普段祖母くらいしかかけてこないリビングの電話が鳴ったのは、春休みに入って少し経った三月末のことだった。
母が電話を取ると、ソファに座っていた汐白はリモコンでテレビの音量を落とした。母の声はひどく動揺していて、何を話しているのか不明瞭だった。やがて、はい、はい、と途切れ途切れにうなずいてメモを取り始めた。
電話を切る。ぎこちなく息子を振り返った。
「汐白。綾織五弦ちゃんって……知ってますか?」
「同じクラスの?」
汐白が尋ねると、母はこくりとうなずいた。血の気が引いていて顔色が悪い。
「落ち着いて聞いて下さいね。その子が――。」
何を言われたのか、一瞬分からなかった。
黒と白ばかりの場所に、紺色のブレザーを着た少年少女が親に連れられて入室してくる。うつむいている者、ぽかんと祭壇を眺める者、不安を顔に浮かべて親から離れない者。大半が今起きていることを上手く処理出来ていないようだった。
つい数日前、同じ教室にいた少女、彼女がいなくなった。
あまりにも、現実味がない。
沙夜もまだ受け止め切れていないのだろう。いや、それどころか目の前のことを遮断してしまっているのかも知れない。並べられた椅子の一つに腰かけて、ぼうっとしている。隣で手を握る母に一べつもくれず、涙もなく、花に囲まれた写真を、にっこりとほほ笑む親友の姿をただ見つめていた。
五弦は交通事故で亡くなった。
隆彦と出掛けた先で、交差点で信号を待っている時に、突っ込んで来た乗用車にはねられた。
病院に運ばれたものの、一度も目を覚ますことなく息を引き取った。
***
薄紅色の花が咲いて、散り始めた頃、少年少女は久しぶりにブレザーに身を包んだ。ぎゅっと緑のタイを結んだ。
汐白の今の席は窓際の一番後ろ。学校教育というものを受けてからこの方、クラス替えの度に戻ってくる席だ。渡里という、出席番号が最後になりやすい名字故である。
この時期は、クラスの対して親しくもないやつが「汐白が後ろだな!」等とくだらないことを言ってゲラゲラ笑ったりするので、名付けた親を恨みたくなる。
汐白の一つ前の席は、この一ヶ月誰も座っていない。
二年生に上がったばかりで名前の通りに並んだままの席順。渡里汐白の前は鷲尾隆彦の席だった。
五弦と共に事故にあった彼は、意識不明のまま入院していた。
前の席がずっと空いていては気になるだろうと、担任が汐白と隆彦の席を交換することを提案したが、汐白は断った。
黒と白に囲まれて、寄り添って泣いていた、二組の男女を思い出す。女性の一人は、五弦によく似たふわふわと柔らかい髪をしていた。
――たー君まだだから。
少女はいつも、当たり前のように幼なじみを待っていた。
隆彦はいつ戻ってくるか分からない。だけれど、戻って来ると信じている人達がいる。彼の席を隅に追いやると、あの泣いていた人達を裏切るようで、何となく嫌だった。
***
五月の最後の週に、隆彦が登校してきた。
退院したことはもっと前から知らされていたし、学校復帰も前日のホームルームで聞かされていた。それにも関わらず、彼が姿を見せた時、汐白は驚いて席から立ち上がってしまった。
一見して、隆彦は事故の前と変わったように見えない。その青白い顔には傷一つない。しかし、瞳は暗く沈み、表情のない顔は以前よりも外界をはね除けている。席順は聞いているのだろう、窓際の空席をにらみつけて、真っ直ぐに教室を横切って来た。
彼の後ろに、少女が一人ついていた。白い両手を胸の前で組み、所在なさそうにきょろきょろと辺りを見ている。
彼女の姿は異質だ。衣替えが始まり、ブレザーを着ている者と脱いでいる者が混在しているとはいえ、皆一様に制服に身を包んでいる中、彼女だけは白いワンピースに黄色のカーディガンを羽織っている。そして何より、向こう側、教室と廊下を隔てる窓や、並んだ机に椅子、雑談を続ける少女達の様子が、彼女の体に遮られることなく透けて見えている。輪郭もおぼろげで、時折風に吹かれるように揺れる。
隆彦がガタンッと乱暴に音を立てて座った。その左側に少女が立ち、眉を八の字にして心配そうに彼の顔をうかがっている。ふわふわとした長い髪が、窓からの陽光に透き通ってきらきらしている。
五弦だ。
死んだはずの綾織五弦が、今も幼なじみについて歩いている。
汐白は素早く教室を見渡した。ちらちらとこちらに視線をやる者がいる。彼らが気にしているのは、二ヶ月近く不在だったクラスメイトだけだ。汐白のように驚いている様子はない。彼らに五弦の姿は見えていない。
五弦はあの透明な人、幽霊になってしまったのだ。
今の状況に、五弦自身も戸惑っているようだった。
彼女は困り顔で辺りを眺め、丁度やって来た女子へふりふりと手を振った。去年、汐白や五弦と同じクラスだったその女子はもちろん気がつかず、五弦に背を向けてすとんっと席に着いた。五弦は肩を落としてしょんぼりした。うろうろと隆彦の周り、汐白の前を行ったり来たり歩き回る。
チャイムが鳴り、教室中に散っていた生徒が席に着く。廊下から飛び込んできた者も慌てて座る。五弦は飛び上がって驚くと、またおろおろと視線をさまよわせた。彼女に座れる席はない。
『たぁくーんっ。』
姿を見せて初めて口を開く。ぎゅぎゅっと眉を寄せて放たれた涙混じりの声は、悲しいかな彼には届かない。
