放課後、階段掃除を終えた汐白(うしろ)は、階段脇の英語準備室にいた教師に捕まった。音楽室から借りた資料を返したいのだと言う。隆彦(たかひこ)はそもそも掃除に参加しておらず、他の班員は既に逃げていた。汐白は頼みを断り切れず、準備室がある二階と音楽室がある四階を資料を抱えて往復する羽目になった。
 四階は一年生のクラス教室が並んでいて、最初に資料を運んできた時にはまだ教室内でじゃれついている姿があった。用事が終わり、中にいた吹奏楽部に軽くあいさつして音楽室から出ると、もう下級生の姿はなかった。
 グランドからは元気なかけ声が、どこかの教室からは金管楽器の音がする。掃除も終わって、皆部活に行くなり帰るなりしたのだろう。

 汐白は歩を進めながら、各教室のプレートをぼんやりと眺めた。1-6、1-5、とカウントダウンしていき、見慣れた数字で足を止めた。かつてこのクラスだったな、という懐かしさで視線を落とし、室内に人がいることに気がついた。
 女生徒が、机に腰かけて窓の方を見ている。
 個人練習中の吹奏楽部かと思ったが、楽器ケースがないし、何より楽器の音がしない。なら、このクラスの一年生だろう。そう思い直したが、ふと二人の少女が笑い合う姿が頭をよぎった。
 窓から三番目の、前から三番目。

「竹原……?」

 少女がはっと肩を揺らして振り返った。竹原沙夜は大きく目を見開いていた。

渡里(わたり)、何してるのよ?」
「いや、こっちのセリフだと思いますけど。」

 今年はクラスが離れたので、お互い顔を合わせるのは随分久しぶりだ。
 汐白は教室に入ると、沙夜の隣に並んだ。机に寄りかかるのまで見届けて、沙夜はふいっと視線を窓に戻した。

「クラス決めって、いつ決まるものなのかしら。」
「さあ。前に軽い進路調査みたいなものがありましたよね、文系か理系か、みたいな。あれが影響するそうですから……いつでしょうね。」
五弦(いつる)のクラス、どこだったのかなぁ……。」

 役に立たない答えを聞いているのかどうか、沙夜はぼんやりと続けた。汐白は開きかけた口を閉じた。
 五弦は今自分達のクラスにいる、等と言う訳にはいかない。
 沙夜はプラプラと足を揺らした。

「去年は楽しかったな。五弦とはね、中学から一緒なんだけど、二年三年でクラスは違ったの。入学式でね、久しぶりだって二人で喜んでた。鷲尾(わしお)のやつは悔しがってたけど。」

 遠くを見ていた目が細められる。ぐっと唇がかみ締められる。汐白は慌てて口を開いた。

「俺、今年は鷲尾と同じクラスなんですよ。」
「……あいつ、どんな感じ?」
「毎日学校は来てますけど、まだ具合は良くないみたいですね。あまり机から動きません。」
「そう……。」

 沙夜はうつむいてしまう。立ち去っていいものかどうか、汐白は迷った。

「ねえ、鷲尾のペンケース見たことある?」
「え? いや、ありませんね。」

 教室での様子を思い出そうとするが、ワイシャツの背中しか思い出せない。そもそも彼は、筆記具を机にちゃんと出しているのか。
 沙夜はぼそぼそと続ける。

「結構ボロボロ何だよ。小学校から使ってるらしくってさ。だからかな、鷲尾の誕生日にって、五弦がペンケース作ってたの。アタシが教えながら。あの子ちょっと不器用だから、時間かかっちゃって、完成しなかったけど。……本当なら、とっくに渡してたのに。」

 ぼろっと少女の目から涙が零れた。ぬれるほほを手で押さえる。沙夜は自分で驚いて目を見張った。手の甲で拭う。

「ごめん……変な話して……。」
「いえ。」

 拭っても拭っても、涙は次々あふれてくる。沙夜はごめん、と繰り返しながらすすり泣いた。
 慰め方も必要な言葉も分からなくて、汐白はただ隣にいた。

 ***

 今日も隆彦は机に突っ伏している。教師が保健室に行くように勧めたが、彼は「平気。」の一点張りで動かない。
 日に日に彼は弱っていくようだった。
 体を引きずるようにして廊下を歩き、席に着いていてもほとんど顔を上げない。左手の拳だけが強く固く握られている。
 一度、体育の持久走中に倒れた。正確にはうずくまって動かなくなった。学校近くの運動公園の、マラソンコースから横に外れた花壇の陰に隠れていた。

『たー君っしっかりしてっ。』

 二週目に近くを通った汐白が、五弦の泣く声に気がついて発見した。助けようとするクラスメイトの手をはね除けていた彼だったが、体育教師によって強制的に保健室に連れて行かれた。
 以来、体育はずっと見学になっている。

 ***

『たー君、大丈夫? たー君。』

 彼の周りをおろおろふよふよと、五弦は忙しなくうろつく。心配そうに眉尻を下げて、笑顔を見せることがほとんどなくなった。
 汐白に『おはよう。』とかけてくれる声も沈んでいる。
 授業中、汐白はノートの上端にペンを走らせた。指先で五弦を呼ぶ。気がついた彼女は、身を屈めてノートをのぞき込んだ。

――調子が悪いなら、鷲尾はなぜ休まないの?

 五弦が隆彦を振り返る。答えて良いものかどうか、悩んでいるようだ。やがて口を開く。

『分かんない。あんまり具合が悪いから、おばさんが……たー君のお母さんが病院行こうって言ってるんだけど、嫌がってて。このままが良いんだって。もうあそこには行きたくないって。たー君、昔から病院嫌いだから……。』

 五弦の目にじわりと涙が浮かぶ。

『たー君、大丈夫だよね? 元気になるよね?』

 五弦だって、汐白に先のことが分からないことくらい知っている。彼女が欲しいのは安心だ。心を支える言葉だ。
 一言、大丈夫だよと言ってあげるだけで良い。
 それなのに、ある疑念と不安が汐白の舌を鈍くして、言葉が継げなかった。

 ***