次の日、汐白の前の席は空席だった。隆彦が学校を休んだためだ。さらに次の日も、彼は来なかった。
 また入院してしまうのだろうか。
 五弦は大丈夫だろうか。彼女のままでいられているだろうか。
 昼休み、トイレから戻ってくると、教室の前に沙夜が立っていた。廊下の窓からじっと中をうかがっている。中に入ろうと横を通るとこちらに気がついた。

「……鷲尾、今日いないの?」
「はい。昨日から。何か用事ですか?」
「ううん、違うんだけど、でも……、」

 沙夜はふいっと視線を外した。うつむいて、ぎゅうっと自身のカーディガンの裾を握る。

「五弦が、泣いてる気がして。」

 ぐっと顔をしかめて、かぶりを振った。

「ごめん。また変なこと言った。」
「いえ。……あのっ。」

 沙夜がきびすを返す。数歩進んだその背を汐白は呼び止めた。沙夜が振り返る。

「ペンケースって、どうなりました?」
「……五弦が作ってた?」
「はい。作りかけなら、綾織が持っていたんですよね?」
「ううん。アタシが持ってる。」
「え、本当ですか?」

 沙夜の背を見て、一瞬考えたこと、それを実現するワンステップが省かれたことに、思わず声をあげてしまった。妙なところに食いつかれて、沙夜は不思議そうにする。

「うん。アタシの部屋で教えながら作ってたし。鷲尾が結構遠慮なく五弦の部屋入るから、内緒にするためって、アタシが預かってた。」
「じゃあ、それ、竹原が完成させることは出来ますか?」

 ぱちりと目を瞬かせて、沙夜が固まった。

 五弦がこの世に留まるのはなぜだろう。
 本人にも分からない、彼女の未練とは何だろう。
 たった16歳の女子高生。父母に愛された一人娘。親友と笑い合っていた少女。
 来るはずの明日へ、積み重ねた希望はきっと沢山あって。隣にいた人へ、伝えたかった言葉もきっと沢山あった。
 だけれどもう、彼女の手は何もつかめないし、声も想う人へ届かない。
 彼女の心残りを、本来の手順で晴らす方法はない。
 ただせめて、

「切っ掛けが、欲しいんです。綾織が頑張っていたこと、したかったこと、ちゃんと形にしたら、貴方も鷲尾も前を向けるかも知れません。一回でだめなら、もう一回。一つずつ順に、なぞっていけばきっと。」

 直ぐには顔が上げられなくたって、みんなが、彼が前を向く準備を始めれば、五弦も安心出来るかも知れない。
 沙夜は苦しそうにぎゅうっと唇を引き結んだ。しばらくして、こくんっとうなずいた。

 ***

 次の日も、隆彦は欠席した。
 放課後に沙夜がまた教室にやって来た。例のペンケースを持って来たという。
 一人で作業していると辛くなるから、もし予定がなければ隣にいて欲しい、そう頼まれた。

 汐白は自分の席に、沙夜は隆彦の席に座って、窓を背に並んだ。沙夜は二人の間にある汐白の机に、ソーイングセットと材料を広げた。
 布はファスナーと合わせて筒状になっていた。本体部分は無地の紺と水色が2対1の割合で継ぎ合わされている。紺の部分には水色で”Takahiko.W”とゆるく尻上がりに刺繍してあった。本当は本体と平行に書きたかったのだろうが、曲がってしまったようだ。
 沙夜は筒の裏表をひっくり返した。裏地のライトグレーが露わになる。筒の底に丸く切った布を当てて縫い始める。すいすいと針はよどみなく泳いでいく。

「ありがとう、渡里。」

 ぼうっと眺めていると沙夜が口を開いた。汐白は相手の手元から視線を上げた。沙夜は顔を伏せたままだ。

「これさ、どうしたら良いか分からなかった。五弦のお母さんに渡した方が良いのかなとか。鷲尾に渡した方が良いのかなとか。でも、あいつ入院してて、その間に誕生日過ぎちゃうし。ならもう、このままアタシが持ってても良いのかなって。このまま、五弦が作ってるまんまで、ずっと、そのまま。」

 ぴたりと針が止まる。その手が震えていた。

「全部、夢にしちゃいたかった。朝起きて、学校行ったら、教室にさ普通に五弦がいて、今日も教えてねとか言って、またアタシの部屋でこれを縫い始めるの。」

 布を押さえていた左手の指に針を任せると、沙夜はぎゅっと右手を握りしめた。

「……そんなの、ダメでしょ。アタシがいつまでも夢の中フラフラしてたら、五弦がきっと心配しちゃう。」

 ふっと息をついて、再び針を取って縫い始める。

「だからさ、これ良いと思う。無理やり進めちゃうの。まだ、大丈夫とは言えないんだけどさ。でも、五弦を悲しませるの嫌だから、アタシ、頑張りたいと思う。」

 沙夜は顔を上げて汐白を振り返った。口角を上げる。
 それはまだ笑みを忘れてぎこちなかった。それでもいつかまた、誰かと笑い合える日が来るだろう。目元の腫れが引く日が来るだろう。
 ペンケースの完成が、五弦の未練を晴らせるかどうかは分からない。けれど、きっと効果はある。少なくとも、沙夜が顔を上げられるようになれば、五弦の心も少しは軽くなるだろう。
 これで、隆彦にも何か影響を与えられれば、なおきっと。

 ***