結局、彼女は机の横に立ったまま、日直の号令に合わせてお辞儀だけした。
***
見ていて分かったが、五弦は隆彦から離れられないようだった。いつも傍をうろうろしていて、彼が急に動くとぐいっと引っ張られるのだ。
一度、廊下で隆彦と沙夜がすれ違った。沙夜は心配そうに隆彦を見たが、彼の方は前を向いたままちらとも視線をやらなかった。その後ろで五弦がぱっと顔を輝かせた。足を止める。
『さっちゃんっ。』
にこにこした笑みは、返事をもらえなくとも陰らなかった。歩き去る沙夜を追いかけようと、隆彦に背を向ける。
一歩も踏み出せずに、彼女の体はぐいと後ろに引かれた。ずるずると隆彦の背に引きずられる。五弦はぽかんと不思議そうな顔をしていた。
この一件でようやく自覚出来たらしく、隆彦の傍を離れようとしなくなった。
隆彦が席に着いている間は、日によって座ったり立ったりしながら、五弦はじっと彼の左側にいる。大抵は黒板につづられる白い文字をじっと見ている。
教師の話にふむふむとうなずき、生徒の答えにパチパチと拍手を送る。彼女が席に着いていたなら、その手元にノートとペンがあったなら、真面目に授業を受ける模範生のようだ。
時々彼女は視線を落とす。机の上に投げ出された隆彦の左手へ。固く握られているのを見て、悲しそうにため息をこぼす。
隆彦の左手は、開かないらしい。困っていれば手伝ってあげて欲しいと、あの前日のホームルームに聞かされていた。
入院してからしばらくして、意識のない内に握りしめられていて、以来少しも緩まないのだそうだ。検査を重ねても、骨も筋肉も神経にも異常は認められず、原因を探して医者は困り果てている。
隆彦自身は気にしている様子が見られない。左手が不自由であることで、誰かに助けを求めることもない。ただ、感情を宿さない瞳でぼうっと前方を見ている。
元々、彼と接点の少なかった汐白には、それが正常なのか異常なのかも分からない。
『たー君、大丈夫?』
相手には聞こえないのだと、もう彼女だって分かっているのに。それでも声をかけるのをやめないのだから、やはり今の彼は変なのだろう。
***
隆彦はよく体調を崩す。授業中に机にうずくまっていたり、廊下で壁に寄りかかっていたりする。
周りは事故の後遺症だと見ていた。
教師やクラスメイトが心配して近づくと、彼は鬱陶しそうに追い払う。
「平気。」
「何でもない。」
血の気の引いた青白い顔で、苦しげに眉根を寄せて、そう言われて誰が信じるだろう。生徒はどうすることも出来ずおろおろする。教師がそれでも食い下がると、「ほっといて。」と彼は怒った。
その度に、今にも泣き出しそうな情けない声が上がる。
『たー君、ムリしちゃダメだよっ。』
その声は誰にも届かない。汐白以外には。
***
休み時間は本を読むふりをして、廊下では教室移動するクラスメイトに紛れて、彼ら二人を観察していたのが、いけなかったのだろう。
その朝も、隆彦が席に着いたのを認めて、そろりと文庫から視線を上げた。隆彦の背中に届く前に、大きな目と目が合った。五弦が体を傾げるようにして、横からこちらをのぞき込んでいたのだ。
まあるい目は、親の手元をのぞき込む幼子のように、期待で澄んでいる。汐白がぎくりと肩を強張らせたことで、コンタクトがとれたと分かったのだろう、五弦の目がぱっと輝く。白いほほを上気させてほほ笑んだ。
『おはようっ渡里くんっ!』
「……おはようございます、」
綾織、と口の中で続ける。
あいさつの言葉は他のクラスメイトにも聞こえただろうが、彼らから見れば、視線の先には隆彦しかいない。後ろのやつが前のやつにあいさつを試みて、失敗した図にしか見えないはずだ。
五弦は上体を起こすと、えへへっと満足そうに笑みを深くした。
それは、いつも沙夜や隆彦に向けられていたもの。もう、自分しか見ることは出来ない。
汐白が隆彦に呼びかけては無視される光景が、このクラスの日常と化していった。
* *** *
ずっと、自分のものだと思っていた。
物心つく頃には既に、傍らに五弦がいた。
隆彦の両親と五弦の父が同郷だと聞いたことがあるが、どういう経緯で家族ぐるみの付き合いになったのかは知らない。聞いたような気もするが、とっくに忘れた。
隆彦が歩くとついて来る。隆彦が座ると隣に座る。他のやつと話していても、呼べばちゃんと傍に戻って来る。
振り返ると、へにゃりと間の抜けた笑みが返ってくる。
「たーくん。」
子どもっぽい呼び名は、本当は嫌いだ。だけど、五弦だけは許してあげた。子どもっぽい子だから、仕方ないのだ。
五弦は鈍臭い。ちょっとしたデコボコや、めくれたカーペットに足を引っ掛けて、べちゃりと転ぶ。
しかも弱虫の泣き虫だ。クマとかライオンとか大きい動物ならまだしも、ピョンピョン地面を飛び跳ねるカエルすら怖がる。
だから、隆彦は先を歩いてあげる。
だから、五弦を後ろに隠してあげる。
自分のものを守るのは、当たり前のことだから。
***
「たー君、ここどこだろう?」
気がつくと、傍らに五弦がいた。
二人は上下が分からないほど真っ暗な場所に立っていた。少し離れただけで、お互いが見えなくなってしまいそうだ。五弦がしゅんと眉を八の字にした。
「もう、夜なのかな? でも、星も、街灯も見えないね。」
「さあね。でも山奥って訳でもないみたいだよ。」
