来世にご期待下さい!〜前世の許嫁が今世では私に冷たい…と思っていたのに、実は溺愛されていました!?〜

「帰るなら今の内ですよ」
「……!? か、帰りません!! 渡す物がありますし、も、もっと……一緒に、いたいです……」


 恋幸の目線はまっすぐ裕一郎を捉えているが、紡ぎ落とされる言葉は終わりにかけて小さくなり、耳を澄ませていなければ周囲の雑音にかき消されてしまいそうだった。

 一音残らず拾い上げることができたのは、ひとえに彼女へ向ける裕一郎の想いの深さの表れとも言えるだろう。


「……同じ気持ちで安心しました。では、行きましょうか」


 その証拠に、彼の声音はひどく優しいトーンで恋幸の耳をくすぐり、つい先ほどまで色の見えなかった表情にほんの少しだけ暖かさが増したように感じた。
(忘れ物、ちゃんと渡さなきゃ……!)


 漂う空気の甘さに惑わされここへ来た本来の目的を忘れかけていた恋幸だったが、寸でのところでしっかりと脳内に(よみがえ)り、彼の隣を歩きながら頭の中で「忘れ物を渡す、忘れ物を渡す!」と何度も繰り返す。


「どうぞ」
「けっ」
「……? け?」
「な、なんでもないです! ありがとうございます!」


 エレベーターが到着するなりスマートな動きで扉を押さえて中へ誘導する裕一郎を見て、恋幸は反射的に口から出かけたプロポーズの言葉をぐっと飲み込み、平静を装いつつエレベーターに乗り込んだ。
(……どこへ行くんだろう? 裕一郎様と一緒ならどこでも嬉しいけど……)


 ――……彼女達の立ち去ったエントランスで、


「……ねえ。裕一郎と一緒にいたさっきの女、誰?」
「も、申し訳ありません。プライベートな質問にはお答えできません」
「ふーん、あっそう……まあいいわよ、自分で調べるから」


 そんな会話が交わされていた事は、また別のお話である。
 あの後、裕一郎に連れて来られたのはビルの最上階にある社長室だった。

 東西南北の四方向のうち2ヶ所が床から天井まで全面ガラス張りになっており、部屋の奥にどんと構える立派なデスクの前には、恐らく来客用であろう合成皮革(ごうせいひかく)で出来た3人掛けサイズの黒い応接ソファが2つ。センターテーブルを挟んで互いに向き合う形で置かれている。

 部屋の隅に置かれたポールハンガーには見覚えのある裕一郎のジャケットが掛けられており、(まぎ)れもなく彼が『代表取締役』であると理解させられてしまった瞬間、一気に湧き上がった緊張感で恋幸の体は動かなくなってしまった。
「……」
「!!」


 しかしそんな彼女の心情を知ってか知らずか、裕一郎は大きな手で彼女の頭を優しく撫でると、ひどく(おだ)やかな声で「どうぞ、座ってください」と言って後ろ手に扉を閉め、口の端をほんの少しだけ持ち上げて見せる。

 そのおかげで一時的に緊張のほぐれた恋幸は、彼の言葉に甘えてそろそろと移動して応接ソファに腰を下ろした。


「わっ!?」


 ……のだが。
 ウレタン素材の“それ”は彼女が思っていたよりも柔らかく、想像以上に体が深く沈み込んだことで足が地面から離れてしまう。
 慌てて体勢を整えたものの、反射的に大きな声を出してしまった恥ずかしさから太ももに両手を置いたまま俯く恋幸を、裕一郎は(とが)めるでも嘲笑(あざわら)うでもなく「ふ」と小さく息を吐いてからおもむろに歩み寄り頭にぽんと片手を置いた。


「紅茶と珈琲と緑茶。どれがいいですか?」
「りょ、緑茶がいいです……」
「アイス? ホット?」
「……ぬるめで……」
「わかりました。少し待っていてください」





 社長室内に設置された入り口から行き来できるようになっている真隣の部屋――恐らく専用の給湯室(きゅうとうしつ)だと思われるが、その向こう側へ姿を消した裕一郎は、約5分ほど経った頃にマグカップが2つ載った丸いトレーを片手に戻って来る。
 そして、一切バランスを崩すことなく恋幸の隣に腰掛けると、センターテーブルの上にトレーを置いてから緑茶の入っているマグカップを彼女の前に差し出した。


「どうぞ」
「あっ、ありがとうございます……!」


 社長直々に淹れて頂けるなんて光栄です、お手を(わずら)わせてすみません!
 喉まで出かかったその言葉を、恋幸はふと我に返って飲み込み、胃の中で溶かしながら静かに裕一郎の横顔へ目線を向ける。


(……多分、違う)


 何となくの“直感”でしかないが、彼は恋幸に『社長』として扱われることを望んでいない。そんな風に思ったのだ。
 きっと『倉本裕一郎』という一人の人間として、今まで通りに接してほしい。そう考えているのではないだろうか? と。


「……? どうかしましたか?」
「……! な、何でもないです! あの、お茶、ありがとうございます」
「いえ、どういたしまして」
「いただきます」
「はい、どうぞ」


 ――……結果的に、恋幸の推測は正しいものだった。

 背もたれに体を預けて珈琲の入ったカップを口元へ運ぶ裕一郎はいつも以上に(おだ)やかな声で言葉を(つむ)ぎ落とし、珍しいことに、彼の口元に浮かんだ三日月は彼女が(まばた)きを5回して緑茶を飲み終えた後もその形を保ったままである。
 元々、彼の顔が人並み以上に整っていることもあって、黙って微笑みを浮かべているだけでもとても絵になり、恋幸の瞳は釘付けになってしまった。


「……なにか?」


 自身に向けられている熱い眼差しに気づいたらしい裕一郎は、手に持っていたカップをゆっくりとした動きでセンターテーブルに置いてから体ごと恋幸に向き直り、少し首を傾けつつ長い指で彼女の頬を撫でる。


「……っ!? な、なんでもない、です……けど、」
「けど?」


 途端に赤く染まっていく恋幸の頬を彼の冷たい指先がついと這って、眼鏡の奥にある空色の瞳は彼女の反応を楽しむかのように細められた。