ぼうっとした。それは嫌な意味のぼんやりとした気持ちだった。
しかしすぐにはっとする。見つかったのだ。それも何故かここにいるダージル、に。
「す、すみません……」
なんとか言った。心臓がばくばくしてくる。樹にのぼろうとしていたのが露見したのもそうだが、それ以上に、腕に抱かれてしまっているのだ。
数日前、ジャスミンの花たちの前で腰を抱かれたときとは比べ物にならなかった。もっと密着して、はっきりと抱かれてしまっている。
「ストールを取ろうとしたのかい」
ダージルの口が動くのが見えた。グレイスは、ええ、とか、すみません、とか言うつもりだったのだが。
そこにぽつっとなにかが触れた。どうも水滴のようだった。つられるように上のほうに視線をやると、ぽつぽつっと小さな雫が落ちてきはじめている。雨が降り出したようだ。
「……いけないね。戻らなくては」
ダージルも雨には気付いたらしい。そう言って、グレイスはほっとした。このまま屋敷に戻ることになると思ったのだ。
実際、ダージルもグレイスを起こしてしっかり立たせてくれた。
体が離れて、グレイスはもうひとつ、ほっとする。ダージルは背が高いので、樹に引っかかったストールに難なく手が届いたようだ。引き寄せて、無事に確保した。
「あ、ありがとう、ございます……」
そのまま渡してくれると思ったので、グレイスは手を出しかけたのだけど、ダージルの行動は違っていた。
ふわっと、グレイスの髪の上にストールがかけられたのだから。グレイスはきょとんとしてしまう。
「雨がかかるといけないからね」
言われたことには納得したけれど。確かに雨除けにはなるだろう。
でも屋敷はすぐそこなのだから、走れば……。
しかしすぐに思いなおす。
走るなんて、婚約者の前でできるものか。そんなお転婆。
ずきっと、グレイスの胸が痛んだ。
樹にのぼることも、走ることもできない。なんと窮屈なことか。
こんな行動、ちっとも自分らしくない。その実感に。
グレイスの様子をどう思ったのか。ダージルが目を細めた。もう一度、手が伸ばされる。
グレイスの頬に、やわらかなものが触れた。今日は手袋をしていない、ダージルの手。
その感触に、何故か。グレイスの体はぞくりとしてしまったのだった。
「まるでウエディングヴェールだね」
ヴェール。
すぐにはわからなかった。知らないはずではないのに、すぐ連想ができなかったのだ。
「とても綺麗だよ」
ぼうっと聞くしかなかったグレイスだったが、その頬が軽く撫でられた。それはちっとも乱暴なんてものではなく、むしろ優しすぎるもので。
なのにグレイスが感じたのはぞくぞくする感覚、だった。
これは、まさか、そういうことが。
不安がどんどん濃くなっていく。そしてグレイスの予想した通りになった。
「その日が楽しみだ」
撫でられた頬。包み込まれて、そっと顔が近付けられる。
ぐぅっと近付いた顔同士。
目を閉じようと思った。けれど閉じる前。ちらりと見えてしまったもの。
……青の瞳。
どくんっとグレイスの胸が高鳴った。一瞬で体に悪寒が走る。
これは、ちがう。
本能の部分でかそう感じ、グレイスは無礼などとも考えることができず、身をよじっていた。
「……っ!」
なんとか声を出すのは堪えた。けれど振り払う手は止めることができなくて。
ぱしっと。
ダージルの手に触れ、触れていた手が離される。
「……グレイス」
呆然としたような声がした。
グレイスはそこでやっと、はっとした。一気に恐ろしさが襲ってくる。
その恐ろしさはどこから来ていたのか。
ダージルにされようとしていたことか。
もしくは、手を振り払ってしまったことか。
それとも、それを無礼だと怒らせてしまうことか。
おそらく、そのすべてが混ざり合ったものだったのだろう。
グレイスは体がぶるりと震えるのを感じた。一歩後ずさる。
「グレイス、」
ダージルの口が動くのが見えた。けれどその顔が見られるものか。
グレイスはもう一歩、後ずさり、そして。
気が付いたときにはダッと地面を蹴っていたのだった。ふわっと、頭からストールがはためいて宙に浮いた。そのまま地面に落っこちるだろうが、今は気にしている余裕などない。
「グレイス!」
三度目、ダージルの声がグレイスの名前を呼ぶのが聞こえた。それが余計に胸に突き刺さる。
どこへ行こうともなかった。とにかく、この場から離れたい。その一心でひたすら走る。
男性の足だ、捕まえようと思えばすぐに捕まえられてしまうかもしれない。それがまた恐ろしく、グレイスは息が上がるほど全力で走ることになる。