山や森の中にしては草木の匂いを感じない。雪の夜のように静かで、風が枝葉を揺らす音もしない。靴越しに感じる感触はジャリジャリとした砂交じりの土だ。木の根などはなく平らだが、舗装はされていない均しただけの場所のようだ。
「歩いてたらどっか出るでしょ。」
隆彦は歩き出す。後ろから五弦がついて来た。道は、緩やかに下っているようだった。
どのくらい進んだのか、やがて隆彦は息が苦しくなってきた。振り返る。不安そうに眉尻を下げているものの、五弦に変わった様子はない。隆彦は首を傾げて、また前を向いた。
それにしても、ここはどこなのだろう。どうして、自分達はこんな所にいるのだろう。
進めば進むほど、水底へ深く潜っていくように、息は苦しくなっていく。まるで何かが隆彦を地面に縫い付けようとしているように、体は重くなっていく。
一歩が遠い。
いつの間にか、五弦が隣に並んでいた。彼女はいつも通りだ。ただ、その顔と瞳は一歩ごとに不安と悲しみの色を濃くしていく。
ついに隆彦の足が止まる。上体が崩れそうになり、膝に手をついて支えた。
五弦のまあるい目がゆらりと揺れた。
「たー君。」
「……なに。」
「たー君は、こっちに来ちゃダメみたい。たぶん。」
「どういうこと?」
隆彦が顔を上げると、五弦は苦笑していた。
「ごめんね。もっと早く思い出せば良かったね。そしたら、たー君早く帰れたのに。」
「何、道が分かったの?」
「うん。」
五弦はすっと後方、今歩いてきた方を指さした。
「たー君、反対側に来ちゃったんだよ。今すぐ戻らなきゃ。」
「何それ、早く言ってよね……。」
はぁーっと深く息をついて、隆彦は起き上がった。きびすを返す。二歩目で幼なじみがついて来ないことに気がついた。振り返る。
「イツル。」
彼女は動かない。隆彦は怪訝そうに眉をひそめた。
「何やってるの。こっち何でしょ。」
「ううん。私はこっちだから。」
「はあ? なら僕もそっちでしょ。」
「違うよ。たー君は戻るの。戻らなきゃ。」
五弦がほほ笑む。
「私、もう帰れないんだよ、たー君。思い出しちゃった。もう、だめなんだ。だめなんだよ。もう、一緒にいられないの。」
涙をこらえるような笑みに、隆彦もようやく思い出す。
ああ、そうだ。自分は、この子を守れなかったんだ。
五弦の笑顔がぼやける。にじんで、ゆがんでいく。
「大好きだったよ、たー君。今までありがとう。」
ぱちりと視界が瞬いて、見えたのは――。
* *** *
放課後、階段掃除を終えた汐白は、階段脇の英語準備室にいた教師に捕まった。音楽室から借りた資料を返したいのだと言う。隆彦はそもそも掃除に参加しておらず、他の班員は既に逃げていた。汐白は頼みを断り切れず、準備室がある二階と音楽室がある四階を資料を抱えて往復する羽目になった。
四階は一年生のクラス教室が並んでいて、最初に資料を運んできた時にはまだ教室内でじゃれついている姿があった。用事が終わり、中にいた吹奏楽部に軽くあいさつして音楽室から出ると、もう下級生の姿はなかった。
グランドからは元気なかけ声が、どこかの教室からは金管楽器の音がする。掃除も終わって、皆部活に行くなり帰るなりしたのだろう。
汐白は歩を進めながら、各教室のプレートをぼんやりと眺めた。1-6、1-5、とカウントダウンしていき、見慣れた数字で足を止めた。かつてこのクラスだったな、という懐かしさで視線を落とし、室内に人がいることに気がついた。
女生徒が、机に腰かけて窓の方を見ている。
個人練習中の吹奏楽部かと思ったが、楽器ケースがないし、何より楽器の音がしない。なら、このクラスの一年生だろう。そう思い直したが、ふと二人の少女が笑い合う姿が頭をよぎった。
窓から三番目の、前から三番目。
「竹原……?」
少女がはっと肩を揺らして振り返った。竹原沙夜は大きく目を見開いていた。
「渡里、何してるのよ?」
「いや、こっちのセリフだと思いますけど。」
今年はクラスが離れたので、お互い顔を合わせるのは随分久しぶりだ。
汐白は教室に入ると、沙夜の隣に並んだ。机に寄りかかるのまで見届けて、沙夜はふいっと視線を窓に戻した。
「クラス決めって、いつ決まるものなのかしら。」
「さあ。前に軽い進路調査みたいなものがありましたよね、文系か理系か、みたいな。あれが影響するそうですから……いつでしょうね。」
「五弦のクラス、どこだったのかなぁ……。」
役に立たない答えを聞いているのかどうか、沙夜はぼんやりと続けた。汐白は開きかけた口を閉じた。
五弦は今自分達のクラスにいる、等と言う訳にはいかない。
沙夜はプラプラと足を揺らした。
「去年は楽しかったな。五弦とはね、中学から一緒なんだけど、二年三年でクラスは違ったの。入学式でね、久しぶりだって二人で喜んでた。鷲尾のやつは悔しがってたけど。」
遠くを見ていた目が細められる。ぐっと唇がかみ締められる。汐白は慌てて口を開いた。
「俺、今年は鷲尾と同じクラスなんですよ。」
「……あいつ、どんな感じ?」
「毎日学校は来てますけど、まだ具合は良くないみたいですね。あまり机から動きません。」
「そう……。」
沙夜はうつむいてしまう。立ち去っていいものかどうか、汐白は迷った。
「ねえ、鷲尾のペンケース見たことある?」
「え? いや、ありませんね。」
