「……話、聞いていなかったんですね?」
「ちっ……! がわな、い、です……はい、すみません……倉本様の指について考えてました……」
「指?」
わずかに首を傾げた彼に対し、恋幸は一つ頷き「綺麗だな、って思って」と素直に打ち明ける。
その返事を受けて彼は前を向きなにか考えるような素振りを見せたが、少しの間を置いてから眼鏡の縁をついと押し上げ恋幸に向き直った。
「……」
「……? くらも、」
名前を言い切るより先に、彼の手が吸い寄せられるかのように恋幸の方へ伸びる。
とっさに唇を閉じて肩をすくめる恋幸を見て、裕一郎は「ふ」と小さく息を吐いた。
そして、恋幸が先ほど「綺麗だ」と称賛した彼の指が、ゆっくりと彼女の前髪をすくい取る。
「……っ!?」
バクバクと耳の奥まで鼓動が響き、まるでこの世界に2人きりで取り残されてしまったかのような錯覚をおぼえる恋幸。
視界のはしで、信号が青色へ変化するのが見える。
「……」
裕一郎の指は一度恋幸の頬を撫でてからハンドルに戻り、彼女を捕らえていた空色の瞳が逸らされたことで恋幸はようやく息を吐き出せた。
(えっ、え……っ!? な、なに……? いま、)
「……お腹、空きましたね」
まるで何もなかったかのようにぽつりと呟いた裕一郎に対し、恋幸は火照って仕方がない頬に両手を添え「はい……」と頷くことしかできない。
時刻は12時11分、恋幸の腹が鳴く頃だ。
ただ今、恋幸は葛藤の最中にあった。
歌詞はよくわからないがとてもシャレた英語の曲が流れる店内で、目の前の3段パンケーキにゆっくりとメープルシロップをかけ頭を働かせる。
(……どうしよう……)
◇
車内で起きた『出来事』に脳みそを乗っ取られていたせいで、駐車場に入ってからこの店に着くまで裕一郎の話に対しても上の空。
うなじを眺めながらぼーっと後ろをついて歩き、筆記体で書かれたスタンド看板を見た瞬間に恋幸はようやく我に返った。
しかし、店の入口まで来て「やっぱり別の所が良いです! ハンバーガーとか食べませんか!?」と言うのも躊躇われ、店員に促されるまま扉をくぐり案内された席へ腰を下ろして熱々のおしぼりで手を拭いてからメニュー表を開く。
運ばれてきたお冷を見た時点で薄々“そう”だろうなと勘づいていた恋幸だが、メニューに目を通したとき改めて現実を突きつけられた。
(や、やっぱり……ここ、『良いお店』だ……っ!!)
そういえば、裕一郎が先ほど「以前から気になっていたお店があるんです」だとか「男1人で入るのは憚られまして」などと話していた気がしなくもない。
それに、これほど見目麗しい彼が昼食としてファストフード店を指定するはずがないしイメージもできない、と恋幸はパンケーキの写真に目を奪われながら考える。
(プレミアムパンケーキ……)
「……食べたい物はありましたか?」
「えっ……!? あっ、えっと……」
対面側の席に座る裕一郎は適当に畳んだおしぼりをテーブルの右端に置き、言いどもる彼女の顔をまっすぐに見据えて不思議そうに首を傾げた。
その表情は相変わらず“無”だが、透き通った空色の瞳にどこか心配の色が滲む。
「……目当ての物がありませんでしたか? でしたら、昼食は別の」
「いえ! ありました! これが食べたいです!」
店内の雰囲気を損なわないよう恋幸が声を潜めてメニュー表の写真を指差すと、裕一郎は「よかった」と呟き、席に用意されていたベルをチンと鳴らした。
少しの間を置いてやって来た店員に慣れた様子で注文を済ませた彼に対し、恋幸はときめくと同時に心の中で軽いパニックに陥る。
見間違いでなければ、自分が注文したパンケーキはなんと1000円もする代物だった。さらに、「飲み物はどうします?」と聞かれつい一緒に頼んでしまったクリームソーダが650円。
(これ、全部私が払うんだよね……?)
恋幸が抱いている不安は決して所持金の心配ではなく、「もしも裕一郎様が『全額払います』と言い出したらどうやって断るべきなんだろう」といった類のものだった。
厚さ約3センチのパンケーキをナイフで切りつつ、良いオンナらしいセリフを考える。
(ここは私に払わせて……私の奢りよ……うーん、恩着せがましく聞こえるかな……割り勘にしましょ、これもなんか違うし……)
「甘さも丁度良くて美味しいですね」
「……っ、……っ!!」
口の中いっぱいにふわとろパンケーキが詰まっていた恋幸は、裕一郎の言葉に対し片手で口元を隠したまま大きく頷いて同調の意思を示す。
蛇足ではあるが、裕一郎が注文したのは820円のプチハニートーストコンビと550円のブレンドコーヒーだ。
彼はそんな彼女の姿を見てわずかに口の端を持ち上げる。
「すみません。ゆっくり食べてください」
「……っ、は、はい……!」
そうだ、私には前回裕一郎様と交わした約束の「次は私に払わせてください」という最強の切り札がある!!