恋幸の問いかけに対して彼は何も答えずふいと目を逸らし、胸ポケットからカードケースのような物を取り出した。
「そういえば、自己紹介がまだでしたよね」
「……っ!! あっ!! 言われてみれば……!!」
「まずは互いを深く知るべきかと」
「は、はいっ! ごもっともです!!」
慌てて彼女もポシェットに入れていた名刺ケースを手に取り、お互いに一枚ずつ中身を交換する。
「では、改めて……倉本裕一郎と申します」
「……くらもと、ゆういちろう……」
恋幸は、明朝体で印刷された名刺の文字を人差し指で優しくなぞり、ふうと小さな息を吐く。
(ゆう、いちろう様……)
「……小日向……、“こいさち”……?」
「!!」
名前を見つめたまま少しのあいだ惚けていた彼女だが、彼――もとい、裕一郎の呟きが耳に届き意識が引きずり戻された。
「っあ、こゆに……こ、“こゆき”! 恋に幸と書いて、“こゆき”と読みます!」
「……恋幸……素敵なお名前ですね」
(ひ~っ!!)
名前を聞いて当たり障りない言葉で褒める……社会人であれば、飽きるほど繰り返すやり取りだろう。
しかし例え社交辞令であっても、前世で愛した人の口から落とされる“それ”は凄まじい威力を持っており、恋幸は今にも心臓を吐き出してしまいそうな思いだった。
「あっ、あっ、えへ……ありがとうございます……」
「いえ、どういたしまして」
血圧が上昇し夕焼けのように顔を赤くしている恋幸に対し、裕一郎は涼しい顔でお冷を口へ運ぶ。
(……はっ!?)
言わせてばかりではいけない! 私も作家として、上手い言葉で褒めなければ!
そんな使命感に駆られて唇を持ち上げたのだから、先ほど彼に忠告されたばかりの『内容』を恋幸が咄嗟に思い出せるわけもなく。
「和臣さ……ゆっ、裕一郎様こそ……!! 前世のお名前も素敵でしたけど、今世でも格調高雅なお名前ですね……!!」
「……前世?」
「は……、あっ!!」
軽はずみな失言をしてしまうのは当たり前の流れであった。
――……しまった!
そう思った恋幸が慌てて口を閉じた時には、もう全てが後の祭り。
どうか空耳だろうと考えていますように、先ほど聞き返されたような気がしたけれど私の幻聴でありますようにと願いながら恐る恐る彼の瞳に目をやるが、
「……前世、とは? 何の話でしょうか?」
当然ばっちり聞こえてしまっていたため、二度目の問いかけが彼女の耳の穴を通過した。
「あっ……え、っと……あの……」
「はい」
ここで「もー、裕一郎様ったらなに言ってるんですか! 前世? なんて、私そんなこと言ってませんよ!」と誤魔化すなり、何でもないフリをしたまま話題を変えることが出来なかった時点で、恋幸の『裕一郎攻略ルート』は“詰んだ”も同然である。
(せ、選択肢……エンド分岐前の選択肢ミスっちゃった……っ)
今……恋幸の脳内には、2つのバッドエンドシナリオが用意されていた。
その1。前世について語るが、カルト宗教関係のヤバい女だと思われ「急用を思い出したので、今日は帰りますね」。そして二度と会えなくなる。
その2。前世について説明したら妄想癖のあるヤバい女だとドン引きされ、「急用を思い出したので」以下同文。
いったんセーブ地点まで戻ってやり直そうにも、残念ながらこの世界は『ゲーム』ではない。残酷で美しい現実だ。
「……」
唇を引き結んで俯いたまま、この状況を打破するための作戦はないものかと思考をフル回転させていた恋幸だったが、お冷の氷が溶けてカランと軽快な音を立てると同時に一つ決意の息を吐く。
彼女の心にあったのは、「悪意を持って愛しい人を欺くような真似だけはしたくない」。ただそれだけだった。
「……あの……少し、聞いてほしい話があります」
「……はい」
ぷつりと途切れたり時々話が絡まりながらも、裕一郎に対して恋幸は全ての事情を明かした。
自分には、前世の記憶が残っていること。
科学や医学ではっきりと証拠を示すことは不可能だが、裕一郎こそがずっと探し続けていた『和臣』の生まれ変わりであること。
初めて出会った瞬間、魂が惹き寄せ合うような強い衝撃が心を揺さぶり“そう”確信したこと。
自分と裕一郎は、前世では結婚を誓った仲だったこと。
(嫌われるかな……ううん、嫌われてもドン引きされても仕方ないよね……)
裕一郎は恋幸が話し終えるまで静かに耳を傾けてくれていたが、彼女はその表情を見ることができなかった。……いや、恐ろしかった。
相手の立場になって考えてみれば、「あなたの前世のことが大好きだったので、今世のあなたも好きです!」だなんて、気分が悪いに決まっている。
なんせ、暗に「あなた自身には興味がありません!」と言っているようなものなのだから。
(違う、けど……でも、そう受け止められても何も言い訳できない……)
だからこそ、自分を映す彼の瞳が今どんな色を滲ませているのか……見るのが怖かった。
(……もう、会ってもらえなくなるのかな?)
「……なるほど、興味深い話ですね」
「……っ!?」
恋幸の目尻にじわりと涙が滲んだ瞬間、裕一郎は独り言のようにぽつりと言葉を落とす。
驚きのあまり勢いよく顔を上げた彼女の目線を捕まえたのは、透き通る空色の双眸だった。
その2つのビー玉にはどこか優しい色が差していて、恋幸は目を逸らせなくなる。
「……信じ、て……信じて、くれるんですか……?」
「うん? 何がでしょう?」
「前世、とか……引いたり、しないんですか……?」
縋る気持ちで問いかけた恋幸を、裕一郎は「いえ。前世とやらの話を全て信じたわけではありません」と一刀両断した。