教室での様子を思い出そうとするが、ワイシャツの背中しか思い出せない。そもそも彼は、筆記具を机にちゃんと出しているのか。
沙夜はぼそぼそと続ける。
「結構ボロボロ何だよ。小学校から使ってるらしくってさ。だからかな、鷲尾の誕生日にって、五弦がペンケース作ってたの。アタシが教えながら。あの子ちょっと不器用だから、時間かかっちゃって、完成しなかったけど。……本当なら、とっくに渡してたのに。」
ぼろっと少女の目から涙が零れた。ぬれるほほを手で押さえる。沙夜は自分で驚いて目を見張った。手の甲で拭う。
「ごめん……変な話して……。」
「いえ。」
拭っても拭っても、涙は次々あふれてくる。沙夜はごめん、と繰り返しながらすすり泣いた。
慰め方も必要な言葉も分からなくて、汐白はただ隣にいた。
***
今日も隆彦は机に突っ伏している。教師が保健室に行くように勧めたが、彼は「平気。」の一点張りで動かない。
日に日に彼は弱っていくようだった。
体を引きずるようにして廊下を歩き、席に着いていてもほとんど顔を上げない。左手の拳だけが強く固く握られている。
一度、体育の持久走中に倒れた。正確にはうずくまって動かなくなった。学校近くの運動公園の、マラソンコースから横に外れた花壇の陰に隠れていた。
『たー君っしっかりしてっ。』
二週目に近くを通った汐白が、五弦の泣く声に気がついて発見した。助けようとするクラスメイトの手をはね除けていた彼だったが、体育教師によって強制的に保健室に連れて行かれた。
以来、体育はずっと見学になっている。
***
『たー君、大丈夫? たー君。』
彼の周りをおろおろふよふよと、五弦は忙しなくうろつく。心配そうに眉尻を下げて、笑顔を見せることがほとんどなくなった。
汐白に『おはよう。』とかけてくれる声も沈んでいる。
授業中、汐白はノートの上端にペンを走らせた。指先で五弦を呼ぶ。気がついた彼女は、身を屈めてノートをのぞき込んだ。
――調子が悪いなら、鷲尾はなぜ休まないの?
五弦が隆彦を振り返る。答えて良いものかどうか、悩んでいるようだ。やがて口を開く。
『分かんない。あんまり具合が悪いから、おばさんが……たー君のお母さんが病院行こうって言ってるんだけど、嫌がってて。このままが良いんだって。もうあそこには行きたくないって。たー君、昔から病院嫌いだから……。』
五弦の目にじわりと涙が浮かぶ。
『たー君、大丈夫だよね? 元気になるよね?』
五弦だって、汐白に先のことが分からないことくらい知っている。彼女が欲しいのは安心だ。心を支える言葉だ。
一言、大丈夫だよと言ってあげるだけで良い。
それなのに、ある疑念と不安が汐白の舌を鈍くして、言葉が継げなかった。
***
隆彦がふらっと立ち上がる。ノートに教科書にペンケースを重ねて胸に抱く。紺色のペンケースはすっかり角がはげてしまっていて、白い地が見えていた。
席が近いクラスメイトが一人二人声をかけるが、彼は応えず教室を出て行く。何かあったら助けになろうと、汐白は彼の後ろについた。
リノリウムの床にぱさっと何か落ちた。それはプリントだった。ちらと読み取れる記号から化学の授業のものだと分かる。貼り付けずにノートに挟んだままにしていたものが、滑り落ちたのだ。
汐白はプリントを拾い上げた。隆彦は気がついていない。ふわっと髪が揺れて、五弦がこちらを振り返った。
鷲尾、と呼ぶはずだった。
彼のものなのだから、彼に用事があった。
声には出していなかったが、その背にそう呼びかけるのが習慣づいていたせいか。それとも、まあるい目と目が合ったせいか。
飛び出したのは違う名前だった。
「綾織。」
隆彦が勢いよくこちらを振り返った。
五弦が隆彦を呼んだ時ですら、ここまで素早く応えたことはないのではないか。今まで誰が呼んでも、良くて視線を寄越すくらいだったのに。
青白い顔の中から、暗い瞳がこちらをにらんでくる。
「今、何て言ったの?」
声は、その瞳の闇からはい出てくるような重さを持っていた。
「いや、あの、」
「今、誰を呼んだの?」
最近の容態を感じさせず、隆彦の背筋はしゃんと伸びていた。スタスタと距離を詰めてくる。右腕に抱えていたものをバサッと放り出した。その手が勢いのまま汐白の胸ぐらをつかんだ。
「イツルは……っ、」
『たー君! ダメだよ!』
五弦が隆彦に飛びついた。肩にすがりつく。
途端に、彼の指先から力が抜けた。右手が、汐白のシャツを滑り落ちる。ふっと目蓋が落ちる。体が横に傾いで、ばたんっと廊下に倒れた。
『たー君!? たー君っ!!』
悲鳴のような声が響く。汐白は慄いているクラスメイトへ向けて、先生を呼ぶよう叫んだ。しゃがんで青白い顔をのぞき込む。
もう、だめだと思った。これは決定的だ。
汐白はぎゅっと目をつぶった。
***
ホームルームが終わると、汐白は真っ直ぐ保健室に向かった。隆彦が教室に戻って来なかったので、もう帰ったのかと危惧していたが、彼はまだ眠っていた。
白いベッドに横たわっている、その顔色は作り物めいて青白く、生きているのが不思議なほどだった。目の下のくまが彼を亡霊のように見せる。
五弦は、その隣で彼の左手を握っていた。実体を持たない彼女の手は、それを持ち上げることが出来ないから、シーツの上に投げ出された手に、両手を重ねていると言った方が正しい。
