コンビニは四角く区切られた天国だ。この季節は特にそうだ。
熱帯夜の中を、汗を拭き拭き、中年のリーマンが家路を急ぐ。そんな姿を窓越しに眺めながらそう思う。
生鮮食品を扱うので店内は冷房がガンガンに効いている。
電気代を気にせずに何時間も涼めるのだから、バイト店員としての労働なんて苦にもならない。
お馴染みの入店音が鳴り響き、黒っぽいワンピースを着た茶髪の女の子が入ってきた。見たところ中高生ぐらいだろうか。
いらっしゃいませと言う僕には目もくれず、彼女は迷うことなくまっすぐにアイスが並んだ冷凍コーナーに向かう。
カゴも持たず直接アイスをひとつ手に取って、彼女はくるりと向きを変えてレジまで来ると、僕の前にそのアイスをぽんと置いた
定番中の定番、スタンダードな白いバニラのカップアイスだ。かすかな冷気が僕の鼻先まで漂ってくる気がした。
蒸し暑い夏の夜には、こういう客は意外と多い。僕にだって経験がある。
「――円になります」
彼女はポーチから小銭入れを出し、形のいい爪をした指先で、ぴったりの金額をトレイに並べる。
「スプーンはお付けしますか?」
「あ、はい」
ぶっきらぼうにそう答えられたので、僕はアイス用の木の匙を袋に入れた。
少しばかりカワイイ顔をした子だ。だけど、向こうは客なんだし、べつに僕に対して愛想良くする義理はない。
アイスの入った袋をぶら下げて出て行く彼女の後ろ姿に、僕はマニュアル通りに「ありがとうございました」と軽くお辞儀した。
この時間帯のコンビニは、基本的にヒマだ。油もの系はもう終わっているし、深夜帯になるまで品入れもない。
仕事帰りの客がときどき酒や牛乳や夜食を買っていく程度で、レジを打つ以外のイレギュラーな業務と言えばせいぜい弁当をレンジで温めるぐらいである。
手持ち無沙汰になって棚のポテチを整理していると、また入店のチャイムがなった。
「いらっしいま――」
条件反射でそう言いながら振り向くと、さっきの黒ワンピの女の子が、少しだけ開けた扉の隙間からスルリと滑り込んでくる。彼女はささっとゴミ箱の前に移動すると、空になったアイスのカップと木の匙をゴミ箱に放り込んだ。
そうして僕と目を合わせることもなく、またそそくさと出て行った。
……ウチで買った商品だし、別にそんな遠慮しなくていいんだけどな。
少し前にウチの店にもイートインコーナーができたけど、この時間は閉鎖されている。
(あの子、どこで食べてたのかな)
* * *
夕方過ぎから深夜枠に交代するまでが、いつもの僕のシフトだ。
次のバイトの日、交代時間が近づいたころ、その女の子はまたやって来た。
また同じ、ノースリーブの黒のワンピースを来て、まっすぐアイスコーナーに向かって――スイカバーを持って戻ってくる。
今日はスプーンはいらないな。
ちょうどそこでシフト交代の時間になったので、僕は引き継ぎをして仕事を上がる。と言ってもTシャツの上から着た制服を脱いでカバンを持って帰るだけだ。
一歩コンビニの外に出れば、むわっとする熱気が身体にまとわりついてくる。でも、さっきまで冷房の効いた店内にいた僕にはそれほど苦にはならなかった。
ふと駐車場のほうに目を向けると、煌々と輝く店内の明かりから身を隠すように、少し離れた暗がりの中に彼女がいた。
コンクリートの車止めの上にちょこんと腰掛け、袋から取り出したスイカバーをかじっている。
なまぬるい夏の外気をかきわけるようにして近づくと、彼女は半分ほどになったスイカバーをくわえたまま僕を見上げた。
それでも僕が立ち去る様子がないので、彼女はあきらめたようにスイカバーを口から離し、言った。
「ここで食べちゃダメなの?」
僕はがらんとした駐車場を見渡す。住宅街に近いこのコンビニは、この時間になると車の客はそんなには来ない。
「いや、いいと思うよ。ウチの店長、そんなにうるさくないし、ウチで買った商品だし」
ほんの少しだけ、彼女の表情が和らいだ気がした。
「そう、ありがと。……ゴミはちゃんと片付けるから」
「うん。でも遅くなると危ないから、それ食べたら早く帰りなよ」
* * *
それから、僕がバイトを上がる頃になるとなぜか彼女がやってきて、アイスを買っていくようになった。
アイスの種類は毎回違う。僕は彼女の隣の車止めに腰を下ろし、店長の厚意で仕事終わりに1杯貰っていいことになっているSサイズのコーヒーを片手に、彼女がアイスを食べる間、たわいもない話をするのがお決まりになった。
彼女は、この夏の間にウチのアイスを全種類制覇するのが目標なのだそうだ。
「家は遠いの?」
「ううん、すぐ近く」
「じゃあ、なんで持って帰って食べないの?」
彼女はすぐには答えず、期間限定のチョコミントを口に運んだ。
「……この蒸し暑い外で食べるのがいいんじゃん」
それは僕もわかる。最初のころと比べて、わりと人懐っこい笑顔を見せてくれるようになった彼女に、僕は軽口を叩く。
「どうせならもっと夏っぽく、白いワンピースでも着てきたら?」
彼女は少し口をとがらせて僕のほうを見た。
「白だといろいろ透けちゃうでしょ。これだからDTは……」
勝手に決めつけるんじゃないよ。
「でも黒だと余計に暑そうだよ」
「だから夜に出歩いてるんじゃない」
……それもそうか。
その次のバイトの日、彼女はいつもの黒いワンピースではなく、白Tシャツに短パンという服装で現れた。
選んだアイスは板チョコモナカ。
いつもより際どいところまで健康的なふとももが露出していて、僕は少し目のやり場に困る。
「今日はあのワンピじゃないんだ」
「……間違って洗濯しちゃったの!」
……ん?
