悠長なことをしていられる場合なものか。
グレイスを引き受けに執事長が待機室からやってきて、慇懃に礼をした。
「この度は大変に失礼を致しました。領主様に代わりましてお詫び申し上げます」
「ああ。また連絡する」
ダージルの返事はやはり素っ気なかった。今までなら使用人にもそれなりの優しさをもって接するようなひとなのに。
私は、このひとのことを傷つけてしまったのだわ。
グレイスはそれを肌で感じた。
それは初めて考えることではなかったが、少なくともやっと実感したというところまで認識が届いたといっていい。
今まで自分の辛さに閉じこもるばかりで、ダージルの気持ちなど考える余裕がなかった。
胸が痛む。
想ってはいない。
結婚もしたいとは思わない。
これから想うこともきっと、できない。
けれど。
……ダージルのしてくれた、いくつものこと。そのすべてが嫌だったなんてことはないのだ。
それを裏切ったことは、確かに抱えていかなければいけないのだった。
グレイスがダージルに会いに行った頃。レイアの暮らす屋敷では色々とひとが出入りしていた。
それも穏やかなお客ではない。ひとめを忍んでくるようなお客である。
やましい理由ではないが、レイアの元へやってきて、そしていくらかの話をして、またこのあとのことを打ち合わせて帰っていく。
レイアは毎日のようにそれを迎え、聞き、次の指示を出すのだった。
執務がグレイスの父、レイシスの代に取って代わって、ある意味引退となったレイア。
領主を務めていたのは夫であったが、もうとっくに亡くなっている。それでレイシスがあとを継いだのであるし。
しかしレイアとて、領主の妻としてじゅうぶんな働きをしていたといえよう。そのことから引退という身分になったのだ。今は屋敷で僅かな使用人に囲まれて静かに暮らしていたところ。
だがこの状況である。大切な孫が苦境に立たされてしまったのだ。黙って見ていることなどできはしない。
できることなど限られている。領主の妻として領主を支えてきたとはいえ、この世ではまだ一段階身分が下の女性である身。どうしても仕方がない。
けれど、若い頃から社交的な性格であり、また行動的であったレイアには、人脈という大きな武器があった。グレイスにはその行動力がお転婆という形で引き継がれたのだろうが、それはともかく。
屋敷に出入りする人々は様々なものを持ってきた。もの、というか。形のあるものではないことが大半だったが。
少しずつ。
その『もの』たちの断片が集まってきて、まとまってくる。
可能性が見えてきたとき、レイアは思わず目を細めていた。
意外であったけれど、まったくありえないことではなかった。そういう、もの。
もう少し。
レイアは毎晩祈った。
グレイスに、大切な孫に、幸せが訪れますように、と。
夢を見た。随分昔の……もう十年以上前になる頃の夢。
グレイスがまだ子供の頃だったときのこと。
「は、はじめまして!」
緊張した面持ちの少年と初めて出逢った。やわらかな金髪に優しい翠色の瞳を持った、まだ大人には程遠い少年だ。
背も低く、傍にいたグレイスの父、領主のレイシスの肩までもなかっただろう。
父に呼ばれて、執事長に連れられてやってきたグレイスは、父の部屋で初めてその少年に出逢った。
「グレイス。ご挨拶は」
父に促されて、まだ子供のグレイスはぺこりとお辞儀をした。
「はじめまして」
当時から物怖じしない性格だったグレイスはしっかり挨拶を口にして、執事長の陰に隠れることもなく、じっと少年を見つめた。むしろ少年のほうが臆した様子を見せる。
「グレイス、この子はフレン=グリーティア。今日からこの屋敷で暮らすことになった」
父の説明に、グレイスは小首を傾げた。
このおうちで?
