お母さんは再入院してから、付添で病室に寝泊まりしている。家のことは千夜ちゃんとお父さんがしているのだろう。
残業をほとんどせずに帰宅している姿もよく見る。職場には話してあるから、人が残っている中で帰宅してもそれを悪く思う人もいない。ただひとり、とうの千夜ちゃん本人が申し訳無さそうにするだけ。
そういう時は僕がさっさと追い出してしまう。
家族の負う負担は僕にはフォローができない範囲だから。そのやり取りを見て、事情を知らない誰かが贔屓だとか付き合っているんじゃないかとか、ひん曲がった解釈で実はいじめてるんじゃないかとかいう噂も聞いたことがある。それに関しては別に仕事に支障が出る距離感の人間ではない人がたまたま見て言っていただけで、この部署では滞りないから僕らは何も気にしていなかった。
以前に“妹になるかもしれない人”と話したことがある同僚は、僕らのことを切なそうに見ていることを知っている。見ているだけで、何も言ってこないのは彼なりの優しさなんだろう。
電話が鳴ったのは仕事が終わりに差し掛かる夕方だった。
暑い外とは違い、室内の冷房はひやりと寒さを感じる程で、少し効き過ぎの感がある。窓の外で蝉が鳴いている。まだまだ空は青く、ずいぶん陽が長くなった。雲がゆったり流れている。
室内に響く事務的な音。
キーボードを叩く音、電話対応、書類をめくる音。
ともすれば、一本の電話の音など日常の音にかき消される。いや、紛れてしまう。
その電話を取ったのは僕の上司で、内線で千夜ちゃんへと回された。上司の口ぶりや、電話のやり取りの中で察してしまう自分がいた。
自分の中にある感情が、周囲の音をかき消すようで耳が遠くなる。
僕のうるさい心臓が陽奈子に届けばいいのに。数分の1でも、僕の鼓動に重なればいいのに。
音が戻ってきたのは同僚が僕の腕を掴んだからだ。
「大石、大丈夫か?お前は、行かなくても良いのか?」
見ると千夜ちゃんは僕の動向を気にしているようだった。
僕の“事情”である彼女と、千夜ちゃんの“事情”である姉が同一人物と認識していない上司は僕らの様子を不思議な顔をしてみているが、仕事のできる上司は何かを察したようで「お前も帰っていいぞ」と言ってくれる。
僕は感謝を述べ、千夜ちゃんと連れ立って会社を出た。