雨が嫌いだった。特に、夜の雨は。
でも、今は待ち遠しくなるほど焦がれている。彼に会える日だからだ。
初めて自分のこの体質を知ったのはいつだったか。小学校の低学年だった気もするし、まだ幼稚園児だった気もする。
見える日もある。見えない日もある。その違いはなんだろうと、幼い私は幼い頭でそれでも懸命に考え、何度かその体験を重ねるうち、ある共通点に気づいた。
見えるのは、雨の日だけということだ。
「こんにちは。ユウ」
お気に入りの赤い傘は、彼と出会ってから買ったものだ。縁が薄いピンクのフリルになっている。雨傘としても日傘としても使える、どちらかというと日傘として使う人のほうが多そうな可愛らしい傘だ。
私は、彼と会うときしかこの傘を使わない。彼と会う日は私にとって特別な日で、だから特別な傘を使いたいという、理由はそれのみだ。
大きな声をかけたわけではない。雨の音に紛れ、彼には私の声など届かなかったのではと、微かな不安を覚える。けれどそんな私の内心とは裏腹に、彼は静かに顔を上げた。いや、正確には微かに動いた。
『うん。待ってたよ、カナオ』
雨の日限定のやり取りが、また始まる。
胸が高鳴る。ユウの声はくぐもっている上に、私が知る他の男性――父親とか学校の先生とか、そんな比較対象しかいないが――に比べても低い部類に入る。よく耳を傾けなければ聞き取れないことも多い。
だから私は、ユウと会うときには彼のすぐ傍に歩み寄る。
学校帰り、雨の午後。時刻は午後四時の少し前。
こんな雨の日に、ちっぽけなこの児童公園で遊ぶ子供など、ただのひとりも見当たらない。もちろん、公園の奥側にひっそりと佇むこの東屋にも。
今この場にいるのは、私とユウのふたりだけだ。
幽霊のユウ。私がつけた彼のあだ名だ。初めて会ったとき、彼は自分の名前さえ思い出せないと言った。だから私がつけた。
我ながら、適当にもほどがある提案をしてしまった。もっと真面目に考えれば良かったと思うけれど、本人が気に入ったようで、訂正はもう利きそうにない。
『濡れるぞ。早く中に入れ』
「うん。ありがと」
東屋の古びたベンチに、白い塊がひとつ。彼が腰かけていると分かるのは――いや、彼が見えているのは、きっとこの世で私だけだ。
公園に足を踏み入れたときと同様に、周りに誰かいないか念入りに確認してから、私は傘を畳んでユウの隣に腰を下ろした。
座ってから気づいたが、制服の肩の部分が少し濡れていた。多分、途中から走ってきたからだ。ユウに触れてしまわないよう、私はそっと自分の肩を払った。そんなふうにしなくても、幽霊であるユウが濡れることはないと、頭では分かっている。それでも気は引ける。
少し前まで、ユウは、座っているとただの白い塊にしか見えなかった。それが、今ではだいぶ人に近い形に見えるようになった。間違いなく、ユウは人の幽霊だ。
ユウがどこから来たのか、いつからここにいるのか、どうしてこの公園に留まっているのか、私は詳細をなにひとつ知らない。
……いや、知らなくていい。ユウ本人が自分自身についてなにも覚えていない以上、確認のしようがない。
例えば、顔を見れば手がかりが得られるのではと思う。
でも、それも無理な話だ。
『カナオ。前に会ったときと変わっていることがあれば、教えてほしい』
白い塊が、私に向き直った……のだと思う。
そうと断言できないのは、ユウには顔がないからだ。顔だけではない。ユウは人の形をしているけれど、基本的にはなにもかもが朧げな、そういう幽霊だ。
初めは怖いと思った。逃げようともした。でも。
『変わっていることがあれば、教えてほしい』
いつもと同じく、くぐもった声で話す彼の言葉を、頭の中で繰り返す。
ユウには生前の記憶が残っていない。そもそも、果たして「生前の」という言い表し方を本当にしてもいいのか、今日も私はためらいを拭いきれずにいる。
彼の今の言葉は、自分自身の記憶を碌に残していない彼が、私を通してそれを取り戻そうとしていることを意味している。私は彼に協力している。彼がきちんと自分の記憶を取り戻し、今の状態から本来あるべき姿に戻れるように。本来あるべき場所へ、向かえるように。
ずきりと、胸の奥が痛んだ。
私はユウが好きだ。学校帰り、雨の中を、傘を片手に走ってこの場を訪れてしまうほど。雨の日が待ち遠しすぎて、眠れない夜があるほど。
「うん。顔、見せて」
白い塊の、頭らしき部分を覗き込む。
のっぺらぼうの白い塊がふふ、と静かに笑った声が聞こえ、私も、彼の目があるだろう辺りを見つめながら微笑み返した。
雨は嫌いだ。特に、夜の雨は。
日はすでに暮れ、辺りはしんとした夜闇に浸かっている。不規則な点滅を繰り返す不気味な街灯は、足元の安全を保証してくれるとまでは言いがたい。
「……はぁ」
やってしまった。
歩きながら、私――楠本 叶生は、片手で頭を押さえた。
今夜から天候が下り坂になるという情報は、朝の天気予報であらかじめ仕入れていた。それなのに、放課後、クラスメイトのひとりと口論になってしまった。
きっかけは些細だった。私がさっさと折れれば良かっただけだ。つい言い返して、結局、売り言葉に買い言葉――たまたま教室の前を通りがかった教師に見つかり、説教を受けている間に、気づけばすっかり日が暮れていた。
二年に進級したばかりで、進路について考える気にもまだなれない。基本的に争いごとを好まず、のんびりと日々を過ごしている。私はそういうタイプの人間だ。
でも、今日の喧嘩だけはどうしても折れたくなかった。
口喧嘩に発展した相手も、固唾を呑んで見守っていた数人のクラスメイトも、もしかしたら「らしくない」と思ったかもしれない。教室で友達と言い争うなんて、私だって自分で自分らしくないと思う。
折れるべきだった。雨が降ることと夜になること、そのふたつにこうして苛まれる事態に陥るよりなら、そちらのほうが遥かにましだった。
はぁ、と溜息が零れる。足を進める途中からぽつぽつと道を濡らし始めた雨に……というよりは、こうなると知っていてこんな時刻まで時間を使ってしまった自分自身にこそ舌打ちしながら、私は急ぎ足で帰路を進む。
