「ここまで酷いお風邪は久しぶりですね」
 この旅行についてきてくれていて、毎日世話をしてくれていたリリスがちょっと困ったような顔で言った。事情は知らないにしても、グレイスになにか不安ごとがあった、というのはわかっているだろうから。それだけの長い付き合いだ。
「ええ……」
「ここは少し冷えますからね。それで悪化してしまわれたのかもしれませんわ」
 今日は体を拭いてもらってさっぱりしたあとにそんな話をした。あたたかい紅茶も出される。
 三日寝込んだあとだ。だいぶ回復してきて、明日には部屋から出られそうだと言われている。
 しかし外へ出るのは別の意味で億劫だった。なにせ事情が事情である。
 思い出したいような気持ちも少しはあるけれど、思い出したくない気持ちのほうが今は強かった。混乱していたとはいえ、なんということをしてしまったのか。その気持ちは今まで熱に追いやられていたのだけど。
「お嬢様、なにか心配事がおありですか?」
 ふと、リリスが顔を覗き込んできた。ソファに腰掛けていたグレイスに近付いて。
 流石にどきりとした。わからないはずがないと思ったけれど、グレイスが言えることなどひとつしかない。
「なんでもないわ」
 なんでもないはずがないでしょう。こんな、雨に打たれて帰ってきた挙句、熱を出して。
 なんでもないひとがこんなふうになるはずが、ないでしょう。
 自分の中でもう一人の自分が事実を述べた。
「あまり抱え込まれてはよろしくありませんよ」
 そっとなにかが肩に触れた。そちらを見ると、リリスが床に屈むところで。床に膝をつけて、グレイスの腕をそっと撫でてくれる。ふんわりとした女性の手のあたたかさが伝わってきた。