従者は永遠(とわ)の誓いを立てる

 かわいらしいドレスで支度をしているのに、あまり楽しくはなかった。普段ならこんな特別なドレスの試着ともなれば、メイドたちと一緒にはしゃいでしまうのに。今回ばかりは楽しいはずがあろうか。
 しかしリリスは特に気付かなかったようだ。普段と同じように明るい顔と声で試着を進めてくれている。
 こんなにかわいらしいドレスを着るのに。一番近くで見るのは恋している相手ではなく、別の男性なのだ。そう思っただけで、もう今から憂鬱だった。
 馬鹿なことだと思う。今までだって、別にフレンが一番近くだったというわけではないのだ。恋仲などではないのだから。
 ただ、グレイスが無邪気に「素敵でしょう」と、ある意味見せびらかすようなことをして、一番に見せていたのは子供の頃からそうであったし、フレンもにこにこと「とても素敵です」と言ってくれていただけなのだ。今となってはそんなこと、おままごとのようだったとも思ってしまう。
「さぁ、次はメイクも試してみましょう。先日、新しいアイシャドウを買いましたでしょう。お嬢様が特にお気に召した……」
 確かに先日、雑誌を見て新作だというかわいらしいコスメを見つけていた。それを街から取り寄せてもらったのだ。外の領、もっと栄えている街から仕入れたものだという。
 見たときにはとても心躍って、「特別なのだから、誕生日パーティーでつけてみるわ!」と決めていたのに。なんだか色あせてしまったような気持ちになった。コスメにはしゃいだ気持ちも、かわいらしく豪華なパッケージに入ったアイシャドウすらも。
 でも断ることなどできるはずもない。グレイスは「そうね。お願いするわ」とだけ答えた。
 でもあまり素っ気ないと、なにか……気が進まないのだと思われるかもしれない、とやっとそこで思い至った。
 メイドや使用人たちには婚約の話などまだ通っていないだろう。だから誕生日パーティーでなにがあるかなど知らないはずで。なのでグレイスは意識して笑みを浮かべた。
「とても良く発色すると書いてあったわ。ラメもとてもかわいらしいと」
「そうですね! 先日拝見したときも……」
「まぁ、先に見たの? 狡いわ」
「使わせていただくのですから、お許しくださいまし」
 リリスはグレイスの内心など気付かなかったようで、ここまで通りに明るく話してくれた。
 鏡台の前に座らされて、リリスにいつもより丁寧で濃いメイクをお試しにされながら、閉じた目の中でグレイスはあることが気になっていた。
 ……フレンは、誕生日パーティーで婚約発表があることを知っているのだろうか?
 不意に思った。グレイスの従者であるので、パーティーでグレイスの動く手順などはフレンがいつも用意や手伝いをしてくれていた。実際、父も『打ち合わせをした』と言っていた。
 けれどそれはどこまで話したのだろう。詳細までだろうか。
 その可能性はなくもなかった。婚約発表など重大な、ある意味イベントなのだ。従者が把握していなければ困ることになる。
 つまりグレイスに婚約や結婚の話が出たことを知っているのだろうか。その可能性を思ってしまえばもっと心が沈んでしまいそうで、グレイスは一旦、心からそれを追い払うことにした。
 今、考えても良いことなんてないだろう。意識してかわいらしいコスメや、それで飾られていく自分のことに集中する。このあと、一人になった夜にでもこの件は思い悩んでしまいそうだとわかっていても。
 誕生日パーティーの少し前であった。グレイスがフレンとパーティー中の行動の打ち合わせをしたのは。
 今日は試着のドレスではなく、普段着の小花柄のワンピースを着ていたけれど、なんとなくあのドレスがまとわりついている気がした。ほかの男性との婚約をされる象徴のように感じてしまったドレス。
「領主様のご挨拶のあとは、乾杯……そしてご親族へのご挨拶から……」
 革張りの上等なノートカバーをかけた計画表をフレンが読み上げ、説明してくれる。
 フレンも普段着。いつもどおりの黒のかっちりした燕尾になっている服を着ていた。
 でもパーティーとなればもう少し格式のある礼装をして、グレイスの横に立ってくれる。
