アレックス・ランベルト。
 彼は貴族が嫌いだった。

 母の心と体を弄び、飽きたら捨てる。
 面倒なことになりそうになると、途端に手を離す。
 理不尽極まりない話だ。

 怒りを覚えて当然。
 世の中の貴族全員が腐っていると勘違いしても仕方ない。

 実際、学舎に通うことで、貴族のことをさらに知ることができた。
 大抵の貴族は、平民である自分を見下している。
 露骨な態度に出るものは少数ではあるが、その目やちょっとした仕草で、平民を下に見ていることはすぐにわかった。
 小さい頃からの環境故に、アレックスはそういうものに対して敏感で、過敏だった。

 貴族なんてくだらない。
 ろくでもない者ばかりで、言葉を交わすだけではなくて、顔も見たくない。

 ただ、シルフィーナだけは別だ。
 幼馴染という間柄のせいか、彼女を嫌うことはなかった。
 むしろ、目の離せない妹のような感覚を抱いて、あれこれと気にかけるほどだった。

 だから、シルフィーナが本家に引き取られて、公爵令嬢の姉ができると聞いた時は驚いた。
 貴族らしくないシルフィーナが、本家とやらでうまくやっていけるのだろうか?
 公爵令嬢の姉にいじめられたりしないだろうか?
 あれこれと心配をして、落ち着くことができない。

 そして、アレックスは覚悟を決めた。
 もしも公爵令嬢の姉がどうしようもないヤツだとしたら、どんなことになったとしても、シルフィーナを守る。
 公爵令嬢にケンカを売るなんて、自殺以外のなにものでもないが……
 しかし、必要とあれば迷うことなくケンカを売ろう。
 アレックスは、それだけの覚悟を決めていた。

 それなのに……

「フィーがウチに引き取られたことで、彼女は私の妹になりました。フィーは、私が決めた妹の愛称です」

 実際に顔を合わせると、アリーシャ・クラウゼンは、とても優しい笑顔でそんなことを言うのだった。

 拍子抜けだった。
 もっときつい表情をしていて、シルフィーナのことをぞんざいに扱っているのだと、そう決めつけていたのだけど……
 とてもじゃないけれど、そんな風には見えなかった。

 だがしかし。
 貴族に対して根強い不信感を抱いていたアレックスは、アリーシャは善人を装っているだけで、裏では腹黒いことを考えているに違いないと決めつけた。

 ……今にして思うと、なかなかに恥ずかしいことだ。
 相手の話をろくに聞こうとせず、こうだ、と自分の価値観で判断して、決めつける。
 それはまるで、アレックスが嫌う貴族そのものではないか。

 ただ、当時のアレックスはそこまで心の余裕がなくて、ただただ、アリーシャに牙を剥いて唸ることしかできなかった。
 そうすることが正しいと、信じて。

 その価値観が崩れたのは、早くも翌日のことである。

 昼休み。
 シルフィーナが貴族の女子生徒達に絡まれていた。
 突然、本家に引き取られたことで目立ち……
 そして、シルフィーナの気弱な性格もあって、さっそく質の悪い貴族の女子生徒達に目をつけられていた。

 アレックスは平民であり、貴族である彼女達の機嫌を損ねれば、どのような不利益を被るか。
 自分一人が狙われるのならば問題はない。
 しかし、お世話になっている教会まで目をつけられるようなことになれば……?

 そう考えると迷ってしまい、すぐに動くことができなかった。
 情けない。
 シルフィーナのことを大事な幼馴染だと思っているくせに、いざとなると助けることができず、自分の都合を優先してしまうなんて。

 悔しく。
 自分に対して、腹立たしかった。

 そんな時だった。
 突然、下級生の教室に上級生のアリーシャがやってきたかと思うと、周囲の目を気にすることなく、女子生徒達に説教をした。
 自分の妹を守るべく、欠片も迷うことなく行動した。

 それを見たアレックスは、彼女のことを、素直にかっこいいと思った。
 自分にはできないことをやってのける。
 妹を守るという言葉を、嘘つくことなく実行してみせる。

 なんてかっこいいのだろう。
 まるで、物語に出てくるヒーローだ。
 それに比べて自分は……
 嫉妬やら悔しいやら情けないやら、色々な気持ちがごちゃごちゃになり、暗い感情さえ湧いてきた。

 こんなところはシルフィーナに見せられない。
 なにも言わず、見なかったことにして立ち去ろうとして……
 その前に、せめてアリーシャにお礼を言うことにした。

 色々ときつい言葉を投げかけておいて、今更なにをと思われるかもしれないが……
 そうせずにはいられなかった。
 最低限、それくらいのことはしないといけないと思った。
 なにもできない役立たずだとしても、お礼を口にしない不義理は働きたくなかったのだ。

 もしかしたら、嫌な顔をされるかもしれない。
 なにを今更、と言われるかもしれない。
 それでも話をして……

 そして、予想外のことを言われた。

「十分にフィーの力になっています」

 まさか、アリーシャから認められるなんて。
 意外な展開に驚いて……
 次いで、その言葉をうれしいと思っている自分に、アレックスは再び驚いた。

 嫌いなはずなのに。
 貴族なんて、どうしようもないはずなのに。

 でも……それは、間違いだったのかもしれない。
 ただ単に、自分の視野が狭かっただけなのかもしれない。

 どうしようもない貴族が多いことは確かだけど……
 でも、アリーシャ・クラウゼンは違う。
 言葉だけではなくて、シルフィーナのことを心から大事にしている。
 アレックスが知るろくでもない貴族とは違い、誇りというものを感じられる。
 そしてなによりも、優しい。

 大げさだと笑われるかもしれないが、まるで女神のようだ。
 その優しさに、アレックスも救われていた。

 アレックスは不器用であるが故に、素直になれず、時に荒い言葉をぶつけてしまうが……
 アリーシャのことは、もう嫌っていない。
 シルフィーナの姉として、これ以上ないほどにふさわしく、彼女になら安心して任せられるだろうという信頼も抱いていた。

 ただ、それだけではない。
 アリーシャに対する思いは信頼だけではなくて、他の感情も秘められていた。
 今はまだ、とても淡い想い。
 なにかあれば、すぐに変わってしまうような、小さな火種。

 しかし、もしかしたら消えることなく、ずっと胸の奥に残るかもしれない。
 そして、なにかのタイミングで一気に燃え上がるかもしれない。
 その感情の名前は……

「アリーシャ・クラウゼンか……ははっ、おもしろいヤツだな」