今は捕まりたくなかった。
向き合いたくなかった、から。
あの青の瞳と向き合いたくない。
思い知ってしまったのだ。
自分が触れたいのはあの青ではない、と。
ここまで来ておいてやっと実感するなんて馬鹿のようだと思う。
グレイスは知らぬ間に口元を覆っていた。なにかが溢れそうで。
そのなにかはぽろ、ぽろっと目から零れてきていた。
ぱたぱた、と上から雫が滴ってくる。髪や体を覆ってくれるストールも、今は無い。
グレイスは大きな樹の下に座り込んで、ぎゅっと体を抱きしめていた。樹の枝と葉のおかげで、雨が直接当たるのだけは避けられている。
あの場から逃げ出して、走って、気付けば森の中に走り込んでいた。追ってくるひとは、どうやらいない。
はじめから追ってこなかったのか、グレイスを見失ったのか、諦めたのか、わからない。けれど今は居ないというだけで良かった。
ふるっと体が震える。直接当たらないとはいえ、雨の降りだした中へ走り出して、おまけに森の中へなんて走り込んでしまったのだ。もう肩や髪はすっかり濡れてしまっていた。
いけない、これでは冷えてしまう。風邪でも引いてしまうだろう。すぐに立ち上がって屋敷へ帰らないと。
わかっているというのに、グレイスはその場から動けなかった。ただ、先程の一連の出来事がぐるぐる頭を巡っていたのである。
ダージルに『お転婆』が見つかったことも。その腕に抱かれたことも。
そして、くちづけをされそうになった、ことも。
すべて受け入れたくなかった。
こんなものは自分にあるべきでない、と。はっきり悟ってしまった。
心の望むままに動けない、自分が自分でいられなくなるような不安。
触れられたときに感じた、震えあがるような感覚。
そして青の瞳。青色で見つめられることがあれほど恐ろしいなど、グレイスは初めて知った。
同時に思い知った。
自分が欲しかったのが、何色の視線なのかも。
色だけではない。
やわらかな笑みをたたえた瞳。穏やかで優し気なまなざし。
それはただ一人しか持ちえないものなのだ。
「……、……」
名前を呼びたくなった。口を開きかけた。
けれどグレイスはそれを呑み込んでしまう。
口に出してはいけないのだろう。きっと。いくら望んでいるとはいえ。いけないことに決まっているのだから。
代わりにぎゅっと体を抱きしめる。手が冷えているせいで、身を抱きしめてもちっともあたたまりやしなかった。
ふと、そこでよぎったのはもう数ヵ月前のこと。
『お転婆』をして街に行って、悪い事件に巻き込まれてしまったとき。
グレイスを助け、腕に抱いてくれたひとがいた。
そのひとの腕はとてもあたたかくて、安心できるものだった。
あの腕があのときと同じように自分の身を抱いてくれたら、どんなにいいだろう。
そんな叶わぬ望みすら、頭によぎったそのときだった。
「……お嬢様!」
なにかが聴こえた。それはなんだかよく知っているような、とても近しいもののような。
グレイスはぼんやりと視線をあげた。
こちらへ駆けてくるひとがいる。雨の降る森の中、泥が跳ねるのも構わずに。
傘をさしているようだった。そのせいで顔は見えない。
けれど、その事実だけでグレイスは理解した。かっと胸が熱くなる。
いつもそうだ。グレイスがこうして不安になったとき、探しに来て見つけてくれるひと。
そして思い知った。
自分は、そういうときにやってきてほしいひとは一人しかいなかったのだと。
それはいくら自分を取り繕って、自分に違うことを言い聞かせたとしても、変わらなかったのだと。
「……フレン!」
ばっと立ち上がっていた。樹の下から飛び出して、走ってきたそのひとの元へ向かう。
まるで体当たりするほど強く、その名のひとに抱きついた。
グレイスの勢いが強すぎて、そのひと……フレンの手から、ばさっと傘が落ちる。
「お嬢様、走っていってしまわれたと聞いて……」
言われたことにずきりと胸が痛む。ダージルから聞いてフレンは探しに来てくれたのだろう。でもあのことはもう思い出したくない。
ただ、ぎゅっとフレンの胸元を握りしめて身を寄せる。馴染んだ香りがした。
紅茶の香り、陽に干された服の香り、そして彼のまとうそのままの香りも。
でも今は、雨のにおいも濃かった。傘の隙間から雨が入るのも構わず走ってきてくれたからだろう。
普段なら安心するはずの香りと感触、体温。一人で樹の下にいたときはあれほどほしいと思ったのに、何故か。ちっとも安心できなかった。
それはまるで、じわじわと体に降り注ぐ、激しくなってきていた雨のように。