ってことは、アイスを買いに来る日はわざわざあのワンピースを選んで着てたってことか。
「……っていうかそれ、透けてるけど」
絶妙にかわいくないマスコットキャラがプリントされた白地のTシャツの下に、薄いピンク色が見えている。
彼女はじろりと僕をにらんだ。
「いいの。今日のは見えてもいいやつだから」
……僕には違いが判らない。
彼女は丸っこくて形のいい膝小僧の上にレジ袋を敷いて、アイスモナカにかぶりついた。
しばらく頬ばってから、唇の端にくっついたモナカの皮のかけらを、彼女は舌を伸ばしてぺろりと舐め取って、言った。
「モナカって、不思議だよね」
突然そんなことを言いだす女の子のほうが不思議だよ。
「だってさ、アイスと最中だよ? 時代も国もぜんぜん違うのに、『大昔っからフツーにありましたけどー?』みたいな絶妙なハーモニーじゃない? これってすごいことよ」
ちょっと面白かったので僕も調子に乗って後に続いてみた。
「それから、そのチョコだよね。アイスでヘナヘナになりがちなモナカ部分にパリッとした歯ごたえを与えて、バニラアイスに対しては相性のいい苦味で甘さを引き立てる……アイスと最中の結びつきを、間に入ったチョコがより引き立てているんだ」
「さすが店員、いい食レポね」
「ただのバイトだよ。あと僕は食べてないし。いつも分けてくれないからね」
いつもどおり、そんな何でもないようなやりとりのあと、不意に彼女が言った。
「――なんで家で食べないのかって聞いたじゃん」
「うん」
「まぁ、よくある話だけどね。学校が休みだとどうしても、親と顔合わせる時間が長くなっちゃうしさ」
まだじんわりと熱が残る夏の夜の乾いたアスファルトに、彼女は視線を落とした。
「……たぶん、あたしはいいチョコじゃなかった」
* * *
でもその次に会った時、彼女はけろっとした顔をしてこう言ったんだ。
「うちの両親にだって機嫌が悪い日があって、あたしもなんだか気持ちがモヤモヤするときがある。それだけの話でしょ。べつに変わったことじゃないよ」
またいつもの黒ワンピースに戻った彼女は、いつもより二回りほど小さくて高級なアイスの蓋を開けながら言った。
「この歳になっていまだにラブラブでイチャつかれても困るし。ぜんぜん特別じゃない、どこにでもある話」
夜になっても気温が下がらないせいか、時折思い出したように蝉が鳴く。
目の前を大きなトラックが、ひときわ眩しいライトで僕らの視界をかき乱して通り過ぎて行った。
「あんたはさー。……記念公園の花火大会、行った?」
特に相手もなく、バイトぐらいしかすることがなかった僕は首を振る。
「音が響いてきたのは聞いたけど、それだけかな。わざわざ見に行くほどのものじゃないでしょ」
「だよねー。でも男ってさ、なんかデートっていうとあそこに連れていこうとするんだよね。浴衣で来いって無言の圧じゃん」
彼女は少し固い高級アイスに、僕が付けてあげた専用のプラスプーンを突き立てながら言った。
「浴衣ってマジ暑いし、足痛くなるし、汗でマスカラとか落ちちゃうし。ほんと大変なんだから。そもそも人多すぎ。背の低い女子にとって人込みって男以上につらいんだからね」
それを僕に言われても困るけど、彼女はスプーンをアイスにざくざくと突き立てながら加速していく。
「だいたいねー? 気合い入れて決めてきた浴衣美人がまわりにわんさかいるのに、なんでそんなとこ行かなきゃならないのさ。あたし、そこまで自分に自信ないもん。クリスマスやバレンタインのイルミネーションなら、帽子とかマフラーとかで誤魔化せるからまだいいけど」
「普通にカワイイと思うけど」
スプーンを持つ彼女の手が一瞬だけ止まった。
「……あーやだやだ。DTは深く考えないで誰にでもすぐそういうこと言っちゃうからなー。これだからDTはー」
だから勝手に決めるな。
「ま、おかげで今年はもう誘われることもなかったし」
「去年はあったの?」
ちょっと意地悪い気もするが、向こうから振ってきた話だ。聞いてくれと言う前フリだろう。
彼女はまた少し黙って、アイスにスプーンを突き刺す。まるで小さな墓穴でも掘っているみたいだ。
トラックが、今度は数台続いて通り過ぎて、それから彼女はポツリと言った。
「……去年一緒に行った彼は、今はあたしの友達と付き合ってるから」
それから彼女はあわてたように付け足す。