その様子に、父はもう少しわかりやすい説明をくれる。
「この屋敷で働くのだ。使用人だ」
そう言われれば幼いグレイスにも理解できた。屋敷で働くひとのことをそう呼ぶことはもう知っている。
当時のグレイスには、単に自分たちのお世話をしてくれるひとたち、という認識だったけれど。
「わかりました」
あどけない口調で言ったグレイス。丁寧な言葉遣いはまだ完璧なものではないが、仮にも貴族の令嬢なのだ。幼くとも言葉は丁寧にするよう躾けられている。
「それで、この子がお前の従者になる。従者とは、ずっと傍にいてお前の世話をしてくれるという意味だ」
グレイスにとっては驚きだった。使用人、と聞いたときとはまるで違っていた。
なにしろ自分の傍にずっといてくれる存在だというのだ。
いきなりそんなひとができるとは思わなかった、と幼いグレイスは驚いて目を丸くしてしまったものだ。
「アイリスがもう逝ってしまったからな……少しでも助けになると良いが」
ぼそりと父の言ったことの意味は当時のグレイスには理解ができなかったし、なんなら現在のグレイスも覚えてはいなかった。
ただ、緊張した面持ちのフレンが執事長に促されて一歩踏み出し、そろっと手を差し出してくれたことは覚えている。
「フレン=グリーティアです。お嬢様、これからどうぞよろしくお願いいたします」
緊張した様子ではあるが、丁寧な言葉と、優しい口調。ぎこちないながら笑みも浮かべてくれていた。
きっと優しいひとね。
グレイスは嬉しくなって、思わず「ええ、よろしく!」などと、あまり丁寧ではない言葉が出てしまったほどだ。
グレイスも手を伸ばして、フレンの手に触れた。
まだ少年であるフレンの手は、子供らしくごつさがなく、むしろふっくりしていると言っても良かったくらいだ。
けれど、グレイスの手をしっかり、でも優しく握ってくれたその手のあたたかさ。
グレイスはいくら成長しても、忘れずにずっと心の中に覚えていたのである。
数年が経ち、グレイスはもう少しで十歳という頃になり、フレンは成人間近の年頃になっていた。
活発な少女なのだ、それなりに自我が確立して、したいこともできることもどんどん増えていった。
フレンも屋敷にすっかり馴染み、仕事も覚えて、一人の優秀な使用人として自立し、そして初めて出逢ったときの通りにずっとグレイスの傍にいてくれた。
実のところ、グレイスがフレンに出逢う、ほんの一年ほど前にグレイスの母のアイリスは亡くなっていたのだ。フレンがグレイスの従者として宛がわれたのも、そのことが大きかったのだろう。
グレイスはまだほんの子供だったので、母がいなくなったということは理解しても、それがどうしてなのかということまではわかっていなかった。
ただ、泣いた。寂しくて悲しい気持ちだけはよく覚えている。
そんなグレイスの傍には父と、それから当時は一緒に暮らしていた祖母のレイアとその夫の前領主、グレイスにとっての祖父など、近しいひとは何人もいた。決して独りぼっちだったわけではない。
けれど父は思ったのだろう。情緒や教育のためにも、きょうだいに似た存在が傍にいると良いとか、教育係も兼ねられる者が良いとか、歳が近くてグレイスを理解してやれるような存在を傍に置きたかったとか。
詳しい理由はわからないけれど、とにかくそういう類のことのはず。
ただ、グレイスには当時から引っかかっていることがあった。
それに関してはフレンに訊いたことがある。
「フレンのお父様やお母様は?」
自分の父のことは勿論、理解していたし、母は亡くなったのだということも既に理解していた。
そうであるからこそ、フレンはどうなのかということが気になる年頃になったともいえる。
爽やかな初夏の日だったように思う。日差しが明るくて、風が心地よかったことはほんのり覚えているから。
庭で話をしながら、ときにお茶など飲みながら、ふとグレイスはここしばらくの疑問を口に出したのだ。
「そう、ですね。もうおりません」