突然開いたカーテンに驚いた様子だったが、汐白の姿を認めて、大きな目が涙を零した。
『渡里くん……っ。たー君が、たー君が……っ。』
汐白はぐっと唇をかみ締めた。
どうして、このままでいられないのだろう。
どうして、こんなことになったのだろう。
ぬれた瞳と視線を合わせる。意を決して、汐白は口を開いた。
「綾織。君は、鷲尾から離れないといけません。」
『え?』
不安そうに眉を寄せたまま、五弦は聞き返した。困惑を深めて、瞳が揺れる。
『どうして?』
「分かっていますよね。貴方はもう、僕達とは、鷲尾とは違うんです。」
見えないこと、話せないこと、彼女はそれらをもう受け入れている。自分の現状も、ある程度理解しているはずだ。でなければ、もっとパニックを起こしているだろう。
「死者と生者は、一緒にいられない。」
汐白は幽霊が見えるが、取り憑かれたことはないし、取り憑かれた人を見たことも今までなかった。死者と生者がずっと一緒にいてどんな影響が出るか、明確なことは分からない。
しかし、汐白は幽霊に触れられると寒気がする。頭がグルグルして気持ち悪くなる。隆彦も、五弦が触れた途端に気を失ったのだ。偶然だとは思えない。
「今すぐはきっと離れられないでしょう。せめて、鷲尾に触れてはいけません。」
五弦の目が揺れる。グラスに水を注ぐみたいに、涙で満ちていく。五弦はきゅうっと胸元へ自身の手を引き寄せた。
『私の、せいなの? 私のせいで、たー君、苦しいの? どうしたらいいの?』
汐白はしゃがんで五弦の顔をのぞき込んだ。
「ねえ、綾織。貴方は何か未練があるんじゃないんですか?」
今まで見た透明な人は、よく負の感情をまとわせていた。帰りたいと泣いていた。なくしたものを探していた。恨み言をこぼしていた。
不思議そうに辺りを見ていたり、ぼんやりと立っていたりする者は、自分がどうなったのか理解していない迷子だ。
意識のある者はみんな、嘆きを重ねていた。留まっているというのは、それだけの未練があるということなのだろう。
五弦の姿は生前と変わらない。教室で沙夜と話していた時の彼女のままだ。それでも、ここにいるからには、彼女を縫い止める何かが現世にあるはずだ。
それさえ、なくなれば。
「したいことがあるなら、俺も手伝います。だから、教えて下さい。」
『……そんなの、分からないよ。気がついたら、たー君と一緒にいたんだもん。』
五弦は隆彦を振り返った。眠っている顔に視線を落とす。
『こうやって、傍にいるってことは、たー君が心配なのかな。うん、きっと、たー君が元気になったら、私は安心出来るんだと思う。』
涙が、白いほほを伝って零れていく。
『でも、私のせいなんだよね……?』
それらは、床へは落ちず、きらきら光って空中で霧散する。後から後から、きらきらと。
『私、なんでここにいるの? なんで、そのまま、消えちゃわなかったの? わたし……どうしたらいいの?』
汐白はこたえられない。
彼女を救う答えも、かけてあげられる言葉も、何も持っていなかった。
***
次の日、汐白の前の席は空席だった。隆彦が学校を休んだためだ。さらに次の日も、彼は来なかった。
また入院してしまうのだろうか。
五弦は大丈夫だろうか。彼女のままでいられているだろうか。
昼休み、トイレから戻ってくると、教室の前に沙夜が立っていた。廊下の窓からじっと中をうかがっている。中に入ろうと横を通るとこちらに気がついた。
「……鷲尾、今日いないの?」
「はい。昨日から。何か用事ですか?」
「ううん、違うんだけど、でも……、」
沙夜はふいっと視線を外した。うつむいて、ぎゅうっと自身のカーディガンの裾を握る。
「五弦が、泣いてる気がして。」
ぐっと顔をしかめて、かぶりを振った。
「ごめん。また変なこと言った。」
「いえ。……あのっ。」
沙夜がきびすを返す。数歩進んだその背を汐白は呼び止めた。沙夜が振り返る。
「ペンケースって、どうなりました?」
「……五弦が作ってた?」
「はい。作りかけなら、綾織が持っていたんですよね?」
「ううん。アタシが持ってる。」
「え、本当ですか?」
沙夜の背を見て、一瞬考えたこと、それを実現するワンステップが省かれたことに、思わず声をあげてしまった。妙なところに食いつかれて、沙夜は不思議そうにする。
「うん。アタシの部屋で教えながら作ってたし。鷲尾が結構遠慮なく五弦の部屋入るから、内緒にするためって、アタシが預かってた。」
「じゃあ、それ、竹原が完成させることは出来ますか?」
ぱちりと目を瞬かせて、沙夜が固まった。
五弦がこの世に留まるのはなぜだろう。
本人にも分からない、彼女の未練とは何だろう。
たった16歳の女子高生。父母に愛された一人娘。親友と笑い合っていた少女。
来るはずの明日へ、積み重ねた希望はきっと沢山あって。隣にいた人へ、伝えたかった言葉もきっと沢山あった。
だけれどもう、彼女の手は何もつかめないし、声も想う人へ届かない。
彼女の心残りを、本来の手順で晴らす方法はない。
ただせめて、
「切っ掛けが、欲しいんです。綾織が頑張っていたこと、したかったこと、ちゃんと形にしたら、貴方も鷲尾も前を向けるかも知れません。一回でだめなら、もう一回。一つずつ順に、なぞっていけばきっと。」
