彼から笑みが消えた。真剣な目に思わず息をのむ。

「無理なんかじゃない。俺が一緒だったら出来そうじゃない?」

私は何も答えなかった。何か言った方がいいのはわかるけど、それでも何も言えなかった。
出来そうにないよ、そんな勇気は私にはない。

でも、それと同じくらい嬉しかった。今日は嬉しいこと続きだと思った。すべて波多野君のお陰だ。
彼は私の救世主のような気がする。

「どうして…ここまでしてくれるの?」

素直な疑問だった。ただのクラスメイトでしかも昨日会ったばかりの彼がどうしてこんなにも私に親身になってくれるのだろう。親友とか、幼馴染とか、恋人とかそういう関係ならわかる。
でも、それのどれにも該当しないのに…友達と言われたのもついさっきだ。そんな“浅い”関係なのに、何故。
波多野君は微かに瞳を揺らした。発言に迷いがあるようだった。

「それは…気になるから」

そう言って、彼は再度笑みを作る。
含みを持たせた言い方に胸の奥がぞわぞわして感じたことのない感情が全身を駆け巡る。
心臓の奥が掴まれたように締め付けられる。でもそれは心地の良いものだ。
私は曖昧に笑ってそうなんだと返した。
彼の言う気になるの意味はよくわからないけど今日1日本当に楽しくてこのまま時間が止まればいいのに、そう思った。
カフェを出るときにお店の人が私たちを見送ってくれた。

「チーズケーキ美味しかったでしょう?ぜひまた来てくださいね!」

温かい人たちと関わることで自然に自分の心も温められていく。傍からみたら今朝まで死のうとしていたなんて思えないだろう。
歩道を歩きながら駅まで歩く。
車道側を歩いていた私にさりげなく彼が位置を変わってくれる。彼がとてもモテることは安易に想像できた。きっと、人気者じゃなくても、快活じゃなくても、頭がよくなくても、彼はモテるだろう。小さな気遣いが出来る人だと知る。

同時に、私は人の顔色ばかり窺っているくせに、そういう気遣いはできない。
器用でもないし、コミュニケーション能力が高いわけでもない。

あまりにも隣を歩く彼が“完璧”過ぎて逆に自分の不甲斐なさを再確認する。
改札が見えてきた。私と波多野君がそれを通り抜ける。
時間を確認するとまだ12時前だ。このまま家に帰っても母親は家にはいないけど普段17時前には家にいるはずだから帰宅時に怪しまれるだろう。
どこかで時間をつぶそうと思った。

「どっか寄っていく?」
「…あ、そうだね。時間もあるし」
「じゃあ、今度はみずきの行きたい場所教えてよ」

行きたい場所?と聞きながら駅ホームで電車を待つ。ぬるい風が制服と髪を揺らす。
行きたい場所などない。でも、彼と話すのが楽しくてこの時間をできるだけ伸ばしたい。ぎりぎりまで一緒に話していたい。そんな欲が出てきて、必死に考えてみる。

と、すぐに電車が来た。一緒に電車に乗り込んで、早くしないと最寄り駅に到着してしまうのにやはり行きたいところはすぐには出てこない。

波多野君が吊革に掴まりながら「じゃあ図書館でも行こうよ」と言った。
手足の長い彼がそうやって吊革に掴まっていると、余計それが協調される。
うん、と大きく頷いて、私たちは図書館で時間をつぶすことになった。図書館は私の家の最寄り駅ではない。
確か3駅くらい離れている。

「図書館、好きなの?」
「静かに勉強できるから好きだな。勉強は?得意?」

あまり触れてほしくない話題でつい顔を背けてしまった。母親のことが脳裏に浮かぶ。

「得意ではない…最近、成績も下がってきてて」
「そうなんだ。学歴社会だから先生も親も勉強勉強って煩くなるのもわからないでもないけど」
「私の親は…勉強できない子はいらないって感じで…」