大通りの交差点を過ぎて右に曲がった辺りから、街路は急に細くなる。この道は好きではない。途中に小さな祠があり、そこからさらに数十メートルほど進んだところに、今度は児童公園が現れる。
まずは祠が第一難関だ。小柄な地蔵が三体並ぶその奥、安置された社の方向にはできるだけ視線を向けない。そうしてそそくさと通り過ぎた先に待ち構えている次の難関が、児童公園だ。
「……う……」
嫌だな。その内心が、細い呻きになって漏れた。
閑静な住宅街のど真ん中にある、自宅から一番近い公園だ。幼稚園に通っていた頃は親と、小学生になってからは友達と、よく遊んだものだ。
小さな公園で、遊具は錆び気味の鉄棒とブランコ、それから中央に滑り台が設置されている程度だ。とはいえ、道路から伸びる遊歩道――と呼べるほど大袈裟なものでもないけれど――の先には、こぢんまりとながらも東屋まで建っている。
こんなに詳しく知っている場所なのに、雨の日はどうにもいけない。私が危惧しているような事態に巻き込まれる場所は、なにもこの公園だけではない。しかし、最も頻度が高いのはここだ。
遠目に覗く東屋の奥側で、木々が雨風に晒され、ざわざわと音を立てる。
嫌な感じだ。雨が降っていなければ、せめて夜でなければ……そんなことばかり考えては、次第に不安が膨らみ始めてしまう。
どうか、なにごともありませんように。
外出せざるを得なかった雨の夜は、過去にも何度かあった。そのたびに必ず遭遇するわけでは決してなかった。それに、襲われたり追いかけられたりしたことも、一度だってない。だから今日も大丈夫だ。
そう思いつつも、雨に濡れても構わないとばかり、足は勝手に急ぎ気味になる。
ぽつぽつ、ぽつぽつ。安物のビニール傘を打つ雨粒の音が、妙に耳に残る。街の名前が冠された公園名の書かれた看板、その前を通り過ぎ、私ははぁと息をついた。
大丈夫。なにもない。そう自分に言い聞かせながら、公園の出入り口側に意図的に傾けていた傘をまっすぐ持ち直した私は、そのまま派手に息を呑んだ。
顔を動かさず、目線のみを強引に上向ける。なんの変哲もない電柱の根本の部分に……ああ、駄目だ。
――やっぱり、出た。
これだから雨は嫌いなのだ。特に、夜の雨は。
雨が降る日、私はこの世のものではないものを――はっきり言えば「幽霊」を見てしまうことがある。ちなみに夜が嫌いな理由は、恐怖が倍増するからという至極単純なものでしかない。
震える足を強引に動かす。あの電柱の横を、平然と、あるいはそう見えるように通り過ぎなければならない。
白い塊は、ときおりもぞもぞと動いている。電柱の根本に確かに覗くそれを、広げた傘で遮るわけにもいかない。それでは見えていると相手に伝わってしまう。不審に思われそうな素振りは絶対に避けたかった。
冷静に、冷静に。あの電柱を過ぎれば、すぐに曲がり角だ。そこを右に曲がるまでの辛抱だ。
だいたい、あんな白いだけのただの塊――背中を丸めた人のように見えなくもないが――に、なにかできるとは思えない。余計なことを考えず、さっさと横を素通りしてしまえばいいだけだ。
ぽつぽつ、ぽつぽつ。雨の強さは変わらないのに、さっきより音が大きく聞こえる。
足を止めたら終わり、視線を向けても終わり。自然に歩くことにこんなにも神経を割いたのは生まれて初めてかもしれない、と的外れな思考が頭を過ぎる。
そして、電柱と塊の真横を通り過ぎようとした、そのときだった。
『……あの』
ひ、と思わず声が出かけたところを必死に堪えた。しかし、震える喉ばかりに気を懸けた結果、足が露骨に止まってしまった。
くぐもっていて聞き取りにくかったけれど、人のものらしき低い呼びかけだ。それは確実に電柱の下から、というか例の塊のほうから聞こえてきた。
返事をする気には到底なれなかった。
なりふり構っていられないと、私は濡れた地面を強く蹴り上げる。その途端、急な勢いについてこられなかった足が派手にもつれた。
「い、ぐ……ッ!?」
……ぐしゃ、と物が潰れるみたいな汚い音がした。次いで、しびれるような痛みが鼻の頭を走る。
一拍遅れ、雨に濡れた道路に頭から突っ込む形で転んだのだと悟った。
濡れた感触と、傍に落ちた傘をぽつぽつとなおも打ち続ける雨の音が、こんな道端で転んだショックと混乱をさらに掻き立てる。
『あっ……だ、大丈夫ですか』
引き気味の低い声が、さんざんな目に遭った私の神経を逆撫でする。
制服がビシャビシャだ。朝に念入りにひだの乱れをチェックしたスカートは、無残にも雨と泥で汚れきっている。うう、と唸るような声が出た。
『聞こえるんですね。声』
立ち上がってすぐに再び声をかけられ、今度こそ固まった。
例えば今「聞こえない」と答えたら、それは聞こえていると言っているに等しい。だからといってこのまま帰宅するには、今の転倒はつらすぎた。この声の主に一部始終を見られているという事実が、ますます私を居た堪れなくする。
う、とまたも呻きが零れる。すると、伏せた視線の先に、前触れなく白い影がすっと入り込んできた。
「っ、ひッ……」
今は夜分で、近くには住宅街がある。そのことがかろうじて頭の片隅に残ってくれていたから、声量だけはなんとか抑えられた。
私の掠れた悲鳴を聞いてか、白い影はさっと視界から引いていく。見なければ良かったのに、そのさまを、私はわざわざ目で追ってしまった。
「……あ」
そこにあったのは、白い塊だった。
先ほど遠目に確認したそれと、特に変わらない。恐ろしい形相が隠れているわけでもなければ、悪霊めいた禍々しさもない……気がする。
細く降り続く雨を気に懸けることも忘れ、拾い直した傘の先をじっと見つめた。転んでびしょ濡れになってしまったから、これ以上濡れるも濡れないもない。
相手を見つめたきり、先端を白い塊に向けて当てる。
手応えはなかった。傘の尖った先端は、白い塊を完全に通過していた。
「う、嘘……」
声が零れ、私は慌てて口元を押さえた。
