千に物申す前に、恋幸はいったんグラスをパソコンから遠ざけ、右隣のデスクに移動させてから画面に向き直った。
「くらっ……あの人は! そんな悪人じゃないもん!!」
『何を根拠に言ってるの? ひなこはその人のこと、まだ何も知らないよね?』
「知ってるもんね!!」
裕一郎は自分と会っている間、目の前で一度もスマートフォンを触らなかったこと。
眼鏡を押し上げる時、親指と中指を使うこと。
時計は左腕に付けていること。
会話する時は、必ずこちらの目をまっすぐに見てくること。
歩き始めは右足から先に出す傾向があること。
むきになった恋幸は、千にとって何の得もない裕一郎の細かい癖などを5分かけて熱弁する。
そして、満足げに片腕で額の汗を拭った。……が、今の恋幸は立ち上がったせいでカメラの範囲外にいるため、千には5分前から首より上が全く見えていない。
「ふう……」
『ひなこ、ただの変態じゃん……』
「へっ!? へへ変態じゃ、ない……はず!!」
『なんでちょっと自信無いの』
声音からなんとなく恋幸の表情が想像できた千は、彼女の反応につい「ふふ」と小さな笑みをこぼしてしまったが、すぐに咳払いをして姿勢を正す。
『それに……ひなこは、その人のどこが好きなの? 見た目以外に、どうして好きになったの?』
「え……」
恋幸はとっさに言い返す言葉が浮かばず、力なくぽすりと椅子に腰を下ろして画面向こうの千を見た。
(……あれ? 私、)
考え込む今の彼女の耳には、
『……私は……そんな男に、ひなこを渡したくないよ。一番そばに居て、ずっと見てたのは私なのに……』
千の落としたそんな呟きは届かない。
そして、あっという間に次の日曜日がやって来る。今日は、裕一郎の家へ(飼っているウサギを見せてもらうために)お邪魔するという約束をした日だ。
「おはようございます」
「お、おはようございます! よろしくお願いします!」
「はい、こちらこそ。……では、行きましょうか」
2人は午前11時にモチダ珈琲店で待ち合わせ、恋幸は浮かばぬ顔で裕一郎の車に乗り込む。
『別に、告白されたわけじゃないよね? それに……その人のこと、どこが好きなの?』
(……)
彼の家へ向かう道中、千に投げられたあの時の言葉が何度も頭の中で繰り返されていた。
◇
「ここが私の家です」
(え……?)
車を20分ほど走らせて辿り着いたのは、恋幸が想像していた通りの高層マンション……ではなく。
木で造られた立派な門に、凛とした佇まいの和風住宅。広大な土地を囲む竹垣は敷地がどこまでも続いているかのように錯覚させており、目の前にあるのはどこからどう見ても『豪邸』と呼ばれる建物だった。
恋幸は一瞬、もしかして旅館に連れて来られたのだろうか? と考えたが、裕一郎は慣れた様子で門をくぐり「こちらです」と玄関に誘導する。
「高級旅館……じゃ、ない……だと……?」
「……ああ。初めて連れてきた方にはよく言われますが、違いますよ。……どうぞ、使ってください」
「は、はいっ! ありがとうございます!」
玄関を入ってすぐの場所からは美しい木目の廊下がまっすぐに伸びており、その奥にある庭園らしきものが目に入った。
彼の差し出したスリッパに足をくぐらせた恋幸は裕一郎宅を散策したい気持ちをぐっと抑え、はぐれてしまわないよう大人しくその後ろをついて歩く。
木造の廊下をひたすら突き進み、L字型の角を曲がったところで裕一郎は足を止めて振り返った。
「ここです」
「ここ……?」
「はい。この一室丸々を、我が家の小さな家族に与えているんです」
どこか優しい声音で恋幸にそう語る裕一郎の表情が、ほんの少しだけ和らいだように感じる。
彼は一言「大きな声や音は出さないように気をつけてください」と付け加え、恋幸が頷いたことを確認してから襖を静かにスライドさせた。
「どうぞ。……花、ただいま」
「お、お邪魔しま、……っ!?」
その先に“居た”存在を認識した瞬間、あまりの可愛さに恋幸は一瞬呼吸ができなくなる。
8畳のその部屋はエアコンで温度調節がされており、畳の上には大きなカーペットが敷かれ、その範囲外に出てしまわないよう周囲はサークルで囲まれていた。
そして、奥で扉が開けっ放しになっているゲージの中では、コッペパンによく似た色のネザーランドドワーフがモシモシと一生懸命に牧草を食べている。
しかし裕一郎の声で主人の帰宅に気づいたらしく、牧草を咥えたまま勢いよく彼のもとへ駆けてきた。
「か、かわっ、あ……可愛い……っ」
「ありがとうございます。小日向さんも、サークルの中に入って構いませんよ」
「えっ……! あ、じゃあ、お邪魔します……!」
サークルを軽々と跨いだ彼の後に続いて中へ入り「立ったままだと怖がってしまうので、その場にゆっくり座ってください」と裕一郎に言われた通り恋幸は彼の隣に腰を下ろす。
すると、先ほど『花』と呼ばれたネザーランドドワーフは軽く跳ねて恋幸のそばへ寄り、ふんふんと荒い鼻息を吹きかけながら彼女の匂いを嗅ぎ始めた。
「く、臭いんでしょうか……?」
「いいえ。小日向さんが自分にとって安全な存在かどうか、チェックしているだけです」
「そうなんですね……! こんにちは花ちゃん、はじめまして。私は小日向恋幸と申します」
「……もう触っても大丈夫だと思いますよ。頭を撫でられるのが好きなので、撫でてあげてください」
「はい……!」