「あ……でも二股とかじゃないの。なんとなく上手くいかなくなって、お互いに話しをして、ちゃんとお別れしたから。友達と付き合いだしたのもそれからだいぶ後だし。あたしがどうこう言うことじゃない」
そうして彼女は、夜空を見上げた。
もしかしたらそこにいつかの花火でも見えているのかもしれない。
あるいは、目からこぼれそうな何かを隠したかっただけかもしれない。
「――いっそ浮気されてたとかだったら、あたしがわかりやすく被害者で、いくら愚痴ったって泣き喚いたって許されたのに」
「愚痴ればいいじゃん。ってか愚痴ってるし。僕でいいなら聞くよ、いくらでも」
「…………」
彼女は夜空から視線を落として、隣にいる僕の顔を見た。
「ありがと。でも、これもそんな大したことなんかじゃないよ。あたしはそこまで……生活のぜんぶがそのことだけで回ってるような恋愛脳じゃないし、こうしてアイスを楽しむぐらいの余裕はあるし」
けれども、せっかくの少し高いアイスは、もうすっかりただの甘ったるい水たまりになっていた。
* * *
今日のアイスは、丸くて小粒のアイスが6つ、箱に入ったやつだ。
彼女はそのうち一粒をピックで刺して自分の口に入れ、それから別の一粒をピックごと僕の口元に突き付けた。
「ん」
チョコで薄くコーティングされたアイスを口に入れたまま、彼女は短くそんな声(?)を出す。
「え、くれるの?」
彼女はうなずいた。
「分ける気はないんだと思ってた。今までずっとくれなかったし」
彼女の細い喉がコクンと動いてアイスを飲み込む。
「まあ……もうすぐ最後だし、ね」
……そうだった。ウチの店で売られているアイスは、これとあと1種でコンプリートだ。
八月ももう終わりに近い。彼女がくれたアイスの冷たさが心地よい。
次の一粒に狙いを定めながら、彼女は何気ない様子でつぶやく。
「これ、たまにハート型の当たりがあるんだって。……余計なことしてくれちゃったよね」
そう言って彼女は、また一粒をピックで刺して持ち上げる。
「見た目がどれも同じだったら、これが特別な当たりかもしれないって思えたのに」
それを口に放り込んでもごもごさせながら、彼女は悪戯っぽい表情で僕を見た。
「あたしも、見た目じゃわからないけど、特別な存在かもしれないよ?」
「特別な存在って?」
「ほら、黒い服着て、夜にしか会えないんだから、吸血鬼かも」
「吸血鬼はアイス食べないだろ」
前に投げ出された彼女の細い脚。ミュールと言うのだろうか、細くて涼しげなサンダルのようなものを履いている。
そのかかとでアスファルトをコンコン叩きつつ、口をとがらせて彼女は反論した。
「食べるかもしれないじゃん。しょっぱい血ばっかりじゃなくて、たまに甘いもの食べたくなったりするかもしれないでしょ」
「吸血鬼は日焼けとかしてないと思うよ」
たぶん制服のブラウスだろう、襟元と半そでのあたりを境にうっすらと肌の色が変わっているのがわかる。
僕の視線に気づいたのか彼女は「なに見てんのよ変態!」と言って、手で首筋を隠そうとする。
その拍子に膝の上から残り半分のアイスが箱ごと転がり落ちた。
* * *
最後のアイスは、薄くスライスされたレモンをが上に乗っかったかき氷。
それを小さく抱え込むように膝の上に乗せて、珍しく殊勝な様子で彼女は、聞こえるか聞こえないかの声でつぶやいた。
「ありがとうね。今日まで付き合ってくれて」
今日は珍しく風があって、いつもより少し涼しい。新商品を宣伝するのぼりがコンビニの前で揺れている。
「なんだよ、まるで最後みたいな……」
「最後だよ」
「どうせまた会うでしょ、近所なんだし」
「……ううん、もう来ない」
例の黒いワンピース。だけど今日はいつもと違い、僕と目を合わせてくれない。
連絡を取りあって会ってるわけじゃない。彼女のポーチの中身は小銭入れと家の鍵、あとはハンカチとティッシュぐらいで、スマホの類は入っていない。
たぶんこの駐車場でアイスを食べている間だけは、そういうものからも離れていたいんだろう。
それが、僕と彼女との関係だ。
「愚痴ばかり言ってたら嫌われるもん。最初から、アイス全制覇したら終わりって言ってたでしょ。……これが最後、ひと夏の思い出。この夏が終わったら、あたしは大人になるの。そう決めたの」
そうつぶやいてから彼女はあわてて付け足す。