もぞもぞと身動ぎをした後、白い塊は、白い腕らしきぼんやりとしたなにかで、白い頭らしきぼんやりとしたなにかを押さえていた。
「人……?」
呆然と呟いた。傘の柄を握る指先に力が入る。
左右に柄を振ると、白い塊の方向から、さっきと同じ声が聞こえてきた。
『やめてください。痛くはないけどいい気はしない』
不機嫌そうな声が聞こえ、私ははっと傘の動きを止めた。
「あ……す、すみません」
『いいえ。こんなふうに話しかけられたり傘で突かれたりしたのは初めてだ』
「も、申し訳ない。本当に失礼しました」
傘を差し直しながら、私は慌てて頭を下げた。
人通りのない雨の夜道だ、誰かが見ているとは思えない。けれど、もしこの状況を目撃していた人がいるなら、さぞ薄気味悪く見えるだろうなと思う。
身体を傾けた拍子に、白いそれの顔に相当する部分が見えた。そこに顔らしいパーツはひとつもなかった。形、起伏、輪郭……なにもない。目も口も鼻も、なにも。
絶句した。表情を確認したくても分からない。のっぺらぼうなのだ。白いという、それしか説明のしようがない。
くぐもってこそいるものの、声は人のそれに聞こえる。だが、これは確実に人間ではないなにかだ。明確にそれを突きつけられ、細い雨の中、私は傘の柄を強く握り締める。
白いそれは、そんな私をじっと見つめていたのだと思う。
相手に目があるようには見えない分、確実なことは言えない……でも。
そのときになって、私は雨の勢いが弱まっていると気づいた。傘を差していないのに自分が碌に濡れないということにこそ、先に気づきそうなものなのに。
よく見ると、白い塊は濡れていない。訝しく思ったが、幽霊だからかもしれないとすぐに思い直した。幽霊の常識は分からない。本人に確認を取らない限り、憶測で考えるしかない。だが。
不意に、胸がちくりと痛んだ。
だいぶ暖かい季節になったとはいえ、肌が雨に濡れればやはり冷たい。こんな雨の中で、傘も差せず、電柱の根本にうずくまるしかできずにいる幽霊。その姿は、いくら濡れていないように見えても、衝撃とともに微かな同情心を私に植えつける。
相手が危害を加えてこない確証はなかった。
けれど、転倒の瞬間を目撃されたことや、心配そうに――随分と引いた様子だったが――声をかけてくれたこと、またいくつか交わした言葉のせいで、相手に対する私の警戒心はだいぶ緩んでいた。
「ええと……この公園に、なにか思い出でも?」
胸に走った痛みを堪えようとしたら、口が滑った。
早く帰らなくちゃとあれほど強く思っていたのに、自分の言動が信じられない。
『……分からない。覚えてないから』
「こ、この場所を?」
『いや。なにも』
抑揚のない声だ。事実を並べるだけの、感情がまるまる削げ落ちた声。
沈黙が落ちた。なんと返せばいいのか分からず、私は黙りこくるしかできなくなる。
……どうしよう。そうだ、名前は思い出せるだろうか。
そう思い至ったとき、白い塊の、そもそもぼんやりとした輪郭が余計に霞み始めた。
「っ、え?」
静かに、しかし確実に、白い塊は空気に溶けるように透明になっていく。
驚いた私は、先ほど苦い反応を示されたばかりの「傘で突く」という方法を再び取ってしまう。差した傘を閉じ、塊へ向ける。傘の先はまたもあっさり塊を通過する。さっきは苦言を呈されたが、今度はなにも言われない。そのことを訝しく思ったと同時に、塊は、ついに姿を完全に消してしまった。
その場には、傘の先端で空を切るという謎の行動に出ている私だけが残った。
「……なんなの……」
傘の柄を片手に、呆然と呟く。そのときになって初めて気がついた。
雨は、すでにやんでいた。
呆けた気分で帰路に就いた。
公園から自宅までの道は、小学時代と中学時代、そして現在まで通学路だ。車や自転車などが走らないなら、目を瞑ってでも歩けそうなほどに慣れた道だった。
歩きながら、なんだかすごいことが起きたな、と思う。
ぼんやりと足元を見つめる。一緒に視界に入り込んでくる傘の先端が、得体の知れない幽霊に触れていた――正確には手応えもなにもなかったが――と思うと、いまさらながら冷や汗をかいてしまいそうだ。
自分の名前さえ覚えていないなんて。白い塊と一緒にいたときに感じた胸の痛みが、じりじりと再燃する。
幽霊相手にあそこまで話し込んだのは……いや、あんなに長く顔を突き合わせていたこと自体が初めてだ。いつだって私は、そういうものが目に見えてしまったらすぐに視線を逸らし、なにも見なかったことにして過ごしてきた。
雨の日にはなるべく外出しないよう心がけているものの、通学ばかりはどうにもならない。今日みたいな遭遇は、年に数回、時には数年に一回で済む場合もあったけれど、とにかく私は毎度そうやって切り抜けてきた。ひとりのときも、隣に誰かがいるときも。
傘の先端をじっと見ていると、スカートの裾が視界に入り込んできた。濡れた道路に転倒し、グシャグシャのビショビショに汚れたスカートが。
同時に、したたかに打った鼻が鈍く痛み出す。さまざまなことが一気に起こりすぎて忘れかけていたが、あれほど派手に転んだのだ。腫れているかもしれない。
「……はぁ。どうしよ」
溜息が零れた。肩から下げた通学鞄が、さっきまでより重く感じられる。ジャケットやワイシャツも汚れているが、スカートは一段とひどい。このスカートを見て、母はどう思うだろう。どんな言い訳をしようかと考えると、憂鬱な気分に拍車がかかる。
自宅に到着し、鞄を漁って玄関の鍵を手に取る。それを鍵穴に差し込もうとしたとき、ふと背後から人の足音がした。
はっとして振り返った先、私は露骨に顔をしかめてしまう。
「あ……」
そこにいたのは、幼馴染の藤堂 悠生だった。
一瞬だけ視線がかち合い、思わず声が出た。……まずい。急いで鍵を回し、玄関のドアを開け、家の中に入る。
玄関に立ち竦みながら、私は片手で頭を抱えた。
藤堂家は、三軒隣のご近所さんだ。家と家の距離が近いから、玄関先で会ったら挨拶くらいはしないわけにいかないのに、またやってしまった。
私はハルキが嫌いだ。ハルキも私を嫌っている。端的に言い表すなら、私たちの関係は犬猿の仲だ。