各駅に到着する毎に波多野君とぶつかりそうになる。
彼は親のことは深くは聞いてこなかった。そっか、と言って口を噤んだ。
目的の駅に到着して、二人で降りた。駅からは徒歩で15分ほどだ。入り口に足を踏み入れるとぶわっとエアコンの風が肌を撫でる。
確かに4月とはいえ結構暑い。図書館のような人が集まるような場所はもうそういう時期なのかもしれない。
ちょっと前まで寒かったのにあっという間に季節が変わっていく。

「本読んでもいいし、勉強してもいいし。どうする?」
「勉強…しようかな」
「じゃあ、教えるよ」

初めて来た市民図書館はびっくりするほど広くて四階まであるようだ。一階は一般書、二階は児童書らしい。専門書なんかは三階以上だ。
飲食スペースもあり、自習室もある。少し駅を乗り継いだらこんなにいい場所があるのだと知った。
視線を上に巡らせながら辺りを見渡す。本を読んでいる人、勉強している人…学生もいた。同じように制服を着ているからわかりやすい。
私と同じようにサボりなのだろうか。私たちは自習室で勉強することにした。
今日は本当は死ぬ予定だったのに、ちゃんと鞄の中には教科書が入っている。
4人掛けの席で向かい合うようにして座った。

波多野君が、わからない問題あったら教えると言ってくれて私は微笑みながら頷く。

苦手な教科は英語と数学だ。得意な科目は化学。でもそれ以外は別にそこまで点数がいいわけじゃない。

そもそも勉強する意欲がない。目的もなく、親に言われるがまま勉強をしている私は中身が空っぽだから学ぶことの楽しさも、目的も持つことができない。
波多野君が参考書を取り出してさらさらと問題を解いていく。数学をやっているようだ。

私も数学の教科書を取り出して、おそらく今日授業で進んでいるであろう範囲のページを捲りながら確認する。一日休むと全くついていけなくなりそうで、それも怖い。

ノートにシャープペンを走らせる音が聞こえる。
すると、彼が手を止めてこちらへ視線を向ける。私も顔を上げる。

「勉強は…自分のためにした方がいい」
「へ?」

真剣な眼差しでそう言われた。何を言っているのかわからずに無言でいると、更につづけた。

「誰かのために…とか、親が言うから…とか、そういうのはやめた方がいい。だって、もしだよ。みずきのお母さんが急にこの世からいなくなって…その人のためにしか勉強をする理由を見いだせていなかったら…それは何の意味もなくなってしまう」

私は眉根を寄せて唾を呑んだ。
まるで、私の家庭環境をわかっているような口調で、もしかして私の心を読めるのではと思った。
そんなことはあり得ないけど…それでも、思ってしまった。

「お母さんのために、それは二番目でいい。一番は自分のためにするべきだよ」
「…」

核心をつくようなことを言われて、でもそれが説教じみて聞こえないのは波多野君が言うから、なのかもしれない。すっと心の奥に入り込む。
そして、彼の言葉には具体的に表現することはできないけど何か不思議な力があるような気がした。

根拠があるわけではない。でも、そう思うのだ。


帰宅するとすでに母親が夕飯を作っていた。
そっと鍵を開けて、重たいドアを引く。そっとローファーを脱いで靴を並べ二階へ行こうとすると母親が気づいたのかリビングから顔を出す。

「おかえりなさい。ちゃんと勉強するのよ」
「わかってる」

階段の手すりにつかまりながら私は感情を殺した声で答えた。
どうやらサボったことは知らないようだ。ほっと肩をなでおろして自分の部屋
に向かった。

すぐにブレザーを脱ぎすて部屋着に着替える。
そのまま、ベッドへ寝転ぶと携帯でYouTube開く。適当に動画を流しながら私は大きく息を吐いて天井を見る。

波多野君のせいでやり残したことが増えた。私に未練などない。なかったはずなのに、こうやって彼と関わるとまたチーズケーキを食べに行きたいな、とか小さなやり残しが増えていく。
明日は、どうしようか。まぁそれは明日また考えよう。
私は重くなる瞼を下ろして意識を手放した。