来世にご期待下さい!〜前世の許嫁が今世では私に冷たい…と思っていたのに、実は溺愛されていました!?〜

「……小日向さん、」
「はい!」
「そうではなくて、ここに」
「!!」


 骨ばった大きな手が、もう一度足を叩いて見せた。
 今度こそはさすがの恋幸も“それ”の意味を正確に理解し、おずおずと上半身を持ち上げて、心なしか震える声で「失礼します」と呟き言われた通りに移動する。

 彼に背を向ける体勢でその足の上に座ると、裕一郎は「ふ」と小さく息を吐いておもむろに彼女を抱きしめた。


「貴女は相変わらず可愛いですね」


 肩に顎をのせつつそう呟いた彼の左腕にそっと触れて、恋幸は小さくかぶりを振る。
「倉本さんは、私のことを過大評価しすぎです」
「……過大?」


 納得がいかないようなトーンで落とされた言葉に対して彼女が何度も頷けば、裕一郎の右手がゆっくり移動して恋幸の顎を優しく持ち上げた。
 冷たい指先が輪郭をなぞり、無意識に体が強張(こわば)る。


「……悪意のある嘘をつかず、反応も素直で、いつも私の事ばかり優先して、」


 言いながら、裕一郎は彼女の耳たぶに口をつけて、右手の親指で唇に触れた。
「作品も……読みやすい文章を心がけ、読者のことを真剣に考えてくれている」
「……っ、」


 ダイレクトに脳を揺らす低音のせいで、息継ぎすら忘れてしまう。
 全身の血圧が上がる感覚をおぼえながら、まるで全身が心臓になったかのようだと恋幸は頭の隅で考えていた。

 そんな彼女の反応が、裕一郎の口元に三日月を浮かべる。


「……ほら、こんなに可愛い」


 どくどくと体に伝わる振動が自分のものなのか、それとも彼のものなのか。恋幸がそれを知るのは、もう少し後の事だった。
 ゼロ距離で低く心地良い声に鼓膜を揺らされたせいで脳が痺れ、連続して甘い言葉を浴びせられた事により恋幸は軽いパニック状態に(おちい)り、その結果まともな判断能力を失いかけていた。


(はわわわ、あわ、)


 ついでに言うならば、言語能力も急激に低下しつつある。


「くっ、倉本さんは、」
「はい」
「もっと、ご自分がセンシティブだという自覚を持たれた方がよろしいように思います……」
「……はい?」


 恋幸の真っ赤に染まった顔も、裕一郎の「意味がわからない」と言いだけな表情も、互いに見えていないのが不幸中の幸いだろうか。
 小動物のようにぷるぷると肩を震わせる彼女を見て、裕一郎は横から覗き込むような形で顔を近づけた。


「センシティブ、とは……具体的には、どのような部分が? どういう意味で言っていますか?」
「へっ……!?」


 恋幸の耳たぶにぴたりと口をつけたまま吐息を混ぜて裕一郎が低く囁けば、彼女の薄い肩は大袈裟なほどに跳ねて彼の加虐心をぞわりと(あお)る。

 裕一郎は恋幸の長い後ろ髪を片手で軽く束ねると、彼女の肩越しに前へ流してそのうなじを(あら)わにさせた。
 そして彼の冷たい指先が“そこ”をついとなぞるだけで、恋幸の体はふるりと震えて首の裏側まで紅色を(にじ)ませる。
「具体的に、は、」
「はい」
「ひゃっ、」


 説明のために必死で頭を働かせる彼女の思考を(さえぎ)ったのは、裕一郎の唇だった。
 彼は真っ赤に染まった恋幸のうなじに顔を寄せると、小さなリップ音を立てつつ頚椎(けいつい)を伝って短い口づけを何度も落とす。

 そのせいで乱され続ける彼女の思考。
 まるで一色のクレヨンでぐちゃぐちゃに塗り潰されたかのように、浮かんだ言葉があちこちに散らかり脳みそを埋め尽くしていった。


「……っ、」


 耳の奥まで響いているように錯覚する心臓の音を隠すために恋幸が上半身を少し前に倒せば、お腹に回されている彼の片腕が「逃げるな」と言いたげに自身の方へ抱き寄せる。
 そして、首筋にまた一つキスが落とされ反射的に肩が跳ねた。


「ほら、教えてください?」
(裕一郎様、なんだか変)


 裕一郎は、仕事で疲れている時は甘い言葉を多用したり接触の頻度が増える性格だという事は恋幸も既に理解できている。
 だが、彼女の知る限り今日の彼は短時間のテレワーク以外何も無かったはずで、疲労が溜まっているようには見えなかった。

 それなのに、


「小日向さん」
「……っ、くらも、と、さん」


 密着したまま、心の底から求めるような熱のこもった声で名前を呼ばれて、恋幸はどうすればいいのかますます分からなくなる。
「……ずるい」
「うん?」


 心の中にぷかりと浮かんだ感情が恋幸の理性をすり抜けて口からこぼれ落ちてしまい、「ああ、しまった」と思った時にはすでに裕一郎の相槌(あいづち)が耳を撫でていた。

 彼女は首だけでゆっくり振り返ると、裕一郎の整った顔をまっすぐに見据えて声帯を震わせる。


「倉本さんは、ずるいです」
「……なぜ?」
「だって、いつも……私ばっかり余裕が無くて、どきどきしっぱなしだから」
「……」


 不服そうに恋幸が眉で八の字を描いたのを見て、彼は二、三回(まばた)きをした後「ふ」と小さく息を吐いて彼女の赤い頬を指の背で撫でた。
「ずっと恋焦がれた女性を目の前にして、余裕なんてあるわけがないでしょう?」
「えっ……だ、だって、いつも」
「いつもは貴女にバレないように『余裕』ぶっているだけですよ。ほら」
「わっ!?」


 裕一郎は、それでも信じられないと言いたげな顔をする恋幸の体を持ち上げて横抱きの体勢にすると、片手を優しく掴んで自身の左胸に触れさせ口元に緩やかな弧を描く。


「私も、貴女と同じですよ」
「……ほんと、だ……」


 指先の感覚に集中しているのか、恋幸の目線は珍しく裕一郎の顔を逸れて彼の左胸に注がれていた。
 彼女は再度「本当だ」と呟いた直後、花が開くかのようにふわりと顔を(ほころ)ばせる。