ハルキの視線は、目が合った次の瞬間にはスカートへ向いていた。目を逸らす直前に口を開いていたから、もしかしたらグシャグシャのスカートについて言及する気だったのかもしれない。
玄関の鍵をかける。ガチャンと重々しい音がして、その音こそが、ハルキの視線をぶった切ってくれた気がした。ハルキがわざわざ追いかけてきてまで私に苦言を呈するとは思わないけれど、要は気持ちの問題だ。
ハルキは、「幽霊が見える」という自分の体質について、家族以外で初めて打ち明けた相手だ。
当時小学四年生だったハルキは否定した。ひどい言葉で私の体質を罵った。まるで私そのものを非難せんばかりの勢いで声を荒らげた相手の顔を、今ではもう思い出せない。思い出したくもなかった。
まったく口を利かないタイプの不仲だ。昔からの顔馴染みである親同士も、私たちの関係に余計な口を挟もうとしなくなって久しい。
学区は変えられないから、中学校まではどうしたって顔を合わせなければならなかったけれど、別々の高校に進学してやっと距離を置けるようになった。最近は顔を突き合わせる機会がほとんど消滅していただけに、こんなタイミングで鉢合わせてしまって、なおさら気分が悪い。
再び頭を押さえたそのとき、家の中から足音が聞こえてきた。
玄関が開く音がしたわりに、いつまで経ってもリビングへ現れない娘に痺れを切らしたのか、エプロン姿の母が玄関へ顔を出す。
「おかえり、遅かったじゃない……ってアンタ、なにそのスカート! どうしたの!?」
「あ、ただいま。その、コケた……」
初めは呑気に、言葉の最後には叫びに似た声をあげた母を直視していられず、私は俯いてぼそぼそと報告する。
叱られるかな、と思っていたのに、母は叱責を一切口にしなかった。
早く中に入りなさい、スカートって予備が一枚あったわよね、ありゃまぁアンタ随分派手に転んだこと、怪我はないの、早く着替えてご飯食べちゃいなさい――滝のような勢いで繰り出される母の言葉の数々に、私は相槌を打つ隙さえ逃しそうになりながら、はい、はい、と返すしかできない。
部屋着に着替えてからスマートフォンを確認すると、母から、それも三度も電話がかかってきていた。
時間は、十五分前と十分前、それから八分前。どれも白い塊とやり取りをしていた間だ。まったく気づかなかった。
「ごめん。電話、今気づいた」
「ああ、遅かったから心配してたのよ。まぁ無事で良かったわ、怪我もないみたいだし……あら、鼻打ったの? 赤いけど大丈夫?」
「あ、うん。ちょっと痛いけどそれだけ」
母の心配は、私が転んだことに対して向けられている。そうは思っても、どうにも居心地が悪かった。
母は私の体質を知っている。雨の日で少しでも帰りが遅くなりそうなときは、学校に迎えに来たがる始末だ。変に目立ちたくないから断ってはいるが、思えば今日も朝からピリピリしていた。
間もなく午後七時だ。遅くなったせいで、母には余計な心配をかけてしまった。
実際には幽霊に遭遇したせいでこんな帰宅時間になったわけで、けれどわざわざそんな事情は伝えなくてもいいかなと思う。心配を煽る必要もない。現に私は無事だ。
食事を取り、風呂に入る。
ぬるめの湯船に浸かりつつ、今日、児童公園の前で起きたことをぼうっと思い返す。
彼の姿が急に見えなくなったのは、雨がやんだからだ。
彼――実際には男性か女性かもはっきりしていないが――は、なにも覚えていないと言った。名前は聞けずじまいだったが、あの様子ではそれすらも記憶に残っていなそうだ。かわいそうだな、と私はまた同情を覚える。
夜でなければ、あるいはもう少し雨が降り続いていれば、もっといろいろ話を聞けたのかもしれない……でも。
『幽霊が見えるなんて、そんな馬鹿みたいな話、誰が信じるかっつの』
口論になったクラスメイトの鼻で笑うような声が、不意に脳裏を掠めた。
あの子は、なにも私を指してそう言ったわけではない。彼女の弟の友達が幽霊を見たという話について、その信憑性を疑っていて、話し相手だった私に同意を求めてきただけだ。
向こうは、私が肯定するか相槌を打つか、どちらかを期待していたはずだ。それなのに、なにをあんなにムキになって言い返してしまったのかと、いまさらながら後悔が過ぎる。相手は、明日も顔を合わせなければならないクラスメイトだというのに。
でも、あんな言い方をされると悲しくなる。たとえ私に向けられた言葉でなくても。
きっと私は、彼女の言葉そのものに怒ったのではない。「幽霊なんているわけがない」と鼻白むような態度を、彼女がはなから隠そうともしなかったことこそがつらかった。
心の中の寂しい部分に、公園前で出会った白い塊が、すっと入り込むように重なる。
自分についてなにも思い出せない、のっぺらぼうの幽霊。もしまた雨の日にあの公園へ顔を出したら、もう一度会えるだろうか。また電柱の下にうずくまっているだろうか。気になって仕方がない。
クラスメイトとの喧嘩の内容が内容だっただけに、それが影響している気はする……だが。
夕飯のときにテレビで見た天気予報では、明日は曇りのち晴れと言っていた。雨の日しか会えない彼とは、明日は遭遇できない。
なにも覚えていないのにあんな場所にずっと留まって、かわいそうだ。また会えたら、こちらから声をかけてみようか……そこまで思ってから、自分は一体なにを考えているんだと頭を抱えたくなった。
初めて幽霊と話したから、気が動転しているだけだ。
強くそう意識していないと、気づいたときにはまた彼のことを考えてしまいそうで、なんだか落ち着かない。
「……はぁ」
溜息が零れた。
今日の私はどうかしている。どのみち、明日にあの幽霊と会うことはない。時間が経てば気持ちも落ち着いてくるかもしれないし、とにかく今日は早く休もう。
のぼせかけた頭を軽く左右に振り、私は浴室を後にした。
喧嘩をしたクラスメイトとは、翌日に仲直りした。
自分の発言のなにがそこまで私を怒らせたのか、ひと晩中考えたらしい。言い方が悪かった、と頭を下げた彼女に、私も言葉が過ぎたと頭を下げ返し、以降は普段通りに接している。
