「……胃袋を掴まなくても、私はどこにも行きませんよ」
「へ……!?」
考えを見透かされ耳から首まで赤く染まっていく彼女とは反対に、彼は全く動揺した様子を見せず小さく笑って食事を再開した。
星川はといえば、そんな裕一郎の言動に驚くやら二人の空気に当てられて暑いやらで、とりあえず温かい緑茶をすする。
「……はい……」
蚊の鳴く音よりも小さな声でそう返した恋幸は恥ずかしさから二人の方を見ることができず、手元の味噌煮を小さく切って口に含むといつもより多めに咀嚼した。
「ああ、そういえば! あの、小日向様に大事な話がありまして……」
夕飯を済ませた後。「洗い物は私がします」と立ち上がった裕一郎の背中を押し「私がするので先にお風呂に入って体を休めてください!」と床の間から追い出した恋幸は、星川と一緒に台所に立っていた。
洗い終えた食器を乾燥機に入れたタイミングで星川は思い出したような声を出し、なにやら申し訳無さそうな顔で恋幸に向き直る。
「……? どうしました?」
「その……まだまだ夜になると冷え込むでしょう? ですから、小日向様の部屋用に裕一郎様がエアコンを購入されたんですけど……」
(え? わざわざ私のために……? 裕一郎様やっぱり優しい……大好き……)
「業者さんが取り付けに来るのが明々後日で、ですから……それまで、夜は裕一郎様と一緒のお部屋で寝て頂くことになるんですけど、大丈夫かしら……?」
「……なん……」
3月も残り数日。夜空に向かって吐いた息は、まだわずかに白い。
恋幸は今世紀最大と言っても過言ではない程のピンチに陥っていた。その理由は2つある。
1つ目は、つい数分前に星川から告げられたエアコン事情。
はじめは「暖房が無くたって布団を重ねればヘーキヘーキ!」と余裕ぶっていたのだが、今夜はどれほど冷えるのかチェックするため、暖房の効いた床の間を出て自分用の部屋に向かう段階で心が折れた。
もうすぐ春になるとはいえ、夜9時を過ぎると厚手の上着を着ていても廊下を歩くだけで寒い。暖房が無くても平気だと一瞬でも考えた愚か者は誰? と腹が立つレベルに寒い。
そして2つ目は、
「小日向さんは、もうお風呂は済ませましたか?」
床の間に現れた『湯上がりの裕一郎』という兵器の存在だった。
(え……? 美術品……?)
普段は横分けになっている前髪が下ろされ、いつも3割程度見えていた額が完全に隠されたことにより幼さを感じる容貌。
汗なのか湯水なのか判断に困るが、白い首筋を一筋伝い落ちていく滴。決め手は彼の身につけている紺色の着流しだ。
一発KO、悩殺不可避である。
「……? 小日向さん?」
「……人間国宝……?」
「はい?」
恋幸がせっかく事前に(妄想して)用意していた「わー! 倉本様のパジャマ、すごく可愛いですね!」というセリフも一瞬で消し飛んでしまった。
星川は日帰りで働きに来ているため数分前に帰ってしまい、今この屋敷に二人きりであるという事実だけでも恋幸はいっぱいいっぱいだったのだから、思わぬ方向から畳み掛けられては脳みそが多少バグを起こしても致し方ない。
「ほ……」
「ほ?」
「保護するべきでは……?」
「すみません、私にも意味が分かる話をして頂いても?」
あまりにもキャパオーバーすぎる彼の姿に、もはや少し曇った眼鏡のレンズまで愛おしく思うレベルであった。
「私が帰る前に、風呂は済ませたんですか?」
「ま、まだです……」
「そうですか。では風呂場まで案内しますので、準備ができたら声をかけてください」
◇
そして、恋幸に3つ目のピンチが訪れる。
自室までの道も「実はまだ覚えていなくて……」と正直に打ち明けて裕一郎に付き添ってもらったため、迷うことなく辿り着き無事に着替え等も手に入れることができたのだが、本題は『そこ』ではなかった。
脱衣所に足を踏み入れた時も「わー! 広くて綺麗! 旅館みたいですね!」などと感嘆の声を漏らし、彼から恋幸専用のバスタオルを受け取った際も「ふかふか! ありがとうございます!」と喜んだが、風呂場の床を踏むその瞬間まで彼女は“重大な事実”に気が付けなかったのである。
「はっ!?」
そう。
(え? も、もしかして……裕一郎様の使用済みお風呂……!?)
仮にもプロの作家ならばもっと他に言い方があるだろうという部分はさておき。
恋幸が今いるのは『つい数分前まで裕一郎がいた空間』だ。
彼女がその事実に気づいたのと同時に、「しまった、風呂掃除をして湯を新しいものに入れ替えるべきだった」と裕一郎が後悔していたのはまた別のお話。
「すーっ……はーっ……!」
変態……裕一郎ラブな恋幸はまず大きく深呼吸をする。