 ……今まで通りフレンがエスコートしてくれるのだろうか。今までは従者としてでも自分をエスコートしてくれる、そんなことだけが嬉しかったのに。
 これからは別の男性、つまり夫となる男性にエスコートされることになるのだろうか。今回はただの婚約だからそれはないかもしれない。けれど今後のことを思うと。想像だけでも既に心に陰りが生まれそうだった。
「……お嬢様? 聞いておられますか?」
 フレンが計画を話すのを中断してグレイスに尋ねてきて、グレイスはやっと、はっとした。
 聞いていなかった、と思う。けれど正直に言うのはためらわれた。
 「聞いてたわ」と言うけれど、それは通用しなかった。
「上の空のお顔をされていましたよ」
 ちょっと目をすがめて言われてしまう。グレイスは黙るしかなかった。幼い頃から見られているだけある。言い訳をするときの様子などお見通しということだ。
「体調でも優れませんか?」
 けれどフレンが言ったのはそれだった。叱ってもいいのに、グレイスのことを心配してくれる言葉。
 体調が悪いわけではない。体調は悪くはないけれど……。悪いのは、心の調子が、だ。
 グレイスはごくりと喉を鳴らした。計画はまだ読み上げられている途中で、一応、まだ婚約云々の話題までいっていないことだけはわかる。
 それを聞いてしまうのだろうか。決定打をほかならぬフレン本人から。
 聞きたくない、と思う。
 きっと「おめでとうございます」と言われてしまうから。そんなこと言われたくないのに。
 けれど向こうから言われるより、こちらのほうがずっとましな気がする。よって、震えるくちびるを思い切って開く。
「フレン、パーティーのことなのだけど」
 切り出したグレイス。体調が悪いかと質問したのにグレイスの返事は「ええ」でも「そんなことはないわ」でもなかったからか、フレンの目がちょっときょとんとした。
 普段はきっちりしているフレンがこういう目をするとなんだかかわいらしい。そういうところが好きなのだ。と、余計な思考が入りこんだけれど、グレイスはそれを脇へ追いやる。
「はい。なにか、ご質問がありましたでしょうか」
 しかしフレンの言ったことは、それ。フレンから言わせたくないと思ったのに、それで自分から切り出したというのに、グレイスは面白くなくなってしまう。
「お父様から……お話があるのではないかしら」
 グレイスの言ったことに、フレンは黙った。数秒、沈黙が落ちる。
 フレンの表情は変わらなかったけれど、グレイスは悟った。フレンにはもう伝わっているのだ。グレイスの婚約と、その発表がある件は。
 当たり前じゃない。従者が知っていないなどお話にならないわ。パーティーの進行に関わるのだから。
 冷静な自分が、頭の中でそう言った。
 けれど本音は違っていた。
 「なんのことですか?」と言ってほしかった。知らないでいてほしかった。
 知られていたら、本当のことになってしまいそうだったから。
 そこでまた冷静な自分が言う。
 本当のことになりそうなんて。もうとっくに本当のことになっているのよ。
 本音と理性と。ふたつが混ざり合って、それは非常に気持ちの悪いものだった。
「……そうですね。大切なお話が。その段取りをこれから」
 フレンは微笑んだ。その笑みはグレイスの心に突き刺さる。ここまで父に婚約の話をされたときから衝撃を感じていたとはいえここまではっきりとショックといえるものは初めてだった。
「言ったらいいじゃない。……婚約のお話だって」
 今度の言葉。嫌味のようになってしまった。ショックを無理に呑み込んだらこうなってしまったのだ。おまけに表情だって硬いだろう。
 けれどこれ以上の取り繕いは今のグレイスにはできなかった。
 こんな言葉、口に出したくなかった。自分の手で『本当のこと』にしたようなものだ。そう望んで、したとはいえ。
 グレイスの言葉を、表情を、フレンはどう取ったのか。困ったように、また微笑を浮かべたのだった。
「その通りですね。おめでとうございます」
 そう言われると思ってはいたし、自分がそう言われてどう感じるかもわかっていた。しかしどうしようもなく胸に突き刺さる。
