「いりませんよ」
「い、いらなくないです! 返します!」
「……貴女は律儀ですね」
大きな手で頭を撫でられて恋幸は一瞬「裕一郎様だいすき」の感情に脳みそを侵されてしまったが、今回はほんの数秒で我に返り彼の手首をそっと掴む。
「ごっ、誤魔化されませんよ!」
「可愛がっているつもりだったのですが」
(んんっ……好き……)
完全敗北の瞬間であった。
「どちらにしろ、ここに住むという提案もエアコンの手配も私が勝手にした事ですし、貰っておいてください」
裕一郎大好きな恋幸にとって、彼の気持ちを最優先したいというのは素直な気持ちである。
しかし同時に、負担になってしまいたくない・かけてしまう『迷惑』を少しでも減らしたい。そう考えているのもまた事実だった。
だからこそ、不完全燃焼な感情の灰汁が心の中に浮いてしまう。
「……わかりました、それじゃあ、倉本様……倉本、さん」
「はい、なんでしょう」
「私からも勝手な提案が一つあります」
「提案?」
彼が言葉の一部を反芻した直後、恋幸は両手の拳を握りしめ勢いよく立ち上がって裕一郎の顔を見下ろした。
「私も、ここの家事手伝いをします! お給料は貰いません! 作者の『日向ぼっ子』ではなくただの『小日向恋幸』として、倉本さんの身の回りをお世話します!!」
「……!?」
開いた口が塞がらない、とはまさにこのような状況を言うのだろう。裕一郎は彼女の寝癖を視界に捉え、そんな事を考えていた。
キリリと眉を逆八の字にする恋幸を見上げながら、裕一郎は静かに瞬きを繰り返し「いや、聞き間違いだろう」と心の中で頷く。
そして少しの時間を置いてから片手でちょいと手招きをすれば、彼女は大人しくその場に腰を下ろしてゆっくりと彼に体を寄せ、しおらしげに目線を手元へ落とした。
「あの、倉本さん? 私が家事手伝いをする話、承諾していただけたということでよろしいでしょうか……?」
まあ……残念ながら『聞き間違い』ではないのだが。
「……先日も言った通り、貴女をタダ働きさせたくないので承諾は出来ません。エアコン代も気にしなくていいと言っているでしょう?」
ひどく落ち着いたトーンで言葉を紡ぎ落とした裕一郎が片手で恋幸の頭をポンと撫でた途端、彼女は弾かれたように顔を上げて空色の瞳を真っ直ぐに見据える。
「気にします……! だって、エアコンの件だけじゃありません! ここに住まわせてもらっている以上、水道代に光熱費、食費、諸々ぜんぶ……! この先も倉本さんとずっとずっと一緒に居たいからこそ、こういう事はちゃんとしておきたいんです……!!」
息継ぎもせずそれだけ言い終えた恋幸が深い深呼吸を挟んでからきゅっと唇を引き結んだのに対し、裕一郎はまるで鳩が豆鉄砲を食らったかのように眼鏡の奥にある瞳を丸くして言葉を失っていた。
しばらくの間、二人を包み込む静寂。数秒の間を置いた後、彼はほんの少しだけ表情を和らげ「ふ」と小さく息を吐く。
「……本当に、貴女のそういうところが私は……」
独り言にも似たその呟きを恋幸は上手く拾い上げることができず、裕一郎に目線をやったまま小首を傾げた。
「えっ?」
「何でもありません、私の負けです。貴女の“勝手な提案”に、有り難く乗らせて頂こうと思います」
彼は長いまつ毛を伏せて緩やかにかぶりを振った後、おもむろに片手を伸ばして彼女の頬に添えると、水色のビー玉に再度その姿を映す。
「ただし、やはり“タダ働き”させるというのは性に合わないので、何か別の形で報酬を支払わせてください」
口元に柔らかな弧を描いた裕一郎が低く落ち着いた声で言葉を紡ぎ落とせば、恋幸は一度何か言いたげに持ち上げた唇をすぐに引き結び、2秒ほど目を逸らして考えるような素振りを見せてから改まった様子で彼の顔を見上げた。
「えっと、あの、それじゃあ……」
「うん?」
裕一郎が触れている彼女の頬はじわじわと熱を帯び、白く透き通る肌に少しずつ朱色が滲む。
色素の薄い茶色の瞳が恋幸の心を反映してほんの一瞬だけ揺らぎ、意識を逸らせば聞き逃してしまいそうなほど小さい声が彼の鼓膜をノックした。
「……1日1回、ぎゅってしてほしいです……」
「……」
良い意味で想像の斜め上を行った彼女の要求に、裕一郎は驚きのあまり瞬きを繰り返すことしかできない。
いや、彼も初めから恋幸が金品やそれに近い何かを要求してくるとは思っていなかったのだが、さすがに形にすら残らないどころか彼女一人が得をするわけでもない“もの”を欲しがるというのは予想の範囲から外れていた。
「……そんな事でいいんですか?」
「あっ、勿論あの、倉本さんが嫌じゃなければなんですけど……!」
それでは私にとっても『報酬』になってしまうので、もっと貴女だけにメリットがある事で良いんですよ。
裕一郎は寸前でそのセリフを飲み込み、目の前で不安げに眉を寄せている恋幸の頭を優しく撫でる。
「嫌なわけがないでしょう?」
「えへへ、よかったです」
大人しくされるがままになりつつ顔を綻ばせる恋幸の姿を見た途端、彼の中に言葉では言い表し難い大きな感情が流れ込み、血液に乗って全身に行き渡るかのような錯覚をおぼえた。
体温が上昇するのを自覚した時にはすでに体が動いており、
「……可愛いな」
「えっ」
裕一郎は目の前にある恋幸の体をそっと抱き寄せる。
「えっ、あっ、くく、倉本さ、」
「よしよし。可愛い、可愛い」
(ひぇ〜っ!?)
突然のデレ期と抱擁――何が起きたのか今だに状況判断ができていない彼女の頭を大きな手が撫でるせいで、脳みその処理スピードは急激に低下し言語能力にまで影響を及ぼしていた。