もしかしたら彼女は、私が、あるいは私の身近な人が、幽霊の見える体質だと勘づいたのかもしれない。
相手がなにげなく切り出しただろう話題に、私は感情的な態度を取った。しかも「幽霊が見える」ということをあり得ないと語った相手に頭から突っかかってしまったわけで、それでは「見える人間を馬鹿にするな」と言っているようなものだ。
和解して以来、彼女はその話題を一度もほじくり返してこない。向こうは単に気まずく思っているだけかもしれないけれど、ありがたい。小学生のときにハルキに打ち明けて失敗してしまった私に、この秘密を誰かと分け合えるだけの勇気はもうない。
進級早々クラスメイトと口論をやらかすというトラブルを引き起こしたものの、その件についてはほとんど禍根を残さず、そのまま平穏に一週間が過ぎた。
四月も間もなく下旬に差しかかる。暖かさを通り越し、日中には暑さを感じることさえあるくらいだ。
今年の春は晴れの日が多く、なかなか雨が降らない上に、梅雨の季節はまだ先だ。あれから登下校のたびに例の児童公園の前を通っているけれど、やはり雨が降っていないからか、彼の姿を見かけることは一度もなかった。
そして今日、白オバケとの遭遇から九日目。とうとう、午後から雨が降るという天気予報が流れた。
どんよりとした曇り空を自室の窓から確認しながら、私は緊張に高鳴る胸を押さえる。あらかじめ心の準備ができるなら、それほど怖くない。いるかいないか、どんな奴が出てくるのか、事前になにも分からないからこそ不安になるのだ。
いつも通り学校へ行き、授業を受ける。
そして午後、昼休みに弁当を食べている途中から、ぽつぽつと雨が降り始めた。教室の窓から様子を確認した私は、思わずこくりと喉を鳴らしてしまった。
平静を装って午後の授業を受け、それらもすべて終わり、帰りのホームルームが終わると同時に私はそそくさと帰り支度を始めた。
今日の帰り道に、彼はいるだろうか。
この十日ほど、彼に対する私の関心は、日を追うごとに膨らんでいる。彼に遭遇する可能性が最も高い場所がもし通学路でなかった場合、寄り道してでもそこへ足を向けたくなるくらいに。
小さくひと息ついたそのとき、叶生、と背後から声がかかった。
「あ、花梨」
「お疲れー。ね、急なんだけど、帰りにどっか寄ってかない?」
「あ……ごめん。今日は用事があってさ」
通学鞄を片手に声をかけてきたのは、岸田 花梨だ。
花梨は中学時代からの同級生で、偶然同じ高校に進学した。一年のときにはクラスも一緒だった。今年はクラスが別になってしまったけれど、変わらず仲良くしている。
部活も同じだ。書道部に所属している。とはいえ、部活がある日もない日も、ふたりで放課後を過ごすことが多い。自宅の方向も途中まで同じだから、大抵、下校も一緒だ。
「あーそっか、残念。明日は?」
「うん、明日は多分大丈夫」
「よし! じゃあ明日、寄り道してこ?」
「分かった。楽しみにしてる」
誘いを断ることに罪悪感が芽生えたが、花梨は気にする様子もなく明日の誘いを切り出してきて、私はほっとする。
進級直後、例のクラスメイトと口論になった現場に、花梨は居合わせていなかった。クラスが違うから仕方がないのに、花梨はそのことを私よりもずっと気にしていた。それ以降、下校したり寄り道したり、一緒に過ごす日が前以上に多くなっている。
「気をつけてね」
「うん。また明日ー」
花梨に手を振り、私は彼女より先に教室を出た。
中学生の頃、花梨と帰り道を歩いている途中、とても小さな幽霊と遭遇したことがあった。そのときは幽霊のほうがすぐに消え、特に強い恐怖や不安は覚えなかったから、その後もなにごともなかったかのように過ごした。
幽霊が見えるという話を、私は花梨にさえ面と向かって伝えていない。雨の日が苦手だという話はしているけれど、それ以上を切り出す勇気はどうしても出てこない。
小さく息をついた後、傘を手に、私は昇降口から一歩踏み出した。
私が通う高校は住宅街の中にあり、学校を出てしばらくは歩道が整備されていない小道を歩かなければならない。大きな通りに出て、信号を渡り、橋を渡り、細い道に入り……そうして二、三分ほど進むと見えてくるのが例の児童公園だ。
公園を囲む低い垣根が見え始め、無意識のうちに喉が鳴った。
傘を差したまま出入り口に近づいていく。しかし、先週彼がうずくまっていた電柱の下に、今日はなにも見えなかった。
今日はいないのか。ほっとしたような残念なような、複雑な気分になる。
出入り口に立ち、ぐるりと周囲を見渡す。まさか日が落ちた後でなければ会えないのかと不安を覚えながらも、視線をあちこちに向けて白オバケを探し、そして。
――いた。
奥側の東屋、四隅を囲む大きな柱のうちのひとつに、白い影が控えめに佇んでいる。
「あ、……っ」
手を挙げて呼びかけようとして、すんでのところで踏み留まる。
あの幽霊は、私以外の誰にも見えていないはずだ。下手に大声をあげれば、その瞬間、私は「ひとりで喋り出すおかしな女子高生」に認定されてしまう。
雨の公園には、大人も子供もひとりも姿が見えないが、傍の道をいつ誰が通りすがるか分からない。怪しい行動はできるだけ避けなければ、と肝に銘じる。
傘を持ち直し、ゆっくり東屋へ向かっていく。園内の土は泥濘んでいて、水溜まりも多い。それらを避けながら、慎重に東屋まで進む。
そうして辿り着いた東屋の前、四隅の柱のうち一本の傍。ベンチの端にぼんやりと佇むその影へ、私はそっと声をかけた。
「ええと……こんにちは」
声をかけると、白オバケはわずかに身動ぎした。
相変わらず顔も身体も真っ白で、顔のパーツどころか、身体の部位さえ見分けがつかない。微かに動いて見えたが、実際には振り返るとか顔を上げるとか、そういう動きをしているのかもしれなかった。
『……あんた……』
「あ、あの、なんていうか、気になって。また来ちゃった」
挨拶の後になにを喋るか考えていなかったから、しどろもどろになってしまう。上擦った私の声の後、沈黙が落ちた。