 お祝いの言葉など、このひとからだけはもらいたくなかった、と思う。でもそんなこと、言えるものか。
 別に言ってもいいと思う。「気が進まないの」とか、そのくらいは。
 そのくらいなら「相手が気に入らないのだ」と思われるだけだろう。
 けれど、その中に入っている本音……フレンという想い人がいるから……というものがある限り、そんなことすら言えなくなってしまう。
 それを読み取ったように、フレンのほうから口に出した。
「お気が乗られない、ですか?」
 またしても言われたくない言葉であった。これでは、そうとも違うとも言えないではないか。グレイスは黙ってしまう。
 フレンはやはり困ったような顔をする。沈黙がその場に落ちた。
「……突然のお話ですからね」
 フレンが口に出した、その言葉はグレイスに寄り沿うもので。今度は、かっと胸が熱くなった。
 かばうように言われて嬉しいだとか、この話を受け入れられていない自分が恥ずかしいだとか、あるいはそれを知られてしまって嫌だとか。違う意味の感情なのにどれも妙に熱かった。
「本当にそうね! ……ちょっと出てくるわ」
 それが『庭に出てくる』という意味なのは、フレンはよくわかっている。けれどそれは「はい」とは受け入れられなかった。なにしろ話、しかも大事な話の途中なのだ。
「お嬢様、まだ終わっておりませんよ」
 慌てたように言われたけれど、グレイスは立ち上がって、フレンを見た。まるで睨みつけるような目をしてしまったのを自覚する。
 フレンの翠の瞳は静かだった。いつもの、優しい色をしている。
 なのに同じ色の自分の瞳は随分、醜いことだろう。こんな目も顔もしたくないのに。させてきている婚約の話が憎くてならない。
「どうせなにかお話があるときと同じなのでしょう。お父様が発表される。お祝いされる。それだけよね」
 おまけに言った言葉も刺しかないものになった。
「そんなはずはないでしょう! なにしろ重大な……」
「同じよ、そんなの」
 ああ、もう。ここには居たくない。こんな自分を晒していたくない。
 グレイスはフレンの制止を無視して扉に手をかけた。開けて外に飛び出す。
「お嬢様!」
 うしろから呼ばれたけれど、止まるはずがない。勢いのままに廊下を駆けだした。ふんわりしたワンピースの裾を持ち上げて。
 走りながら、涙が滲みそうだった。あんなふうに言うことはなかったのだ。
 フレンにだって立場というものがあるし、完全に自分の八つ当たりであったのだから。情けないし、恥ずかしいし、フレンに悪い。
 けれど今、顔を合わせて和気あいあいと婚約の話の段取りなんてできるものか。
 グレイスはそこまで消化できていなかった。この話についても、自分の心についても。
 フレンは追いかけてこなかった。グレイスが裏口から庭へ出て、あずまやのベンチに腰を下ろして、ぽろっと涙が遂に零れても、フレンだけではなく、誰も現れなかったのだ。
 嫌なことが待っていても日々は先へ先へと進んでいってしまうもの。令嬢であるグレイスがすることなどほとんどなかったが準備も済んだらしく、誕生日パーティーは明日に迫っていた。
 グレイスの憂鬱は晴れるどころか加速するばかりだった。もう逃げ出してしまいたい、と思う。そんなことをしたら生きていけなくなるので実行するつもりなどはないけれど。
 それにフレンにも逢えなくなってしまう……なんて、ここでもまだ彼のことを考えてしまう自分に呆れるやらのグレイスだった。
 あれから結局、グレイスは日が暮れるまで庭にいた。少し冷える日だったので流石に日の暮れかけた頃に迎えが来た。けれどそれはフレンではなくメイドの一人であった。
 てっきりフレンが迎えに来てくれると思っていたグレイスは、悲しい気持ちになってしまったものだ。自分から逃げ出したようなものなのに、迎えに来てくれないのが不満だなんて我儘な、とも思った。
 でもそのことで、グレイスが「ちょっと風にあたりたくて」と言い訳をメイドにしたことで、グレイスがフレンとの打ち合わせのさなかに飛び出していったことはおおやけになっていないようだった。知っているのはフレンばかりだが、フレンがグレイスを知っているのと同じだけ、グレイスだってフレンのことを知っている。
