「……? 小日向さん?」
「あの……決して倉本様を疑っているわけじゃないんですけど、私やっぱり何か失礼を働いてしまったんじゃないでしょうか……? 寝相が悪かったり、いびきがうるさかったのなら直しますので言ってほしいです」
「……なぜ、そう思ったんですか?」
「だって、何だか……倉本様が、ちょっとだけ、いつもと違うから……」
恋幸の言葉に対して裕一郎は何も答えず、後ろ手に襖を閉めると彼女のすぐ目の前に腰を下ろした。
顔を上げられないままでいる恋幸の肩がびくりと跳ねれば、彼はおもむろに手を伸ばしその頭を優しく撫で始める。
「……!? く、らもと、さま……?」
「不安にさせてしまい、すみませんでした。本当に、貴女は何もしていませんよ。寝相も良かったですし、いびきもかいていませんでした」
「……えへへ、よかったぁ」
ようやく彼女が笑顔を見せた時、裕一郎は引き寄せられるかのように自然な流れで自身の顔を近づけて恋幸の額に一つ口付けを落とした。
驚きから硬直する彼女とは対象的に、彼は落ち着いた様子で体を離して目の前にある長い黒髪を指で梳く。
「……すみません。可愛かったので、つい」
「え……? は、はい……あっ、ありがとうございます……」
「こちらこそ。……今朝も思いましたが……寝癖、付いたままですよ」
「え!?」
一連の出来事にしばらく惚けていた恋幸だが、『寝癖』というワードが耳に入った瞬間ハッとして頭に片手を当てた。
それを見て裕一郎は「ここです」と短く告げ、該当箇所を長い指で軽くつつく。
「な、直したはずなのに……!」
「残念でしたね。まあ、可愛らしいのでそのままでも良いと思いますが」
(へ!?)
先程から何度も甘い言葉をかけられて、恋幸の頭は今にもオーバーヒートしてしまいそうだった。
彼女が真っ赤な顔で口をつぐむと、彼は「ふ」と小さな息を吐きスーツのジャケットを脱いで両腕を広げる。
「……?」
「小日向さんに一つ、お願いがあります。抱きしめさせてくれませんか?」
「……!! よ、よろかん……っ、喜んで……」
噛んでしまった気恥ずかしさと緊張から裕一郎の顔をまともに見ることができず、足元の畳を見つめたままゆっくりとした動きで彼の腕の中へ収まる恋幸。
永遠にも思えるそのわずかな時間の中で、時計の秒針の音だけが静寂を支配していた。
「あ、あの、」
「はい、なんでしょう」
胡座をかいて座る彼の足の上に腰を下ろして、背後から抱きしめられるような体勢でいる恋幸が遠慮がちに口を開くと、裕一郎は首を傾けてその顔を覗き込む。
と言っても、座っている状態でも十数センチの身長差があるため真横から見ることは叶わないのだが、何となく視線を察知したらしい恋幸は先程よりも更に体を強張らせた。
「その……つかぬ事を伺いますが、私はどうして倉本様に抱きしめていただけているのでしょうか……?」
あくまでも『自分だけが得をしている』体で落とされたその言葉に対し、裕一郎は思うところがあるのか綺麗な眉を八の字にして唇を引き結んだものの、少しの間を置いてから恋幸のお腹に回していた腕にわずかに力を込めて「それは、」と切り出す。
「仕事の疲れを癒やして頂いている、というのが1つ目の理由です」
「い、癒やし……っ!?」
「はい。2つ目の理由は……充電です」
言うと同時に、裕一郎は恋幸の首筋に顔を埋めて大きなため息を吐いた。
恐らくその行動には彼が言及した以上の目的など含まれていないのだが、熱い吐息が彼女の肌を撫でた瞬間にぞわぞわとした感覚が背筋を駆け抜け、不快感とは全く違う“それ”に恋幸の唇からは「んっ」と小さな声が漏れる。
「……? 嫌でしたか?」
「い、いえ! 嫌なわけがないです! 倉本様といっ、いちゃいちゃ……できて、嬉しいです!!」
「……貴女は本当に素直で可愛いですね」
(ほゃ……)
恥ずかしいやら幸せやら困惑するやら。
突然デレ期の到来した裕一郎を前に、彼女の頭はどうにかなってしまいそうだった。
(つ、疲れてると甘々になるのかな……? うっ、心臓吐きそう……)
「……さて。そろそろ花に夕飯を食べさせないと拗ねられそうですね」
「夕飯……あっ!? すみません、倉本様! 私、まだ夕飯の準備ができて、」
恋幸が慌てて振り返った先にあったのは裕一郎の整った顔で、眼鏡レンズの奥にある瞳と目線が交わると同時に頭の中が「裕一郎様、かっこいい……大好き……」でいっぱいになる彼女を見て、彼は首を傾げながらその頭を一度撫でる。
「準備? はなから貴女にさせるつもりはありませんよ?」
「えっ、でも、」
咄嗟に言い返そうとした恋幸の頬に裕一郎が指の背を添えれば、薄い肩がピクリと跳ねて彼女は唇を閉ざし恥ずかしそうに目線を背けた。
「……尊敬する日向ぼっ子先生にタダ働きさせるだなんて、とんでもない」
裕一郎は反応を楽しんでいるのか、わずかに弾む声でそう言うと恋幸の頬をプニプニとつついてから両手を離し彼女の体を解放する。
「それに、もともと八重子さんが休みの日は、夕食は『別』で済ませているので心配いりませんよ」
「別?」
「はい。花に夕飯をあげたら出かけますから、準備しておいてください。……ああ、今の格好のままで結構ですが、体が冷えないよう厚手の上着を羽織ってくださいね」
「は、はい! わかりました!」
◇
――……夕飯は別で済ませている。出かけるので準備してほしい。
その2つのワードから恋幸は「夜景の見えるお店でディナーを頂くのかな!?」と飛躍した連想をして、自宅から持参した粘着カーペットクリーナー(コロコロ)で服についているかもしれない埃を取り、2人分の食費がちゃんと入っているか財布の中までしっかりチェックを済ませて床の間でスタンバイしていたのだが、
「お待たせしました。それでは行きましょうか」
戻って来た裕一郎は帰宅した時と同じスーツ姿のままそう言って、紺色のロングコートを羽織ると車の鍵を玄関先の棚に置いたまま表に出てしまう。
「……そうだ。小日向さん」
「は、はい!」
「3分ほど歩きますが、大丈夫ですか?」
「ぜんぜん平気です! 任せてください!」
いったい何を任せればいいのかわからないが、裕一郎は深く触れずに相槌を打って玄関の鍵を閉めるとスマートフォンを取り出し、懐中電灯機能で灯りをつけて恋幸に向き直った。
「……大丈夫ですか? やはり車で行きましょうか」
「!!」
彼の“それ”は暗所恐怖症の恋幸を想っての行動であると瞬時に理解した彼女は、思わず飛びついてしまいそうになった体を理性でむりやり抑え込む。