「……、……」
名前を呼びたくなった。口を開きかけた。
けれどグレイスはそれを呑み込んでしまう。
口に出してはいけないのだろう。きっと。いくら望んでいるとはいえ。いけないことに決まっているのだから。
代わりにぎゅっと体を抱きしめる。手が冷えているせいで、身を抱きしめてもちっともあたたまりやしなかった。
ふと、そこでよぎったのはもう数ヵ月前のこと。
『お転婆』をして街に行って、悪い事件に巻き込まれてしまったとき。
グレイスを助け、腕に抱いてくれたひとがいた。
そのひとの腕はとてもあたたかくて、安心できるものだった。
あの腕があのときと同じように自分の身を抱いてくれたら、どんなにいいだろう。
そんな叶わぬ望みすら、頭によぎったそのときだった。
「……お嬢様!」
なにかが聴こえた。それはなんだかよく知っているような、とても近しいもののような。
グレイスはぼんやりと視線をあげた。
こちらへ駆けてくるひとがいる。雨の降る森の中、泥が跳ねるのも構わずに。
傘をさしているようだった。そのせいで顔は見えない。
けれど、その事実だけでグレイスは理解した。かっと胸が熱くなる。
いつもそうだ。グレイスがこうして不安になったとき、探しに来て見つけてくれるひと。
そして思い知った。
自分は、そういうときにやってきてほしいひとは一人しかいなかったのだと。
それはいくら自分を取り繕って、自分に違うことを言い聞かせたとしても、変わらなかったのだと。
「……フレン!」
ばっと立ち上がっていた。樹の下から飛び出して、走ってきたそのひとの元へ向かう。
まるで体当たりするほど強く、その名のひとに抱きついた。
グレイスの勢いが強すぎて、そのひと……フレンの手から、ばさっと傘が落ちる。
「お嬢様、走っていってしまわれたと聞いて……」
言われたことにずきりと胸が痛む。ダージルから聞いてフレンは探しに来てくれたのだろう。でもあのことはもう思い出したくない。
ただ、ぎゅっとフレンの胸元を握りしめて身を寄せる。馴染んだ香りがした。
紅茶の香り、陽に干された服の香り、そして彼のまとうそのままの香りも。
でも今は、雨のにおいも濃かった。傘の隙間から雨が入るのも構わず走ってきてくれたからだろう。
普段なら安心するはずの香りと感触、体温。一人で樹の下にいたときはあれほどほしいと思ったのに、何故か。ちっとも安心できなかった。
それはまるで、じわじわと体に降り注ぐ、激しくなってきていた雨のように。
「お嬢様、濡れます……」
その通りのことをフレンが言った。そっとグレイスの肩に触れてくる。その手は優しくて、いつもしてくれるような手つきで。さっき触れられたダージルとはまるで違っていた。
あのときだって優しくされなかったわけではないのに。どうしてまったく違うのかなんて、グレイスにはもうはっきりわかってしまっていた。
「フレン、嫌よ」
なんとか絞り出した。雨に凍えた体のままに、震えたような声になった。
それでも口に出す。ぎゅっとフレンにしがみついて。
「貴方以外なんて、嫌よ!」
それはなによりはっきりしたものだっただろう。言葉よりもはっきりとした。
言葉は端的だったのに、グレイスがそのひとことに込めた気持ちや想い。フレンには伝わったはずだ。それだけの時間を一緒に過ごしてきた。
「……お嬢様」
フレンの手は止まった。グレイスの肩にかかったまま、グレイスを剥がすでも、あるいは抱き寄せるでもなく止まってしまう。
だからグレイスはもっと強くフレンの胸元を握って顔を押し付けるしかない。上等なジャケットがよれるなんてこともかまわずに。
触れているのに寒いと感じた。普段なら、手に触れられただけであたたかくなるのに、今は寒いままだ。
不意にグレイスの体が引き寄せられた。きつく抱き寄せられる。それはグレイスが縋っていたときよりも、ずっと近くへ。
かっと、グレイスの体に火が付いたようだった。体の奥に熱が灯る。
それは一瞬で全身に回った。どくっと熱く心臓が跳ねて、どくどく熱い血を流しはじめる。
その感触に、グレイスは理解した。
自分があたたかくいられるのはもうここしかない。この、腕の中しかない。
それに応えてくれるように、その腕はグレイスをきつく抱擁してくれている。
「お嬢様、……すみません」
グレイスをきつく抱きしめて、フレンが言った。グレイスはどうして謝られるのか、と疑問に思った。体の熱さと雨の感触に半ばぼうっとしながら。