 このこと。父に報告などしていないに決まっていた。
 あくまでも自分とグレイスの問題であるから。それが『不和を起こした』という程度であれば、自分で解決しようとするひとなのだ。
 だからグレイスの、婚約に対するうしろ向きな気持ちを悟っているのは、父と、それからフレンだけなのであった。
 しかしきっと明日には屋敷の使用人たちにまで知れるレベルの発表がされる。そうしたらメイドや使用人たちから「おめでとうございます、お嬢様」と笑みを浮かべられることは決まっていて。そしてすぐに露見してしまうだろう。グレイスがこの話に前向きでないということは。
 隠しきって「そうなの、とても嬉しいわ!」なんて取り繕うことは、とても。
 せめてこのうしろ向きが『恋をしている相手でない者との婚約』だからであると思われることを祈るしかない。
「お嬢様」
 こんこん、とノックがされて、声がかけられる。聞こえてきたのはフレンの声だったので、グレイスは少しどきっとしてしまった。別にあれから顔を合わせていないわけでも、会話をしていないわけでもないのに。
 あのやりとり、明らかにおかしな様子だった自分。
 フレンはどう思ったかと考えてしまうと、どうしても。
「……どうぞ」
 でももう避けたりするものか。そんな子供っぽいこと。グレイスは静かに入室許可を出した。
 すぃっと扉が開けられる。入ってきたのはフレンであったが、手になにかを持っていた。
 黒塗りのトレイである。その上にはお茶の支度らしきものが乗っていた。しかしカップとソーサーだけ。ティーポットはない。直接カップに入っているようだ。このようなことは珍しい。
 そしてグレイスの鼻に良いものが届いてきた。チョコレートのような甘い香り。そのふたつのことからグレイスは、フレンが持ってきたものがなにかを知る。ふわっとフレンが微笑んだ。
「少しご休憩されませんか」
 甘い香りと、優しい声と、ふんわりした微笑。
 グレイスの心はどうしてだろう、するりとほどけていってしまった。それはまるで、漂うあたたかくて甘い、ホットチョコレートの香りが心を蕩かせたようであった。
「とてもおいしいわ」
 お気に入りのソファに腰かけて、ホットチョコレートを味わう。とろっと濃厚なホットチョコレート。なにが入っているかグレイスは詳しくないのだが、チョコレートのほかにも生クリームだとかお砂糖だとか、なにか色々入っているのだろうなとは思った。単にチョコレートを溶かしたものの味ではなかったから。
「それは良かったです。今日は少々冷えますからね」
 両手でカップを包み込んでホットチョコレートを口にするグレイスを、ソファの横に立って待機していたフレンが優しく見守ってくれていた。
 その視線に気づいて、グレイスはなんだかもじもじしてしまう。こういう空気。昔から何度も感じたことがある。
 主にグレイスの我儘などからだが、フレンとすれ違ってしまい、でもそのあと歩み寄ろうとするとき。こういう空気が流れるのだ。
 こういう空気のとき。フレンは「気にしておりませんよ」と言ってくれるだろう。本当のところはわからないけれど。
 ただ、グレイスは知っていた。フレンのその優しい言葉は仕事としての立場からの取り繕いがいくらか入っていたとしても、ほとんどは本心なのだ。
 そんな、うわべに塗った言葉だけで、十年近くもグレイスの傍で仕えられるものか。そういう、優しいひと。
 グレイスがここまで素敵なレディに……少々奔放過ぎるところはあるが……育ったのは、このフレンが居たからなのだ。
 我儘を言ったり、いけないことをしても、きちんと反省すること。相手と向き合って話すこと。とても大切なそれを、グレイスが育つうちに教えてくれたのだ。だから今だって。
「フレン。この間は、悪かったわ」
 その言葉はするりと出てきた。ほかほかとあたたかな温度が手の中から伝わってくる。それに後押しされるように言ったのだけど、返ってきたのは穏やかな笑みだった。
「いいえ。私こそ不躾でしたね。失礼しました」
 こうやって、グレイスが悪いと叱りつけることなどしない。教育役でもあるのに、だ。