「……ってもエロい意味じゃないからねっ!」
彼女はそっと、夜空に手を伸ばした。曇ってて星なんかろくに見えないけど。
「この夏の中にぜんぶ置いていくの。いやなことも、いやな自分も、ぜんぶ」
もう会えないと彼女は言う。
でも病気で死んでしまうわけでも、どこか遠くに引っ越してしまうわけでもない。
僕も彼女もわかってる。僕たちにそんなドラマみたいな特別なことは起こりっこない。
いくら黒い衣装をまとっても、彼女は悲劇のヒロインにはなりきれない。
気の抜けた相槌を打つことぐらいしかできない僕は、王子様なんてガラじゃない。
――この夏が終わったって、またいつもどおりの平凡な生活が続いていくだけだよ。ずっと。
彼女が無言のまま氷レモンを手に取る。注意しようと思ったが遅かった。溶けきっていない固く凍ったレモンの前に、彼女が突き立てようとした木の匙は、ポッキリ真っ二つに折れてしまった。
僕は思わず吹き出した。
彼女は顔を赤くして立ち上がり、ムッとしたような表情で僕をにらみつけると、そのままアスファルトを蹴って駆けだしていってしまった。
黒いワンピースのせいで、走り去る彼女の姿がまるで夜の闇に溶けていくように見えた。
これが最後か。まぁ、特別じゃない僕たちには、こんな締まらない結末がお似合いなのかもしれない。
少し待ってみても彼女は戻ってくる様子はない。僕はコーヒーを飲み干して立ち上がった。
コンビニを後にして角を曲がろうとしたとき、息を切らして走ってくる彼女と鉢合わせた。
左手にレモンのかき氷を、そして右手には家から持ってきたらしい金属製のスプーンを持った彼女を。
僕らは顔を見合わせて、どちらからともなく笑い出した。
それから僕らは道端に立ったまま、いつもより長く、日付が変わるころまでいろいろな話をして、そして眠い目をこすりはじめた彼女と別れた。
――そして、8月最後のバイトの夜、彼女は姿を現さなかった。
* * *
9月の朝、レジ打ちしている僕の前で、彼女はぽかんと口をあけて僕を見ている。
高校の制服姿で、手には制汗シートと菓子パンを持って。
「……なんでこの時間にいんの……?」
大学はまだ始まらないので、たまに朝のシフトにも入ることになったのだ。
「もう会わないと思ってたから、あんなにいろいろ話したのにー」
「だから、近所に住んでるんだからそりゃ会うだろって」
いや、これまでもたぶん何度かすれ違ったりはしているはず。
制服姿で他の女子高生に混ざっていた彼女を、僕が気にも留めていなかっただけだ。
彼女もただのコンビニ店員の顔なんていちいち覚えちゃいなかったろう。
でも、今はもう違う。
彼女はあの夜と同じ、なんとも言えない表情を浮かべて僕の前にいる。
――仮に、もし仮にだよ。
次の夏の花火大会で彼女が、浴衣姿で「似合う?」なんて、僕に向かってかわいらしく上目遣いで聞いてくるようなことがあったとしたって。
たとえ何年たったとしても、僕がいちばん鮮やかに思い出すのは、あの日の夜に銀のスプーンを持って立っていた彼女の――
彼女があの夏の夜に置いてきたつもりでいる、照れた泣き笑いみたいな顔に決まってるんだ、きっと。
――終――
熱帯夜の中を、汗を拭き拭き、中年のリーマンが家路を急ぐ。そんな姿を窓越しに眺めながらそう思う。
生鮮食品を扱うので店内は冷房がガンガンに効いている。
電気代を気にせずに何時間も涼めるのだから、バイト店員としての労働なんて苦にもならない。
お馴染みの入店音が鳴り響き、黒っぽいワンピースを着た茶髪の女の子が入ってきた。見たところ中高生ぐらいだろうか。
いらっしゃいませと言う僕には目もくれず、彼女は迷うことなくまっすぐにアイスが並んだ冷凍コーナーに向かう。
カゴも持たず直接アイスをひとつ手に取って、彼女はくるりと向きを変えてレジまで来ると、僕の前にそのアイスをぽんと置いた
定番中の定番、スタンダードな白いバニラのカップアイスだ。かすかな冷気が僕の鼻先まで漂ってくる気がした。
蒸し暑い夏の夜には、こういう客は意外と多い。僕にだって経験がある。
「――円になります」
彼女はポーチから小銭入れを出し、形のいい爪をした指先で、ぴったりの金額をトレイに並べる。
「スプーンはお付けしますか?」
「あ、はい」
ぶっきらぼうにそう答えられたので、僕はアイス用の木の匙を袋に入れた。