「お嬢様、濡れます……」
その通りのことをフレンが言った。そっとグレイスの肩に触れてくる。その手は優しくて、いつもしてくれるような手つきで。さっき触れられたダージルとはまるで違っていた。
あのときだって優しくされなかったわけではないのに。どうしてまったく違うのかなんて、グレイスにはもうはっきりわかってしまっていた。
「フレン、嫌よ」
なんとか絞り出した。雨に凍えた体のままに、震えたような声になった。
それでも口に出す。ぎゅっとフレンにしがみついて。
「貴方以外なんて、嫌よ!」
それはなによりはっきりしたものだっただろう。言葉よりもはっきりとした。
言葉は端的だったのに、グレイスがそのひとことに込めた気持ちや想い。フレンには伝わったはずだ。それだけの時間を一緒に過ごしてきた。
「……お嬢様」
フレンの手は止まった。グレイスの肩にかかったまま、グレイスを剥がすでも、あるいは抱き寄せるでもなく止まってしまう。
だからグレイスはもっと強くフレンの胸元を握って顔を押し付けるしかない。上等なジャケットがよれるなんてこともかまわずに。
触れているのに寒いと感じた。普段なら、手に触れられただけであたたかくなるのに、今は寒いままだ。
不意にグレイスの体が引き寄せられた。きつく抱き寄せられる。それはグレイスが縋っていたときよりも、ずっと近くへ。
かっと、グレイスの体に火が付いたようだった。体の奥に熱が灯る。
それは一瞬で全身に回った。どくっと熱く心臓が跳ねて、どくどく熱い血を流しはじめる。
その感触に、グレイスは理解した。
自分があたたかくいられるのはもうここしかない。この、腕の中しかない。
それに応えてくれるように、その腕はグレイスをきつく抱擁してくれている。
「お嬢様、……すみません」
グレイスをきつく抱きしめて、フレンが言った。グレイスはどうして謝られるのか、と疑問に思った。体の熱さと雨の感触に半ばぼうっとしながら。
ふとグレイスの体の拘束が解かれた。
体が離れてしまう。せっかくあたたかく感じた体が。
一瞬だけ冷えてしまいそうになったけれど、すぐにグレイスの熱は再び灯る。
頬になにか触れたのだから。
濡れた感触だった。
でもわかる。その奥にはあたたかな体温を持った手があること。グレイスが一番好きで、一番安心できる手だ。
その手に頬を持ち上げられて、グレイスは見た。涙と雨でだいぶ視界が歪んでいたけれど、見えた色は、グレイス自身の瞳を映したような翠色。
体は震えなかった。代わりにほわっとあたたかくなる。
その色だけでじゅうぶんだった。どんな表情をしているのかが見えなくても。それだけで。
ふわり、と触れた一瞬。
まぶたを閉じる寸前、グレイスの目に焼き付いたのは、新緑のような鮮やかな色だった。
それからグレイスの意識は数日おぼつかなかった。ベッドから起き出せなかったほどである。雨に打たれたせいでしっかり熱を出してしまったのだ。完全に風邪である。
あのあとフレンはグレイスを離し、「……帰りましょう」と言った。そして、それだけだった。
そのまま屋敷に連れ帰られて、マリーやダージル、使用人たちに大いに心配されながら部屋に入れられて、風呂に入れられて、あたためられて。
すぐベッドに押し込まれたのだけど、それではどうも追いつかなかったようで。かすむようになっていた意識は翌日、しっかり熱となって表れていた。
外の具合も芳しくない。まだ暗雲が去らないままだ。豪雨ではないものの、さぁさぁと確かに降っている。
「ごめんなさいね、この旅行のあとすぐに用事を入れてしまったの」
二日後、マリーは後ろ髪を引かれる思いで、といった顔でロンと共に帰ってしまった。元々の滞在予定は本日までなのだったからなにもおかしくないのだが。
グレイスは辛いながらもなんとかベッドの上に上半身を起こして「いいえ、むしろごめんなさい。ご心配をかけて」と謝った。完全に自分の行いのせいでこんな事態になってしまったのだから。
「早く良くなってね。またお見舞いに行くわ」
そんなグレイスの頬にひとつキスをしてくれて、帰っていった。グレイスはほっとするやら寂しくなるやらだった。
寝込んでから帰ってしまうまで。どうして雨の中、外に居たのかとは聞かれなかった。
なにか事情があると察してくれたのだろう。マリーはそういうひとだ。あとで訊かれるかもしれないけれど、とりあえず今は。
グレイスにとっても助かることであった。まだ自分の中でだって整理がつかないのだ。
翌日にはダージル一行も引きあげていった。同じく家で用事があるとのことで。