相手がなにを考えているか、表情が分からないせいで想像もつかない。先に続きを喋り出したくなる気持ちを堪えて相手の反応を待っていると、白オバケはおもむろに立ち上がった。
白オバケの全長を眺め、私は目を見開いた。背丈が小さかったからだ。
身長百五十センチちょっとの私より小さい。意外だ。それに、立ったり座ったりするところも初めて見た。些細な所作まで、妙に新鮮に見える。
『……ベンチ』
「え?」
『座れば』
「えっ、あ、うん。はい」
言葉少なに喋る白オバケは、言いながら、自分も東屋のベンチへ移動した。
いわれてみれば、座っているように見えなくもない。隣に座るのも気が引け、私は向かいの席に腰を下ろした。
他の人には白オバケが見えていない以上、雨の中、公園の東屋にひとり腰かける制服姿の女子高生という構図ができあがっているはずだ。カモフラージュのためにと急いで鞄から参考書とノートを取り出した私は、適当なページを開き、小さく咳払いを落とす。
「ええと。あなたのことって他の人は見えないだろうし、今、私がひとりでここに座ってる感じになっちゃうじゃない? だからその、勉強してるふうを装ってるっていうか」
取り出したノート類から視線を外さず、一方的に喋り出した私に、白オバケは短い沈黙の後『そうか』と相槌を打った。
話は通じているらしい。それは前回と変わらない。感動してしまいそうになる。
『……もう会えないかと思ってた』
眼下の参考書へ集中力の欠けた視線を向けていると、白オバケがぼそりと呟いた。思わず目を丸くしてしまう。
まるで、私に会いたがってでもいたみたいな言い方だ。そういえば、前には『話しかけられたり傘で突かれたりしたのは初めてだ』と言っていた。話が通じたり、姿を認識してもらえたりする時点で、私は彼にとって貴重な存在なのかもしれない。
「あ……ごめん。あのときはちゃんと伝える時間がなかったんだけどさ」
考えてみたら、白オバケには私の体質についてなにも伝えていない。
もしかしたら、雨の日以外の私には見えないというだけで、彼はこの一週間ずっと私を待っていたのかも……微かに罪悪感を覚え、私は遠慮がちに続ける。
「私ね、雨の日にだけ幽霊が見える体質なの。昔から」
『へぇ。だから今日来たのか』
「そういうこと」
前回よりも口調が砕けている。
親近感を覚え、私はふふ、と声をあげて笑ってしまう。
『あんたは』
「ん?」
『怖くないのか。俺のこと』
白オバケが喋る。くぐもってはいるけれど、慎重そうな声だ。
相手の口がどこにあるのか分からないのに、声は白オバケの方向、それも顔の辺りから聞こえてくるから不思議だ。私の目に映っていないだけで、彼の顔には目や口がきちんと備わっているのだろう。
「ええと……うん。あんな転び方したところ、見られちゃったし。もう怖いもなにもないかなって」
『ふうん。結構逞しいんだな』
……思ったよりもよく喋る。それに、相手は今「俺」という一人称を使った。
声が低いから予測はできていたけれど、やはり男性のようだ。それにしては背が低すぎる気もするが。
白オバケと話しながら、公園の出入り口に背を向ける形で座ってしまったな、と思う。逆の位置のほうが人の気配に気づきやすいかと思いながらも、そこまで長居はしないだろうと割りきることにする。
こほん、とおもむろに咳払いをする。
気になっていた詳細を訊く、絶好のチャンスだ。
「ねぇ。あなた、なんでこんなところにいるの?」
『なんでって……よく分からない』
「前は電柱の下にいたよね」
『あれは……あのとき、人が歩いてるの、たまたま見えたから。その、あんたの傘が』
質問が唐突だったからか、面食らっているような声ではあった。
けれど、白オバケは予想以上に律儀に返答してくれる。真面目な性格をしているらしい。
「覚えてること、なにかないの?」
『覚えてること……』
考え込むような声で呟いた後、白オバケは黙った。
ぼやけた輪郭の腕が、頭の下辺りにゆっくりと動く。なんだなんだ、と目を凝らして様子を見守っていると、彼は再び声をあげた。
『なにかがここまで出かかってはいる、けど……分からない』
困惑の滲んだ声だった。
……「ここまで」ってなんだ。もしかして、その腕が示しているのは喉か。腕も喉もぼんやりとしている分、ジェスチャーとしては少々分かりにくい。
返答に困った私は、そっか、と控えめに返した。少なくとも、「喉まで出かかっている」という表現を知っていることは判明した。
とはいえ、記憶に関する情報があまりに少なすぎて困ってしまう。例えば服装が分かれば、年齢や趣味など、想像のつく点がいくつか出てくるだろう。けれど、彼の姿は今日も白くぼんやりとしている。目を凝らしても、朧げな輪郭がぼうっと浮かび上がっているだけだ。
目をこする。その後、もう一度じっと正面を見つめる。
見え方はやはり変わらなかった。私の目が霞んでいるせいでぼやけているわけでは、決してない。
「ええと、そうだ。名前は? 思い出した?」
『いや』
「そっかぁ……」
淡々とした返事に、ついに私は質問を途切れさせてしまう。
次はなにを訊こうか。というより、白オバケは本当に、忘れていることを思い出したいと思っているだろうか。私が余計なお節介をしているだけなのでは、と不安が過ぎったそのとき、彼がぼそっと呟いた。
『あんたの名前は?』
今度は逆に問われた。そのタイミングと問われた内容に、私はぽかんとしてしまう。
……いつの間にか「あんた」呼ばわりされている。苦笑いしながら、私は鞄からペンケースを取り出した。シャープペンシルを手に取り、でこぼこのテーブルに置いたノートの端へ、自分の名字と名前を記していく。
「これで『かなお』って読むの。楠本 叶生」
『ふうん。カナオ、か』
「字は読める?」
『……あ、読める』
わずかな沈黙の後に放たれた最後のひと言は、はっとした感じだった。無意識のうちに読めていたらしい。
これで、字が読めることも判明した。彼自身も初めてそうと気づいたようだ。いわれてみれば、文字を確認できるものなど、この周囲にはほとんどない。せいぜいが出入り口の古びた看板くらいだ。