少しばかりカワイイ顔をした子だ。だけど、向こうは客なんだし、べつに僕に対して愛想良くする義理はない。
アイスの入った袋をぶら下げて出て行く彼女の後ろ姿に、僕はマニュアル通りに「ありがとうございました」と軽くお辞儀した。
この時間帯のコンビニは、基本的にヒマだ。油もの系はもう終わっているし、深夜帯になるまで品入れもない。
仕事帰りの客がときどき酒や牛乳や夜食を買っていく程度で、レジを打つ以外のイレギュラーな業務と言えばせいぜい弁当をレンジで温めるぐらいである。
手持ち無沙汰になって棚のポテチを整理していると、また入店のチャイムがなった。
「いらっしいま――」
条件反射でそう言いながら振り向くと、さっきの黒ワンピの女の子が、少しだけ開けた扉の隙間からスルリと滑り込んでくる。彼女はささっとゴミ箱の前に移動すると、空になったアイスのカップと木の匙をゴミ箱に放り込んだ。
そうして僕と目を合わせることもなく、またそそくさと出て行った。
……ウチで買った商品だし、別にそんな遠慮しなくていいんだけどな。
少し前にウチの店にもイートインコーナーができたけど、この時間は閉鎖されている。
(あの子、どこで食べてたのかな)
* * *
夕方過ぎから深夜枠に交代するまでが、いつもの僕のシフトだ。
次のバイトの日、交代時間が近づいたころ、その女の子はまたやって来た。
また同じ、ノースリーブの黒のワンピースを来て、まっすぐアイスコーナーに向かって――スイカバーを持って戻ってくる。
今日はスプーンはいらないな。
ちょうどそこでシフト交代の時間になったので、僕は引き継ぎをして仕事を上がる。と言ってもTシャツの上から着た制服を脱いでカバンを持って帰るだけだ。
一歩コンビニの外に出れば、むわっとする熱気が身体にまとわりついてくる。でも、さっきまで冷房の効いた店内にいた僕にはそれほど苦にはならなかった。
ふと駐車場のほうに目を向けると、煌々と輝く店内の明かりから身を隠すように、少し離れた暗がりの中に彼女がいた。
コンクリートの車止めの上にちょこんと腰掛け、袋から取り出したスイカバーをかじっている。
なまぬるい夏の外気をかきわけるようにして近づくと、彼女は半分ほどになったスイカバーをくわえたまま僕を見上げた。
それでも僕が立ち去る様子がないので、彼女はあきらめたようにスイカバーを口から離し、言った。
「ここで食べちゃダメなの?」
僕はがらんとした駐車場を見渡す。住宅街に近いこのコンビニは、この時間になると車の客はそんなには来ない。
「いや、いいと思うよ。ウチの店長、そんなにうるさくないし、ウチで買った商品だし」
ほんの少しだけ、彼女の表情が和らいだ気がした。
「そう、ありがと。……ゴミはちゃんと片付けるから」
「うん。でも遅くなると危ないから、それ食べたら早く帰りなよ」
* * *
それから、僕がバイトを上がる頃になるとなぜか彼女がやってきて、アイスを買っていくようになった。
アイスの種類は毎回違う。僕は彼女の隣の車止めに腰を下ろし、店長の厚意で仕事終わりに1杯貰っていいことになっているSサイズのコーヒーを片手に、彼女がアイスを食べる間、たわいもない話をするのがお決まりになった。
彼女は、この夏の間にウチのアイスを全種類制覇するのが目標なのだそうだ。
「家は遠いの?」
「ううん、すぐ近く」
「じゃあ、なんで持って帰って食べないの?」
彼女はすぐには答えず、期間限定のチョコミントを口に運んだ。
「……この蒸し暑い外で食べるのがいいんじゃん」
それは僕もわかる。最初のころと比べて、わりと人懐っこい笑顔を見せてくれるようになった彼女に、僕は軽口を叩く。
「どうせならもっと夏っぽく、白いワンピースでも着てきたら?」
彼女は少し口をとがらせて僕のほうを見た。
「白だといろいろ透けちゃうでしょ。これだからDTは……」
勝手に決めつけるんじゃないよ。
「でも黒だと余計に暑そうだよ」
「だから夜に出歩いてるんじゃない」
……それもそうか。
その次のバイトの日、彼女はいつもの黒いワンピースではなく、白Tシャツに短パンという服装で現れた。
選んだアイスは板チョコモナカ。
いつもより際どいところまで健康的なふとももが露出していて、僕は少し目のやり場に困る。
「今日はあのワンピじゃないんだ」
「……間違って洗濯しちゃったの!」
……ん?