直ぐには顔が上げられなくたって、みんなが、彼が前を向く準備を始めれば、五弦も安心出来るかも知れない。
沙夜は苦しそうにぎゅうっと唇を引き結んだ。しばらくして、こくんっとうなずいた。
***
次の日も、隆彦は欠席した。
放課後に沙夜がまた教室にやって来た。例のペンケースを持って来たという。
一人で作業していると辛くなるから、もし予定がなければ隣にいて欲しい、そう頼まれた。
汐白は自分の席に、沙夜は隆彦の席に座って、窓を背に並んだ。沙夜は二人の間にある汐白の机に、ソーイングセットと材料を広げた。
布はファスナーと合わせて筒状になっていた。本体部分は無地の紺と水色が2対1の割合で継ぎ合わされている。紺の部分には水色で”Takahiko.W”とゆるく尻上がりに刺繍してあった。本当は本体と平行に書きたかったのだろうが、曲がってしまったようだ。
沙夜は筒の裏表をひっくり返した。裏地のライトグレーが露わになる。筒の底に丸く切った布を当てて縫い始める。すいすいと針はよどみなく泳いでいく。
「ありがとう、渡里。」
ぼうっと眺めていると沙夜が口を開いた。汐白は相手の手元から視線を上げた。沙夜は顔を伏せたままだ。
「これさ、どうしたら良いか分からなかった。五弦のお母さんに渡した方が良いのかなとか。鷲尾に渡した方が良いのかなとか。でも、あいつ入院してて、その間に誕生日過ぎちゃうし。ならもう、このままアタシが持ってても良いのかなって。このまま、五弦が作ってるまんまで、ずっと、そのまま。」
ぴたりと針が止まる。その手が震えていた。
「全部、夢にしちゃいたかった。朝起きて、学校行ったら、教室にさ普通に五弦がいて、今日も教えてねとか言って、またアタシの部屋でこれを縫い始めるの。」
布を押さえていた左手の指に針を任せると、沙夜はぎゅっと右手を握りしめた。
「……そんなの、ダメでしょ。アタシがいつまでも夢の中フラフラしてたら、五弦がきっと心配しちゃう。」
ふっと息をついて、再び針を取って縫い始める。
「だからさ、これ良いと思う。無理やり進めちゃうの。まだ、大丈夫とは言えないんだけどさ。でも、五弦を悲しませるの嫌だから、アタシ、頑張りたいと思う。」
沙夜は顔を上げて汐白を振り返った。口角を上げる。
それはまだ笑みを忘れてぎこちなかった。それでもいつかまた、誰かと笑い合える日が来るだろう。目元の腫れが引く日が来るだろう。
ペンケースの完成が、五弦の未練を晴らせるかどうかは分からない。けれど、きっと効果はある。少なくとも、沙夜が顔を上げられるようになれば、五弦の心も少しは軽くなるだろう。
これで、隆彦にも何か影響を与えられれば、なおきっと。
***
「まあ、沙夜ちゃん、久しぶり。よく来てくれたわね。あら、その子は?」
出迎えた女性は、やつれた顔に笑みを浮かべた。汐白の方を向いて不思議そうな顔をする。
「えっと、隆彦君と同じのクラスの渡里です。プリントを届けに来ました。」
カバンから取り出して、クリアファイルごと見せる。
「ありがとう。”わたり”ってことは、あの子と席も近いのかしら。」
「はい。同じ班です。」
「まあ、来てくれてうれしいわ。あの子、おしゃべりがあまり得意じゃないでしょう? 仲良しの子がずっと五弦ちゃんしかいなくって。沙夜ちゃんも来てくれたけど、ねえ、男の子の友達いないのかしらって、ちょっと心配してたの。仲良くしてくれるとうれしいわ。」
女性は汐白の方を見ていて気がついていないが、沙夜は複雑そうに唇をゆがめていた。あくまで沙夜と隆彦の関係は間に五弦を挟んだものであって、本人的には友人のつもりはないのかも知れない。
沙夜は表情を整えて、口を開いた。
「鷲尾のおばさん、鷲尾の具合は?」
「今日は調子が良いみたい。上がっていくわよね?」
「はい。鷲尾にもう一つ渡したい物があって、会えるなら会いたいです。」
「良かった。さ、上がって。貴方も。」
スリッパを二足出し、二人をリビングへ通しながら、女性がはっと何か思い出した。遠慮気味に沙夜に声をかける。
「あの、沙夜ちゃん。」
「はい?」
「熱冷ましをね、切らしちゃってね。今は大丈夫だけど、あった方が安心でしょ? でも、今日、あの人帰ってくるの遅いから、えぇっと……。」
買いに行きたいけれど、今の状態の我が子を一人にしたくない。しかし、ごく親しい相手とはいえ、客人に留守を任せて良いのか決めかねているらしい。
沙夜がうなずいた。
「大丈夫です。行って来て下さい。」
「ほんと? 助かるわ。」
女性はほっと息をついた。テーブルに着いた二人へ、グラスでお茶を供すると「呼んでくるわね。」と廊下へ出て行った。バタバタと遠ざかる足音が、階段を上がるものに変わる。
お茶を一口飲んでいる間に、隆彦がやって来た。半袖とはいえ、黒いシャツに黒いズボンという姿は暑苦しさを感じる。
五弦は家の中でも彼の後ろにいた。隆彦が部屋に入って直ぐの席に腰を下ろしたためか、彼女はドアの横に立ったままだ。汐白と目が合って、小さく頭を下げる。その顔はどんよりと曇っていた。
三人に声をかけて、女性が出掛けて行く。沙夜が口を開いた。
「久しぶりね、鷲尾。」
「何の用?」
あいさつの言葉が、低い声でバサリと切り捨てられる。沙夜はぐっと眉を寄せた。隆彦はちらりと視線で汐白を示した。