今みたいに、無意識の部分を刺激して呼び覚ましていけば、なにかの拍子に記憶が戻ってくる可能性は十分ありそうだ。調子づいてきた私は、勢いに任せてぐっと身を乗り出した。
「ところで、あなたの呼び方はどうしようか。いつまでも白オバケって呼んでるのもなんか悪いし」
『白オバケ……そんなふうに呼んでたのか、あんた』
「頭の中でだけだよ。あなたのこと、他の人には話せないし……そうだ、幽霊の『ユウ』でどう?」
思いつきで提案した後、たっぷり五秒は沈黙が落ちた。
いくらなんでも適当が過ぎただろうか。怒られるかなと不安が芽生えてきた頃、正面から不意にふ、と笑い声が聞こえてきた。
『ユウ……ふふ、ユウか。いいよ、それで』
「え、こんな適当なのに本当にいいの?」
『なんだ、駄目だと思いながら言い出したのか、あんた?』
「うん」
『……へぇ』
呆れたような返事だ。軽口を叩き合っているみたいで楽しい。昔から仲の良い友達と話しているような錯覚が、ふっと胸を過ぎる。
内容の薄い応酬を繰り返しては、ユウはときおりふふ、と笑う。
楽しそうだし、まあいいか。ついさっき覚えたばかりの錯覚を持て余しつつ、私もふふ、と笑い返した――そのときだった。
「え?」
知らず声が出ていた。
ユウの姿が、なんの前触れもなく透け始めたからだ。
「な……ち、ちょっと、なに!?」
慌ててベンチから腰を上げる。直後、私の剣幕に驚いたような声で『なんだ?』と尋ねられた。いつも以上にくぐもったそれは、確かにユウの声だった……だが。
そのときにはすでに、ユウの姿は見えなくなっていた。
「あ……」
その場に残ったのは、半端に腰を浮かせた私だけ。テーブルの端へ視線を移すと、角に柄を引っかけておいた傘が目に入る。
……そうだ、雨。弾かれたように、私は東屋の外へ視線を向けた。
「そっか……」
外を眺めながら、私は呆然と呟いた。
雨はやんでいた。だから、ユウは私の目に映らなくなったのだ。いわれてみれば、前に遭遇したときにも、ユウは今みたいに突然透明になった。
東屋の屋根からぽたりと垂れ落ちた名残の雨粒を眺め、小さく息を零す。いきなり姿が見えなくなる、しかも透けてそのまま消えてしまうという現象は、見ている側としては胸が締めつけられる。はっきり言って心臓に悪いし、話もまた、中途半端に途切れたきりで宙ぶらりんだ。
ぼうっとしつつも、私はテーブルに広げていた参考書とノートへ指を伸ばした。
それらを畳んで通学鞄へ戻し、次いで、ユウはどこに行ったのかと思う。この場から消えていなくなったわけではなく、単に私の目に映らなくなっただけなら、まだ向かいのベンチに腰かけているかも、とも。
対面を見つめる。誰もいないベンチの上――さっきまでユウが座っていた、今も座っているのかもしれないその場所を。
ユウ、と呼びかけようとして、けれど私はその声を喉の奥で押し殺した。
呼びかけたところで返事が分からない。雨がやんでしまった以上、今の私にはユウの声はもう聞こえない。
ただ姿が見えなくなるだけではないのだと、いまさらながらに思い至る。
「……またね」
独り言みたいに呟いた。
本当にそこにいるか分からない相手に、私はその言葉を本当に伝えたいのかどうかもよく分からなくて、けれどこれで終わりにしたくないという気持ちは前よりも確実に強くなっている。
もやもやした気持ちは晴れない。そのままの気分で、私は鞄と傘を手に取り、ベンチから静かに立ち上がった。
東屋でユウと顔を合わせている最中に上がった雨は、まとまった厚い雲に姿を変え、翌日も一日中上空に留まった。
降るなら降ればいいのに――思わずそう毒づきたくなってくるほどにどんよりとした天気が、朝から続いている。けれど、今日は花梨と一緒に帰る約束をしているから、降らずに済んで良かったのかもしれない。
雨が降ったら、帰り道、まず間違いなくユウの姿が見えてしまうだろう。誰かと一緒にいるとき、ユウに話しかけることはできない。手を振ることさえできない。ユウが見えているのに無視するなんて、できる限りしたくなかった。
「叶生~」
「はーい、今行く!」
帰りのホームルームが終わると、花梨が教室まで迎えに来てくれた。学校を出て並んで歩き、駅前を目指す。まずは、新しくできたジェラート店に揃って寄り道した。
四月も、あっという間に終盤だ。間もなく五月、冷たいジェラートがより美味しく感じられる季節になった。ふたりでそれぞれ異なるフレーバーを選び、スプーンで自分のものを、ときおり相手のものを掬いつつ、お喋りに興じる。
そして放課後の話題になったとき、花梨が重々しい溜息を零した。
「はぁ。四月になってから水曜がしんどいよぉ~」
「水曜? なんかあったっけ……ああ、もしかして塾?」
訊き返すと、花梨はぶんぶんと勢い良く首を縦に振った。
進級に合わせ、花梨は塾に通い始めていた。花梨の成績は、私よりも少し……いや、だいぶ下位に位置している。中の中程度という自覚がある私よりも遥かに芳しくないため、とうとう、彼女の両親が個別指導の塾に通うよう提案したらしい。
はぁ、と再び大きな溜息を落とした花梨は、半分まで減ったジェラートへ雑にスプーンを差し入れた。
顔のしかめ具合から察するに、かなりきつそうだ。元々、花梨は塾になど行きたくないとたびたび愚痴を落としていた。本人がそう言っている以上、親や塾側がどれだけ頑張っても、成績の向上は望めないのでは……と、部外者である私まで心配になってくる。
「ええと、駅裏のあそこだよね……あれ、名前忘れちゃった。ごめん」
「そうそう駅裏の! ああもう、名前も思い出したくない!」
叫びながらジェラートを口に運ぶ花梨から、相当なストレスを感じる。
同情しかけたそのとき、花梨が、あ、と思い出したような顔をした。
「ああ、でもさ。中学のとき同級生だった藤堂くん、同じところに通ってるんだよ。偶然でびっくりしちゃった」
……藤堂。その名前が耳を掠めたと同時、スプーンを持つ指がひたりと止まる。