ってことは、アイスを買いに来る日はわざわざあのワンピースを選んで着てたってことか。
「……っていうかそれ、透けてるけど」
絶妙にかわいくないマスコットキャラがプリントされた白地のTシャツの下に、薄いピンク色が見えている。
彼女はじろりと僕をにらんだ。
「いいの。今日のは見えてもいいやつだから」
……僕には違いが判らない。
彼女は丸っこくて形のいい膝小僧の上にレジ袋を敷いて、アイスモナカにかぶりついた。
しばらく頬ばってから、唇の端にくっついたモナカの皮のかけらを、彼女は舌を伸ばしてぺろりと舐め取って、言った。
「モナカって、不思議だよね」
突然そんなことを言いだす女の子のほうが不思議だよ。
「だってさ、アイスと最中だよ? 時代も国もぜんぜん違うのに、『大昔っからフツーにありましたけどー?』みたいな絶妙なハーモニーじゃない? これってすごいことよ」
ちょっと面白かったので僕も調子に乗って後に続いてみた。
「それから、そのチョコだよね。アイスでヘナヘナになりがちなモナカ部分にパリッとした歯ごたえを与えて、バニラアイスに対しては相性のいい苦味で甘さを引き立てる……アイスと最中の結びつきを、間に入ったチョコがより引き立てているんだ」
「さすが店員、いい食レポね」
「ただのバイトだよ。あと僕は食べてないし。いつも分けてくれないからね」
いつもどおり、そんな何でもないようなやりとりのあと、不意に彼女が言った。
「――なんで家で食べないのかって聞いたじゃん」
「うん」
「まぁ、よくある話だけどね。学校が休みだとどうしても、親と顔合わせる時間が長くなっちゃうしさ」
まだじんわりと熱が残る夏の夜の乾いたアスファルトに、彼女は視線を落とした。
「……たぶん、あたしはいいチョコじゃなかった」
* * *
でもその次に会った時、彼女はけろっとした顔をしてこう言ったんだ。
「うちの両親にだって機嫌が悪い日があって、あたしもなんだか気持ちがモヤモヤするときがある。それだけの話でしょ。べつに変わったことじゃないよ」
またいつもの黒ワンピースに戻った彼女は、いつもより二回りほど小さくて高級なアイスの蓋を開けながら言った。
「この歳になっていまだにラブラブでイチャつかれても困るし。ぜんぜん特別じゃない、どこにでもある話」
夜になっても気温が下がらないせいか、時折思い出したように蝉が鳴く。
目の前を大きなトラックが、ひときわ眩しいライトで僕らの視界をかき乱して通り過ぎて行った。
「あんたはさー。……記念公園の花火大会、行った?」
特に相手もなく、バイトぐらいしかすることがなかった僕は首を振る。
「音が響いてきたのは聞いたけど、それだけかな。わざわざ見に行くほどのものじゃないでしょ」
「だよねー。でも男ってさ、なんかデートっていうとあそこに連れていこうとするんだよね。浴衣で来いって無言の圧じゃん」
彼女は少し固い高級アイスに、僕が付けてあげた専用のプラスプーンを突き立てながら言った。
「浴衣ってマジ暑いし、足痛くなるし、汗でマスカラとか落ちちゃうし。ほんと大変なんだから。そもそも人多すぎ。背の低い女子にとって人込みって男以上につらいんだからね」
それを僕に言われても困るけど、彼女はスプーンをアイスにざくざくと突き立てながら加速していく。
「だいたいねー? 気合い入れて決めてきた浴衣美人がまわりにわんさかいるのに、なんでそんなとこ行かなきゃならないのさ。あたし、そこまで自分に自信ないもん。クリスマスやバレンタインのイルミネーションなら、帽子とかマフラーとかで誤魔化せるからまだいいけど」
「普通にカワイイと思うけど」
スプーンを持つ彼女の手が一瞬だけ止まった。
「……あーやだやだ。DTは深く考えないで誰にでもすぐそういうこと言っちゃうからなー。これだからDTはー」
だから勝手に決めるな。
「ま、おかげで今年はもう誘われることもなかったし」
「去年はあったの?」
