最初はそれが楽しかっただけで、
「倉本様……」
彼をからかうだけのつもりだったはずなのに、
「は……っ、くらもとさま、」
「……っ、」
「……裕一郎様……すき、大好き……」
彼が抵抗しないから、先にからかってきたからなどと言い訳を並べているうちに、恋幸はおかしな気分に襲われていた。
生まれて初めて胸に芽生えた“その”感情の名前はひどく曖昧で、眠気も合わさってどう処理すればいいのかわからない。
「すき……」
「……小日向さん。いい加減に、」
彼を想えば想うほど無意識のうちに体が動き、みっともなく裕一郎に体を擦り付けてしまう。
「裕一郎様……っ」
――……と、その時。
彼の体に絡ませていた足に違和感を覚え、恋幸は一旦動きを止めて彼の顔に目をやった。
「……? 裕一郎様、何か」
硬いものが。
言い終わる前に彼女の口を裕一郎が片手で塞いでしまい、彼にしては珍しくあからさまに眉を顰めて何か言いたそうな表情を浮かべている。
気づけば呼吸も随分と荒くなっており、密着しているお陰で心臓の高鳴りが腕を伝って恋幸に届いていた。
(あ……裕一郎様、良い匂い……心臓の音も、気持ちいい……)
「小日向さん……本当にいい加減にしないと、」
「……」
「……小日向さん?」
懲りずに体を寄せてきた彼女に対し裕一郎がもう一度警告の言葉を投げようとした途端、恋幸はぴたりと動きを止めてしまう。
かと思えば、少し遅れて規則正しい呼吸音が彼の耳をくすぐり、裕一郎が首を起こしてその顔を覗き見ると、恋幸は一人呑気に夢の世界へ飛び込んでいた。
いわゆる、寝落ちである。
「はぁ……どうしてくれようか……」
起こしてしまうかもしれない可能性を考えると、自身にしがみつく彼女の体を無理矢理引き剥がすわけにもいかない。
裕一郎の夜は、まだまだ長くなりそうだ。
気がつくと、そこは朝だった……というネタはさておき、恋幸は意識が覚醒した瞬間に全身の血の気が引く。
隣に目をやるとそこにはすでに裕一郎の姿どころか布団の一枚すら無くなっており、彼女は弾かれたように体を起こして部屋を飛び出した。
そして運良く迷わずに辿り着いた玄関先で彼の姿を見つけ、今にも出て行ってしまいそうなその背中を慌てて呼び止める。
「倉本様……っ!!」
「……! おはようございます」
振り返った際にほんの一瞬だけ驚いた顔をした裕一郎だったが、恋幸を視認すると同時にいつもの無表情へ戻ってしまった。
「おはようございます! あ、あの、私……昨日の夜、すごく眠たくて途中から何も覚えてないんですけど、何か倉本様におかしなことを言ったりしたりしませんでしたか……!?」
「……」
おかしな言動があったかどうかで言えば肯定するしかない場面である。
だが、裕一郎が黙り込んだ様子を見て恋幸が不安げに眉を寄せると、彼は小さな咳払いを一つしてから「いえ、特には」と返し目を逸らした。
「そう、ですか……それなら良かったです」
「……では、仕事があるので失礼します。八重子さんは今日お休みですから、出かける用があれば私に電話してください。家の物は好きに使って頂いて構いませんので、適当にくつろいでいてください。20時には帰ります」
「は、はい。わかりました」
矢継ぎ早に要件だけ伝えた裕一郎は、「行ってきます」とすぐに背を向けて玄関を出てしまう。
内側から鍵をかける恋幸の心の中には、漠然とした不安だけが取り残されていた。
◇
あれから恋幸の脳みそを延々と支配しているのは「昨夜、記憶の無い間に重大な失言もしくは悪行を働いてしまい、裕一郎に嫌われてしまったのではないか?」という大きな不安感で、執筆作業も手につかず、昼にウサギの花へご飯をあげてからひたすら床の間で畳の上を転がっている間に時は過ぎていく。
彼は「特に何もなかった」と言ってくれたが、それもこちらを傷つけないために言ってくれたのではないだろうか? と、そんな風に疑ってしまう自分自身も嫌になって恋幸は涙が出そうだった。
(明日になったら出ていけ、って言われたらどうしよう……)
裕一郎を信じているのに、悪い想像ばかりがぷかりと浮かびあがり心を侵食してしまう。
スマートフォンは自分用の部屋に置いたままでテレビもつけていないため、今が何時なのか・あとどれぐらいで裕一郎が帰宅するのかわからない。
重い首を持ち上げて床の間の壁に飾られた時計へ目をやった時、音もなく襖が開き恋幸は間抜けな声を上げて飛び起きた。
「……驚かせてすみません。一応、襖を開く前に声はかけたのですが」
「はっ、あっ、こちらこそすみません! おかえりなさい!」
「ええ、ただいま」
(はわ……このやりとり、新婚夫婦みたい……)
と、彼女の頭の中にお花畑が出来上がったのもほんの数秒で、すぐに“しなしな”と音が付きそうな動きで表情が陰り俯いてしまう。
「……? 小日向さん?」
「あの……決して倉本様を疑っているわけじゃないんですけど、私やっぱり何か失礼を働いてしまったんじゃないでしょうか……? 寝相が悪かったり、いびきがうるさかったのなら直しますので言ってほしいです」
「……なぜ、そう思ったんですか?」
「だって、何だか……倉本様が、ちょっとだけ、いつもと違うから……」
恋幸の言葉に対して裕一郎は何も答えず、後ろ手に襖を閉めると彼女のすぐ目の前に腰を下ろした。
顔を上げられないままでいる恋幸の肩がびくりと跳ねれば、彼はおもむろに手を伸ばしその頭を優しく撫で始める。
「……!? く、らもと、さま……?」
「不安にさせてしまい、すみませんでした。本当に、貴女は何もしていませんよ。寝相も良かったですし、いびきもかいていませんでした」
「……えへへ、よかったぁ」
ようやく彼女が笑顔を見せた時、裕一郎は引き寄せられるかのように自然な流れで自身の顔を近づけて恋幸の額に一つ口付けを落とした。
驚きから硬直する彼女とは対象的に、彼は落ち着いた様子で体を離して目の前にある長い黒髪を指で梳く。
「……すみません。可愛かったので、つい」
「え……? は、はい……あっ、ありがとうございます……」
「こちらこそ。……今朝も思いましたが……寝癖、付いたままですよ」
「え!?」
一連の出来事にしばらく惚けていた恋幸だが、『寝癖』というワードが耳に入った瞬間ハッとして頭に片手を当てた。
それを見て裕一郎は「ここです」と短く告げ、該当箇所を長い指で軽くつつく。