ふとグレイスの体の拘束が解かれた。
体が離れてしまう。せっかくあたたかく感じた体が。
一瞬だけ冷えてしまいそうになったけれど、すぐにグレイスの熱は再び灯る。
頬になにか触れたのだから。
濡れた感触だった。
でもわかる。その奥にはあたたかな体温を持った手があること。グレイスが一番好きで、一番安心できる手だ。
その手に頬を持ち上げられて、グレイスは見た。涙と雨でだいぶ視界が歪んでいたけれど、見えた色は、グレイス自身の瞳を映したような翠色。
体は震えなかった。代わりにほわっとあたたかくなる。
その色だけでじゅうぶんだった。どんな表情をしているのかが見えなくても。それだけで。
ふわり、と触れた一瞬。
まぶたを閉じる寸前、グレイスの目に焼き付いたのは、新緑のような鮮やかな色だった。
それからグレイスの意識は数日おぼつかなかった。ベッドから起き出せなかったほどである。雨に打たれたせいでしっかり熱を出してしまったのだ。完全に風邪である。
あのあとフレンはグレイスを離し、「……帰りましょう」と言った。そして、それだけだった。
そのまま屋敷に連れ帰られて、マリーやダージル、使用人たちに大いに心配されながら部屋に入れられて、風呂に入れられて、あたためられて。
すぐベッドに押し込まれたのだけど、それではどうも追いつかなかったようで。かすむようになっていた意識は翌日、しっかり熱となって表れていた。
外の具合も芳しくない。まだ暗雲が去らないままだ。豪雨ではないものの、さぁさぁと確かに降っている。
「ごめんなさいね、この旅行のあとすぐに用事を入れてしまったの」
二日後、マリーは後ろ髪を引かれる思いで、といった顔でロンと共に帰ってしまった。元々の滞在予定は本日までなのだったからなにもおかしくないのだが。
グレイスは辛いながらもなんとかベッドの上に上半身を起こして「いいえ、むしろごめんなさい。ご心配をかけて」と謝った。完全に自分の行いのせいでこんな事態になってしまったのだから。
「早く良くなってね。またお見舞いに行くわ」
そんなグレイスの頬にひとつキスをしてくれて、帰っていった。グレイスはほっとするやら寂しくなるやらだった。
寝込んでから帰ってしまうまで。どうして雨の中、外に居たのかとは聞かれなかった。
なにか事情があると察してくれたのだろう。マリーはそういうひとだ。あとで訊かれるかもしれないけれど、とりあえず今は。
グレイスにとっても助かることであった。まだ自分の中でだって整理がつかないのだ。
翌日にはダージル一行も引きあげていった。同じく家で用事があるとのことで。
「グレイス、すまなかった」
時々、お見舞いに来てくれてはいたが、帰る前にダージルはもう一度挨拶に来てくれた。本当なら自分がお見送りをしなければいけない立場なのに、わざわざ来ていただいてしまって。
おまけにあの出来事がきっかけだったのだ。グレイスが罪悪感を覚えないわけがない。
「いえ、私こそ本当に失礼を……」
俯いて言うしかない。
実際、失礼すぎたと思う。婚約者に対する態度としてダージルの行動はおかしなものではなかったのだから。単に覚悟と認識が足りなかった自分のせい。グレイスはそう思い知ったのだ。
「いいや。まだ治らないのだろう、また今度にしよう。養生しておくれ」
こちらも「今度」ということにしてくれて、グレイスはやはり申し訳ないながらほっとしてしまった。それで、屋敷にはグレイスと使用人たちだけが残ることになった。
勿論、その一人としてフレンも、だ。
「ここまで酷いお風邪は久しぶりですね」
この旅行についてきてくれていて、毎日世話をしてくれていたリリスがちょっと困ったような顔で言った。事情は知らないにしても、グレイスになにか不安ごとがあった、というのはわかっているだろうから。それだけの長い付き合いだ。
「ええ……」
「ここは少し冷えますからね。それで悪化してしまわれたのかもしれませんわ」
今日は体を拭いてもらってさっぱりしたあとにそんな話をした。あたたかい紅茶も出される。
三日寝込んだあとだ。だいぶ回復してきて、明日には部屋から出られそうだと言われている。
しかし外へ出るのは別の意味で億劫だった。なにせ事情が事情である。
思い出したいような気持ちも少しはあるけれど、思い出したくない気持ちのほうが今は強かった。混乱していたとはいえ、なんということをしてしまったのか。その気持ちは今まで熱に追いやられていたのだけど。