ちょっと意地悪い気もするが、向こうから振ってきた話だ。聞いてくれと言う前フリだろう。
彼女はまた少し黙って、アイスにスプーンを突き刺す。まるで小さな墓穴でも掘っているみたいだ。
トラックが、今度は数台続いて通り過ぎて、それから彼女はポツリと言った。
「……去年一緒に行った彼は、今はあたしの友達と付き合ってるから」
それから彼女はあわてたように付け足す。
「あ……でも二股とかじゃないの。なんとなく上手くいかなくなって、お互いに話しをして、ちゃんとお別れしたから。友達と付き合いだしたのもそれからだいぶ後だし。あたしがどうこう言うことじゃない」
そうして彼女は、夜空を見上げた。
もしかしたらそこにいつかの花火でも見えているのかもしれない。
あるいは、目からこぼれそうな何かを隠したかっただけかもしれない。
「――いっそ浮気されてたとかだったら、あたしがわかりやすく被害者で、いくら愚痴ったって泣き喚いたって許されたのに」
「愚痴ればいいじゃん。ってか愚痴ってるし。僕でいいなら聞くよ、いくらでも」
「…………」
彼女は夜空から視線を落として、隣にいる僕の顔を見た。
「ありがと。でも、これもそんな大したことなんかじゃないよ。あたしはそこまで……生活のぜんぶがそのことだけで回ってるような恋愛脳じゃないし、こうしてアイスを楽しむぐらいの余裕はあるし」
けれども、せっかくの少し高いアイスは、もうすっかりただの甘ったるい水たまりになっていた。
* * *
今日のアイスは、丸くて小粒のアイスが6つ、箱に入ったやつだ。
彼女はそのうち一粒をピックで刺して自分の口に入れ、それから別の一粒をピックごと僕の口元に突き付けた。
「ん」
チョコで薄くコーティングされたアイスを口に入れたまま、彼女は短くそんな声(?)を出す。
「え、くれるの?」
彼女はうなずいた。
「分ける気はないんだと思ってた。今までずっとくれなかったし」
彼女の細い喉がコクンと動いてアイスを飲み込む。
「まあ……もうすぐ最後だし、ね」
……そうだった。ウチの店で売られているアイスは、これとあと1種でコンプリートだ。
八月ももう終わりに近い。彼女がくれたアイスの冷たさが心地よい。
次の一粒に狙いを定めながら、彼女は何気ない様子でつぶやく。
「これ、たまにハート型の当たりがあるんだって。……余計なことしてくれちゃったよね」
そう言って彼女は、また一粒をピックで刺して持ち上げる。
「見た目がどれも同じだったら、これが特別な当たりかもしれないって思えたのに」
それを口に放り込んでもごもごさせながら、彼女は悪戯っぽい表情で僕を見た。
「あたしも、見た目じゃわからないけど、特別な存在かもしれないよ?」
「特別な存在って?」
「ほら、黒い服着て、夜にしか会えないんだから、吸血鬼かも」
「吸血鬼はアイス食べないだろ」
前に投げ出された彼女の細い脚。ミュールと言うのだろうか、細くて涼しげなサンダルのようなものを履いている。
そのかかとでアスファルトをコンコン叩きつつ、口をとがらせて彼女は反論した。
「食べるかもしれないじゃん。しょっぱい血ばっかりじゃなくて、たまに甘いもの食べたくなったりするかもしれないでしょ」
「吸血鬼は日焼けとかしてないと思うよ」
たぶん制服のブラウスだろう、襟元と半そでのあたりを境にうっすらと肌の色が変わっているのがわかる。
僕の視線に気づいたのか彼女は「なに見てんのよ変態!」と言って、手で首筋を隠そうとする。
その拍子に膝の上から残り半分のアイスが箱ごと転がり落ちた。
* * *
最後のアイスは、薄くスライスされたレモンをが上に乗っかったかき氷。
それを小さく抱え込むように膝の上に乗せて、珍しく殊勝な様子で彼女は、聞こえるか聞こえないかの声でつぶやいた。
「ありがとうね。今日まで付き合ってくれて」
今日は珍しく風があって、いつもより少し涼しい。新商品を宣伝するのぼりがコンビニの前で揺れている。
「なんだよ、まるで最後みたいな……」