「そいつも、何でここにいるの。」
「おばさんってホントにアンタに甘いわよね。おしゃべりが得意じゃないとか、そういうレベルじゃないわよ。」
ピリッと空気が張り詰める。五弦がおろおろと二人を見比べる。
『たー君。さっちゃん。』
なだめるような声はもちろん二人に届かない。
「世間話がしたいだけなら、他を当たって。」
「いえいえ、ちゃんと用事があるんですよ。」
隆彦が立ち上がろうとしたので、汐白は慌てて引き留めた。視線をやると、沙夜はうなずいて、膝に抱えていた手提げを開いた。
中から細長い包みが出てくる。黒い地に白い星が散った包装紙にくるまれ、水色のリボン飾りがついていた。テーブルに置いて、ずいっと隆彦へ押し出す。
「はいこれ。」
「……何?」
「プレゼント。五弦から。」
『え?』
五弦が目を瞬かせる。ドアから離れて隆彦の傍らまで来た。そぉっとテーブル上をのぞき込む。
隆彦は動かず、じっと包みをにらみつけていた。
「ほら、中身も見なさいよ。」
沙夜がしびれを切らして自ら包みを開けた。紺と水色のペンケースが転がり出るのを見て、五弦が声をあげる。
『あ! さっちゃん、作ってくれたの……?』
まあるい目を潤ませて、両手をぎゅっと握り込む。
ペンケースは、色の継ぎ目も、ファスナーの縫い目もガタガタしているのに対し、円柱の両端は奇麗に丸くなっていた。
『ありがとう、さっちゃん。』
五弦がほほ笑んだ。幽霊がおかしいかも知れないが、ほほの赤みも戻っている。
汐白はほっとした。ただの思いつきではあったが、最後のプレゼントを渡せなかったことを五弦は気に病んでいたのかも知れない。
このまま成仏してくれないだろうか。
汐白が五弦を、沙夜が隆彦を見守る中、二人はペンケースを見つめていた。にこにこと。だんまりと。
隆彦の眉がぐっと寄った。彼は右手を横に一振りした。ぱすっと軽い音がして、テーブルの上の物が払われた。ぽすんっと床に落ちる。
「今更、要らない。」
隆彦が席を立つ。ペンケースが乗っていたはずの場所を見下ろして、ぼう然としていた沙夜がはっと我に返った。わなわなと細い肩が震える。
自分もショックを受けただろうに、五弦が友人を振り返る。
『さっちゃ、』
「いい加減にしてよ!」
机をたたいて沙夜が立ち上がった。泣き叫ぶような声が鋭く響く。
「自分が一番不幸みたいな顔しやがって! 五弦を失ったのはアンタだけじゃないのよ!」
ぼろぼろとこぼれ落ちる涙を拭いもせず、ぬれた瞳で隆彦をにらみつける。それを受ける隆彦の瞳は相変わらず暗い。見つめ返しているはずの沙夜の姿が、映っているかどうかも怪しい。
「……失ってない。」
ぽつりと声が落とされる。
「僕は、あの子を失ってなんかいない。」
「……何、言ってるの?」
少しの間、沙夜の顔から色が抜けた。手がブルブルと震え、直ぐにカッと激情が戻る。
「アタシだって五弦を失いたくなんかない! だから前を向かないといけないのに! どうしてアンタが邪魔するのよ! どうして五弦を蔑ろにするのよ!」
沙夜は転がっていたペンケースを拾った。両手で胸元に抱き込む。
「もう知らないから! これはアンタ何かに渡さないから! 五弦の最後の気持ちを! アンタ何かにはっ!」
怒りと嘆きを押し固めるように声でたたきつけて、部屋を飛び出して行く。
汐白も思わず立ち上がった。
『さっちゃん!』
五弦は追いかけたが、廊下に一歩も出られずに、つんのめるように停止した。どうあっても進めないと分かり、悲しそうに肩を落とす。
バタンッと玄関扉が閉まる音が虚しく響いた。
『たー君……。』
その呼びかけに、隆彦は無論応えない。
五弦は目を伏せて、くいくいと自身の髪を引いた。その仕草に、いつかの保健室で髪を押さえていた姿が思い出される。
「……綾織、髪どうかしたんですか。」
五弦がぱっと顔を上げた。おろおろと隆彦を見やる。隆彦は険しい顔で汐白をにらんでいる。
『あの、渡里くん、たー君が、』
「髪、痛いんですか?」
『ううん。ただ何か引きつる感じがするだけで。渡里くん、何か、』
「さっさと帰れ。」
今度は隆彦が机をたたく。汐白は振り下ろされた右手を見て、それから体横にぶら下がる左手に視線を移した。今も固く握られている。
「聞こえてないの? 君もささっと、」
「鷲尾が、綾織を捕まえているんですか?」
隆彦が目を見開く。ギリリッと奥歯をかみ締める。
「その左手、自分の意思で結んでいるんですね。」
こちらをにらむ目、その色は底が見えぬほど暗い。
「綾織に心当たりがないはずだ。」
「うるさい。」
「綾織が君に取り憑いているんじゃなかった。」
「うるさい。」
「君が、綾織を連れ帰って来たんです。」
「うるさいって言ってるだろ!」
テーブルが大きく揺れる。グラスが倒れて、琥珀色の液体が広がる。
隆彦が汐白につかみかかった。細くなった右手に強い力と憎悪が込められていた。
「縫い付けられたくなきゃ、もうその口は開くな。」
「綾織は、」
「お前があの子の名前を口にするんじゃない!」
ブルブルと腕が震えるのは、込められる思いに反して、それを維持出来る力が彼の体に残っていないからだ。
「何なんだお前は。何が見えてるんだ。何で見えてるんだっ。」
『たー君っ、たー君やめて……っ。』
青ざめた五弦が必死に彼を呼ぶ。彼は応えない。