「お嬢様、なにか心配事がおありですか?」
ふと、リリスが顔を覗き込んできた。ソファに腰掛けていたグレイスに近付いて。
流石にどきりとした。わからないはずがないと思ったけれど、グレイスが言えることなどひとつしかない。
「なんでもないわ」
なんでもないはずがないでしょう。こんな、雨に打たれて帰ってきた挙句、熱を出して。
なんでもないひとがこんなふうになるはずが、ないでしょう。
自分の中でもう一人の自分が事実を述べた。
「あまり抱え込まれてはよろしくありませんよ」
そっとなにかが肩に触れた。そちらを見ると、リリスが床に屈むところで。床に膝をつけて、グレイスの腕をそっと撫でてくれる。ふんわりとした女性の手のあたたかさが伝わってきた。
リリスの手は、グレイスが一番好きなひとのものとは違う。それは当たり前のこと。
でも着替えをさせてくれるとき、メイクをしてくれるとき、髪を結ってくれるとき。
グレイスに触れてくれるその手はいつだって優しく、近くにあってくれるものなのだ。
私は、きっと、独りではないのだわ。あたたかさはグレイスにそう伝えてきた。
それはフレンがいつか、手の甲に忠誠のくちづけをしてくれたときとは別の意味。
でも『独りでない』にも様々な意味があるのである。
グレイスはごくりと喉を鳴らした。核心は言えるはずがないと思った。こんなこと、ひとに話したらどうなるとも知れない。それが信頼しているお付きのリリスでも。
でも、もうひとつのことならば。
「あの、……いいかしら」
グレイスが『話したい』と思って言ったのは伝わってくれたらしい。リリスは小さく笑みを浮かべて、「はい」と答えてくれた。
「その、……ダージル様と、少し」
はじめから言葉は濁って、情けないと思ってしまった。
けれど自分でも思い出したくないし、おまけにこのようなことは初めてなのだから、恥ずかしくもある。それを悟ったようにリリスから言ってくれた。
「なにか、いさかいでもあられましたか?」
「いえ、そういうわけでは……ないと、思うのだけど……」
あれはまだはっきりと『いさかい』でもないだろう。無礼だったとは思うけれど、少なくともダージルは明らかに怒った、という様子ではなかったのだから。今は、それよりも。
「では、なにか、婚約者様らしいことでもおありでしたでしょうか?」
そう、それである。婚約者らしいこと。
リリスはぼやかして言ったけれど、まぁ、男女のすることである。そういうことに身分の差などないだろう。
「そう、ね……そういう、ことが」
グレイスの視線は少しさまよって、それから下に落ちた。膝の上に乗せていた自分の手を見てしまう。そんなところにはなにもないというのに。
「そうでしたか。それは驚かれましたね」
リリスの次に言ったことはちょっと意外だったので、グレイスは思わずそちらを見ていた。リリスのやわらかな笑みを浮かべた顔と向き合う。
『婚約者らしいこと』
それがグレイスにとってショックであったのを、言わずともわかってくれたらしいのだ。それで少し驚いてしまった。
でもおかしなことでもない。なにしろリリスはグレイスが幼い頃から仕えてくれているのだ。グレイスに恋愛経験がないことは知られている。
そこからの連想で、グレイスが熱を出したこととあわせて、『いきなりのことにショックを受けた』と取ってくれたのかもしれなかった。敏い女性である。
「ダージル様にお気の引けるお気持ちはお察しいたします。でもあまり思い悩まれなくても良いと思いますわ」
リリスの言葉は優しかった。ゆっくり話してくれる。
「私も、お嬢様と同じくらいの年頃に夫に出逢いましたけども。はじめから上手くはいきませんでしたもの」
リリスの話は、実体験に基づいているものだったようだ。それはグレイスの興味を惹いた。
「そう、なの」
既に結婚してからそれなりに長いリリス。グレイスにとってはもう立派な大人の女性である。
「そうですよ。最初から上手くやれる方のほうが少ないのです」
グレイスを力づけるためかもしれないが、そう言ってくれた。グレイスの心はそれにほどけていく。
少なくとも悩みのひとつ。ダージルとのやりとりについて。それは少しずつ軽くなっていくのが感じられた。
「例えばですね、夫が気持ちを伝えてくれたときのことですけど……」