「最後だよ」
「どうせまた会うでしょ、近所なんだし」
「……ううん、もう来ない」
例の黒いワンピース。だけど今日はいつもと違い、僕と目を合わせてくれない。
連絡を取りあって会ってるわけじゃない。彼女のポーチの中身は小銭入れと家の鍵、あとはハンカチとティッシュぐらいで、スマホの類は入っていない。
たぶんこの駐車場でアイスを食べている間だけは、そういうものからも離れていたいんだろう。
それが、僕と彼女との関係だ。
「愚痴ばかり言ってたら嫌われるもん。最初から、アイス全制覇したら終わりって言ってたでしょ。……これが最後、ひと夏の思い出。この夏が終わったら、あたしは大人になるの。そう決めたの」
そうつぶやいてから彼女はあわてて付け足す。
「……ってもエロい意味じゃないからねっ!」
彼女はそっと、夜空に手を伸ばした。曇ってて星なんかろくに見えないけど。
「この夏の中にぜんぶ置いていくの。いやなことも、いやな自分も、ぜんぶ」
もう会えないと彼女は言う。
でも病気で死んでしまうわけでも、どこか遠くに引っ越してしまうわけでもない。
僕も彼女もわかってる。僕たちにそんなドラマみたいな特別なことは起こりっこない。
いくら黒い衣装をまとっても、彼女は悲劇のヒロインにはなりきれない。
気の抜けた相槌を打つことぐらいしかできない僕は、王子様なんてガラじゃない。
――この夏が終わったって、またいつもどおりの平凡な生活が続いていくだけだよ。ずっと。
彼女が無言のまま氷レモンを手に取る。注意しようと思ったが遅かった。溶けきっていない固く凍ったレモンの前に、彼女が突き立てようとした木の匙は、ポッキリ真っ二つに折れてしまった。
僕は思わず吹き出した。
彼女は顔を赤くして立ち上がり、ムッとしたような表情で僕をにらみつけると、そのままアスファルトを蹴って駆けだしていってしまった。
黒いワンピースのせいで、走り去る彼女の姿がまるで夜の闇に溶けていくように見えた。
これが最後か。まぁ、特別じゃない僕たちには、こんな締まらない結末がお似合いなのかもしれない。
少し待ってみても彼女は戻ってくる様子はない。僕はコーヒーを飲み干して立ち上がった。
コンビニを後にして角を曲がろうとしたとき、息を切らして走ってくる彼女と鉢合わせた。
左手にレモンのかき氷を、そして右手には家から持ってきたらしい金属製のスプーンを持った彼女を。
僕らは顔を見合わせて、どちらからともなく笑い出した。
それから僕らは道端に立ったまま、いつもより長く、日付が変わるころまでいろいろな話をして、そして眠い目をこすりはじめた彼女と別れた。
――そして、8月最後のバイトの夜、彼女は姿を現さなかった。
* * *
9月の朝、レジ打ちしている僕の前で、彼女はぽかんと口をあけて僕を見ている。
高校の制服姿で、手には制汗シートと菓子パンを持って。
「……なんでこの時間にいんの……?」
大学はまだ始まらないので、たまに朝のシフトにも入ることになったのだ。
「もう会わないと思ってたから、あんなにいろいろ話したのにー」
「だから、近所に住んでるんだからそりゃ会うだろって」
いや、これまでもたぶん何度かすれ違ったりはしているはず。
制服姿で他の女子高生に混ざっていた彼女を、僕が気にも留めていなかっただけだ。
彼女もただのコンビニ店員の顔なんていちいち覚えちゃいなかったろう。
でも、今はもう違う。
彼女はあの夜と同じ、なんとも言えない表情を浮かべて僕の前にいる。
――仮に、もし仮にだよ。
次の夏の花火大会で彼女が、浴衣姿で「似合う?」なんて、僕に向かってかわいらしく上目遣いで聞いてくるようなことがあったとしたって。
たとえ何年たったとしても、僕がいちばん鮮やかに思い出すのは、あの日の夜に銀のスプーンを持って立っていた彼女の――
彼女があの夏の夜に置いてきたつもりでいる、照れた泣き笑いみたいな顔に決まってるんだ、きっと。
――終――