つい先ほどまで不安げな表情を浮かべていた恋幸だが、今度は額から顎の先まで熟れた林檎のように赤く染め、唇をきゅっと閉じたまま瞼を伏せて返す言葉を探す。
裕一郎は彼女に気づかれないように小さく笑うと、自身の服を摘んだままの彼女の手にそっと触れた。
「罪悪感にはもうつけ込みましたよ」
「え……? どういう事ですか?」
「さあ? どういう事でしょう?」
恋幸は閉じたばかりの瞼を慌てて持ち上げて問いを投げたが、質問を質問で返されてしまい、彼の空色の瞳はただ優しい色を滲ませて意味ありげに細められる。
「……?」
「分からないままでいいですよ、可愛らしいので」
「かわ……っ!?」
息をするかの如く自然に甘い言葉を落とされると、恋幸は今だにどう反応するのが正解か分からずにいた。
ただ一つ確かなことは、狼狽える自身を観察する裕一郎がひどく愛おしそうな顔をしているということ。
はっきりと表情を変化させて見せるわけではないが、彼の些細な感情の変化を恋幸は少しずつ感じ取ることができるようになっていた。
「……正直に言うと、貴女だけでも良くしてあげたいと思っているのですが、」
「良く……?」
「残念ながら明日も仕事があるので、叶いそうにありません」
「?」
――……良くしてあげたい。
その言葉の意味を恋幸のアホ毛では探知できず首を傾げるばかりだが、裕一郎は相変わらず口元に緩やかな三日月を浮かべたまま彼女の頬を指の背でついと撫でる。
「……可愛い」
「あ、ありがとうございます……!」
「……どういたしまして?」
その後、「今夜は一緒に寝てくれませんか?」という裕一郎の問いに、
「毎晩でも喜んで!!」
と答えた恋幸を彼はその腕に抱き、高鳴る鼓動を聞きながら一つの布団で眠りについた。
今の所とはじめに注釈が付くものの、とても健全な意味で恋幸が裕一郎と床を共にするのも3回目ともなればそろそろ慣れるはずもなく。
相変わらず緊張で体を硬くしていた彼女だったが、裕一郎の体から香る石鹸の匂いを嗅ぎ、その大きな手で頭を撫でられているうちにあっさりと眠りに落ちていた。
そんな恋幸が水族館のアザラシ展示用プールほどの大きさがあるグラスいっぱいに注がれたメロンソーダを飲み干し、キングサイズベッド並みの巨大なたい焼きを完食した夢から覚めると、当たり前だが「仕事がある」と言っていた裕一郎の姿はすでに見当たらない。
ここまでは『いつも通り』の朝だった。
(行ってらっしゃい、って言いたかった……)
裕一郎が恋幸を起こさないよう布団から抜け出すのは、彼なりの思いやりや優しさの表れであると当然理解できている。
しかしベタな行動に謎の憧れを持つ彼女にとって、朝、彼が家を出る前に玄関先で「行ってらっしゃい、あなた。今日も1日頑張ってね」と語尾にハートマークを付けながら手作り弁当を手渡して笑顔で手を振るという一連の流れを体験してみたい、という欲望を打ち消すのはなかなか難儀な事だった。
ではあらかじめアラームをかけておけば良いではないかと恋幸も勿論考えたのだが、直後に「裕一郎様の起きる予定では無い時間帯に鳴ってしまい睡眠を妨げてしまったら?」という不安が襲いかかり、結果『裕一郎様の起きた気配で私も起きる』の結論に至ったわけだが、前述にある裕一郎の気遣いにより今のところ成功した試しはない。
(うう〜っ! 明日こそは……!)
そう意気込んだ彼女が敷布団の片付けや着替えを済ませ、洗面所で身支度を整えてから床の間へ向かい、襖をスライドさせた時――……『いつも』とは違う“それ”を目にした。
「……?」
座卓の上に置かれた物を恋幸が正しく認識するまで数秒の空白ができる。
そして、脳みそが“それ”を理解した瞬間、ほぼ反射的に「あっ!?」と声を上げていた。
「お、おはようございます小日向様。どうされました?」
ワンテンポ遅れて聞こえてきたその声に彼女が振り返ると、そこにあったのは襖を開けたまま目を丸める星川の姿。
「あっ! 星川さんおはようございます! あの、これ……っ!!」
いったん体の向きを変え、まるで割れ物でも扱うかのように恋幸が“それ”を両の掌にのせてから星川の方を再び振り返れば、彼女は「あら」と言って後ろ手に襖を閉めた。
「裕一郎様ったら、忘れるなんて珍しい……」
星川が視線を向ける先――恋幸が手に持っているのは、裕一郎のスマートフォンである。
日頃、彼は恋幸と同じ空間にいる間、彼女の目の前でスマートフォンを触る事がほとんど無かったため、見覚えのない“それ”を認識するのに時間がかかってしまったのだ。
「ど、どうしましょう?!」
クリアケースに包まれたブラックのiFoneと星川の顔を交互に見やり、恋幸は眉を八の字にして唇を引き結ぶ。
仕事中にスマートフォンを必要とする業種であるかどうかまでは把握できていないが、一般的な社会人を基準として考えれば、丸一日手元に無い状態というのは困る場面が多くなるのではないだろうか? いやもしかすると、外で失くしたのかもしれないと不安になっているのではないか?
そう案じる心を恋幸の表情から感じ取った星川は、腕を組んで何か考えるような素振りを見せた。
「そうですねぇ……あっ!」
「!?」
◇
にこにこと穏やかな笑みを浮かべる星川について行き、言われるがまま彼女の車に乗り込んでから約15分後。
辿り着いたのは、高層ビルの前に設置された駐車場だった。
まさに漫画やドラマで見たそのままの建物は威風堂々と天高く聳え立ち、綺麗に磨かれた窓ガラスが陽光を弾いて煌めく様はとても映えている。
入ってくる時にはよく見ていなかったが、立派な門の前には『なんとかエニックス』という社名のようなものが刻まれた看板があった気もした。
門の前にいた警備員は、呼び止めるどころか星川の顔を見て笑顔で会釈していたような気もする。