いることは知っていても、声は聞こえていないからだ。
汐白はぐっと眉間に力を込めた。目の前の闇色に挑む。
「もう放してあげて下さい。分かっているでしょう? 自分の不調の原因も。」
「どうだって良いよ。そんなの。」
「彼女が君を心配しています。」
「させておけば良い。」
「このままじゃ、君は……っ。彼女はひどく苦しむことになるっ。」
隆彦は唇をゆがめた。
「苦しめば良いよ。あんな薄情な子なんて。」
――今までありがとう。
ぱちりと瞬いて、涙の膜がはがれる。
その先に見えたあの子は、今までで一番幸せそうな顔をしていた。
まるで、宝物でも見せてくれるみたいに。
ずっと、自分のものだと思っていた。
その表情で、声で、仕草で、全部明け渡されてきた。
幸せも、喜びも、涙も。
綾織五弦はいつも、隆彦の手の中にあった。
傍にいる理由も、傍に置く理由も、考えなかった。
手を振り払われた時。突き放された、その時。
恋しさが胸を突いた。そこにずっと隠れていた愛しさを粉々に打ち砕いて。
「好きだったって何? 一人だけすっきりした顔しちゃってさ。そんなの、認められる訳ないだろう? どうして、今更この手が放せるのさ? 好きだった? だった?」
ひっと引きつった呼吸音。
「……僕は今でも好きなのに?」
汐白をつかんでいた手が離れる。よろりとふらついて、隆彦はテーブルを支えに座り込んだ。
『たー君。』
その隣に五弦が膝をつく。被さるように、ぎゅっと彼を抱きしめた。汐白は慌てるが引きはがす術はない。
彼女の目からほろほろと涙が零れる。
『ごめん。ごめんね。』
「あの子、バカなんだよ。いつもは後ろにいるくせに、ああいう時だけ前に出て。」
『うん。ごめんね。』
「いつもボンヤリしてるくせに。普段もっとしっかりするべきなのに。」
『うん。いつもありがとう。』
「バカなんだ。跳ねてるだけのカエル何かが怖いくせに。」
『ごめんね。』
零れていく涙は、きらきらと宙に散っていく。
『私、お別れだから、お別れだったから、言わなきゃって、言いたいって、でも、私はおしまいだから、おしまいに、しなきゃいけなかったから、だから、ごめんね……。』
きゅっと腕に力がこもる。五弦はほほを寄せた。つぶった目から、またぽろりと一粒零れる。
『大好きだよ、たー君。」
「……っ。」
涙が零れた。はたはたと、床に落ちる。
体の両側に垂れ下がるだけだった隆彦の両腕が動いた。左に体を捻るようにして、正面から五弦をかき抱いた。
柔らかい髪を巻き込んで、透ける背中をつかむのを、汐白は確かに見た。
五弦も目を丸くしている。
『たー君?』
背をなでようとした手がひどく薄い。すぅーっと指先から空気に溶けるように消えていく。丸くなったままの目でそれを見つめる。ぱちり、ともう一度瞬きすると、緩めた。
五弦がほほ笑む。隆彦の左肩にそっと触れた。
『たー君、ありがとう。』
日だまりのようなその笑顔が、その声が、白く散った。
彼女が零していた涙と同じ様に、綾織五弦は光の粒になって消えた。
***
隆彦はまたしばらく学校を休んだ。高熱が長引いて再び入院していたと聞いた。
夏休みの間にすっかり良くなったらしく、二学期の今は他の生徒と何ら変わらずに登校している。
あの日以来、汐白は一度も隆彦と口を利いていない。彼が汐白を避けているからだ。
休み明けの席替えで席も離れたため、元々親しくなかったことも手伝って、クラスメイトだと思えないほど顔を合わせない。
沙夜とは、廊下ですれ違うとお互い声をかける。
ある日の昼休み、他愛ない話が途切れると、向かい合っていた沙夜が顔をうつむかせた。
「鷲尾、どう? 元気?」
「さあ。調子は悪くなさそうですよ。」
答えてから、汐白は先程見た、彼の机の上の様子を思い出した。ぼうっと頰づえをつく、彼のその肘の側にあった、紺と水色の筒。
「あのペンケース。ちゃんと使ってましたよ。」
沙夜が顔を上げる。
「そう……。」
沙夜はほほ笑んで、それからきゅっと唇を引き結んだ。そそっと汐白の隣に回る。
「ありがとう、渡里。」
小さなささやきに、汐白はきょとんとする。
一体何の礼だろうか。隆彦の近況報告のことではあるまい。
「何のことですか?」
沙夜は難しい顔をして、首を傾けた。
「……笑わない?」
「はい。」
「鷲尾にさ、アレもっかい渡しに行った日さ。夢にね、五弦が出てきたの。」
「はい?」
「ちょっと。」
「笑ってませんよ。」
沙夜はむっと眉をひそめていた。驚いただけで、本当に笑っていないのに。
「私にね、会いに来てくれたの。それで、ぎゅうってして、しばらく話し込んでたんだけど、五弦が悲しそうな顔するのよ。どうしたのって聞いたら、渡里に世話になったのに、お礼言うの忘れて帰っちゃったって。」
沙夜はぐっと背筋を伸ばすと、またほほ笑んだ。
「遅くなっちゃったけど、さっきのは五弦の伝言。」
沙夜はくるりときびすを返した。丁度、教室から顔をのぞかせた女子が沙夜を呼んだ。それに応えて駆けて行く。
汐白は窓に寄りかかるようにして、空を見上げた。
彼女はあの向こうにいるのだろうか。
どんなに目を凝らしても、縁の薄い自分にはもう見えないのだろうか。
「……さようなら、綾織。」
つぶやきを運ぶように、ごうっと風が吹いた。
END