フレンは笑みを浮かべた。多分、ちょっと困ったような笑みだっただろうけれど。
「いないの? 私のお母様のように、亡くなってしまった、のかしら」
自分のことと照らし合わせて訊いたのだけど、フレンは首を振った。
「いえ、そういうわけではないと思います」
「生きてらっしゃるのに、いないの……?」
グレイスは不思議に思った。貴族の令嬢として生まれ、育てられたグレイスにはそのとき理解ができなかったのだ。そのあとフレンが言ったことが。
「別れてしまったのですよ。もう、会えないのです」
フレンはそう言った。ちょっと寂しそうな表情を浮かべて。
グレイスがその意味を理解するのは、更に数年後であった。
フレンはある意味、捨てられた子供、といっても良い存在であったのだ。
流石に理由までは突っ込んで訊けなかったし、もしかしたらフレン本人も知らないことだったのかもしれない。
ただ、親に育てることを放棄された。それは確かなこと。
そこからなにかの縁で、父の元へやってきて、やはりこの確かな理由はわからないが、父はフレンを雇うことにした。使用人として、グレイスの従者として。
その選択は間違っていなかった。フレンは優秀な使用人で従者に成長したのだから。
父もフレンを一人の使用人として重宝するようになっていたし、グレイスの世話も多方面に渡って任せていたほどだ。それでグレイスにとって『半ば育ててくれた』存在になったわけだが……。
それはともかく、フレンに両親がいないと言われたグレイスは、あまり良くないことを訊いてしまったと、幼心に思ったものだ。
「ごめんなさい、それは寂しいわね」
素直に謝って、寄り添うようなことを言ったグレイス。フレンはそんなグレイスににこっと笑ってくれた。
「いいえ。もう過去のことですから。それに今、私には別の家族がおります。寂しくなどございません」
グレイスにすぐにはわからなかった。
両親がいないのに家族、とは。
そんなグレイスに、フレンは嬉しそうな顔をして言ってくれたものだ。
「お嬢様が、そしてこのお屋敷の皆様が私の家族です。お父様やお母様とは違いますが、一緒に暮らしている大切なひとたちなのです」
グレイスもそれを聞いて嬉しくなった。
「私、フレンの家族なのね!」
フレンも嬉しそうに言ったグレイスに、ほっとしたのだろう。優し気な翠色の瞳でグレイスを見つめて言ってくれた。
「はい。私にとって、一番大切なひとですよ」
昨夜の夢は長かった、と目覚めてからグレイスは思った。
子供の頃の夢。たまに見ることはあったけれど、物心ついたばかりの頃から、少女になって間もない頃のことまで。一晩で見るとは奇妙なことだ。
でも、懐かしかった。
それに嬉しかった。
夢の中であってもフレンに出逢えたことが。
まだ少年だったフレンの夢を見たのは、ただの『逢いたい』という願望だったのかもしれなかったけれど、とても幸せな夢だった。
ずっと傍にいてくれた。
誓ってくれた。
『わたくしは、いつでもお嬢様のお傍に』
あの言葉。
今では、離れてしまった今では、違えてしまっているのかもしれない。
けれどグレイスは、そんなことはないのではないか、とここしばらく思うようになっていたのだった。心の安定が前向きに捉えさせてくれるようになっていたのかもしれない。
再会できるかはわからない。いくらレイアが「任せてほしい」と言ってくれたとはいえ、保証もない。
でもグレイスは落ちついていた。
フレンは嘘をつくようなひとではないから。
それはもう、出逢ってからずっとそうだった。
グレイスに対して真摯で、真っ直ぐで、とても優しくて、そしていつも手を伸べてくれるひと。
だからあの言葉。嘘になんてならない。
夢の中のフレンからそう伝えられた気がした。
グレイスは良い気持ちでベッドから出て、カーテンを開けた。
さぁっと陽の光が差し込んでくる。もう秋も深まって少々寒いのだけど、まだ陽は明るい頃だ。朝日ならば尚更。
グレイスは目を細めた。レイアの言ってくれた通り、なにもかも上手くいく、気持ちになれたのである。