顔が強張った自覚はあった。しまった、とばかりに目を見開いた花梨が、ジェラートを食べることを中断してしどろもどろに謝り出す。
「あ……と、ごめん。叶生、藤堂くんと仲悪いんだったよね」
「うん、まぁ。仲悪いっていうか、嫌い……っていうか」
「……叶生がそこまで言うの、ちょっと珍しいよね」
花梨の声は遠慮がちで、大人げない態度を取ってしまっているなと自嘲する。
ハルキと花梨は、小学校まで別々の学区だった。だから、小学四年生のときに私とハルキの間に走った亀裂を――その詳細を、花梨は知らない。ただ、私とハルキの家が近いことと、中学時代に私がハルキとほとんど口を利かなかったことは知っている。
場の空気が急激に重くなったなと察し、私は強引に声のトーンを上げた。
「あの、私がそうっていうだけだから気にしないで。向こうだって、私以外には性格悪い態度なんてそうそう取らないだろうし」
「……うん。けど、こないだ藤堂くんに叶生のこと、訊かれてさ。『元気にしてるのか』って」
「は?」
「雨でビシャビシャになってるとこ、見たって言ってた。心配そうにしてたよ? ていうかそんなことあったの、叶生? 大丈夫だった?」
思いもよらない話を切り出され、返す言葉を失う。
雨でビシャビシャになっていたところを見たという話は、きっとあの日のことだ。初めてユウと会った日、私は派手に転んで、スカートを駄目にしてしまって、それを玄関先で偶然ハルキに見られた……けれど。
眉が寄った。ハルキが、そんな話を花梨に伝えた理由が分からない。
「……私は大丈夫だったけど」
ぼそりと零した声は、自分で思う以上に低かった。
びしょ濡れの私を見て、話のネタにしようと思ったのかもしれない。無理やりそう思うことにした。
ハルキは、性格が歪んでいるわけでは決してない。単に私を嫌っているだけだ。それから、私もハルキが嫌いなだけ。
私の低い呟きを、花梨は驚いたような顔で聞いていた。
ばつが悪くなってくる。人の悪口でも言っている気分だ。実際、誰かが嫌いだという話は悪口と同類だろう。どす黒い気持ちが噴き出し、せっかくのジェラートが美味しくなくなってしまいそうだ。
「ごめんね。嫌いな人の話されるの、嫌だよね」
「っ、いいのいいの、私こそごめん。……あの、もしまたなんか訊かれたら、適当に濁しといて。多分もうそんなこと、ないと思うけど」
複雑そうな顔をしながらも、花梨は私のお願いに「分かった」と返してくれた。
「ああんもう、せっかく久しぶりに寄り道できたのに! もっと楽しい話しよ!」
「うんうん、塾の話なんてやめとこやめとこ」
「ちょっと、ほじくり返すのやめてよ~!」
ひとしきりお喋りしてから、私たちはジェラート店を後にする。
店を出て間もなく、花梨が「あ」と思い出したような声をあげた。
「そうだ。あたし、こないだ傘壊しちゃってさ。雑貨屋に寄ってもいい?」
「いいよー、行こ行こ」
返事をしてから、傘か、と思う。
手元の傘をちらりと見やる。曇り空だから、私は今日も傘を持ってきていた。ごく普通の透明なビニール傘だ。中学生のときにお気に入りの傘を失くして以来、これを使い続けてきた……でも。
「傘、私も新しいの買おっかな」
「おっいいじゃん、買お買お。叶生、前からそのビニール傘だもんね」
「うん。昔気に入ってたやつ、失くしちゃって……それからずっとこれなんだ」
「あ~、分かる。置き忘れとかしちゃうとショックだよね」
どんな傘にしようかと取り留めもなく話しながら、駅ビル内の雑貨屋へ向かう。
店の入り口の横、ぐるりと囲む形で飾られた色とりどりの傘は、綺麗にグラデーション状になるよう並んでいる。
それぞれ気に入ったものを選び、傘以外の雑貨もあれこれ手に取ってから会計を済ませた。
花梨は水色の傘を、私は赤色の傘を選んだ。私が選んだのは、縁に淡いピンクのフリルがついた、日傘としても使えるものだ。むしろそちらの用途で使う人のほうが多そうだと思ったものの、デザインにひと目惚れして選んだから後悔はない。
昔失くした傘も、鮮やかな赤い色だった。あれよりも綺麗な色に見える。それが一番の決め手だった。
幼馴染の話題のせいで胸にのさばっていた憂鬱が、楽しい買い物のおかげで少しずつ晴れていく。
明日以降、もし雨が降るなら、これを差して児童公園の東屋に行こう。
事情を知らない花梨にそんな詳細は伝えられないけれど、新しい楽しみを胸に、私はひとり口元を緩めた。
予想通り、再会の機会は比較的すぐに訪れた。
曇り空の土日を経て、週明けの月曜。今日も今日とて朝から灰色の雲に覆われた空は、学校に到着するや否や、早々に雨空へ変わった。
通学路を進む途中、児童公園の前を通りがかったけれど、ユウの姿は見えなかった。やはり、雨が降りそうな状態では駄目なのだ。実際に雨粒が落ちてこない限り、私にユウは見えない。
どうか中途半端にやまないでほしい――誰にともなくそう願いながら、ようやく下校時刻になる。幸い、その時間まで雨はやまなかった。
ほとんど走って辿り着いた児童公園の東屋に、今日もまた白い塊が覗く。朝には見えなかったそれを自分の目で確認し、私は思わず「ユウ!」と大きく手を振った。誰かに見られていたらどうしようという気持ちもあるにはあったが、それよりも、また会えたという安堵が大きかった。
途中から走ったせいか、制服が少し濡れてしまった。購入したばかりの赤い傘をテーブルの端に引っかけ、今日は自分からベンチへ腰を下ろす。対するユウは、今日も私の向かいに座り、そして開口一番呆れの滲んだ声をあげた。
『なんでいつも急にいなくなるんだ、あんたは』
はぁ、と溜息交じりに言われ、一瞬なんの話か察し損ねる。
傘が新しくなったことに気づいてくれるかな、とそわそわした気持ちでここまで歩いてきた分、予想外の言い草に苛立ちが芽生え、勢いに任せて言い返す。
「し、仕方ないじゃん。雨がやむと見えなくなっちゃうんだから」
『……はぁ。正直、いきなり無視されるのはつらい』
「あ、やっぱりユウ、その場に残ってるんだね。私が見えなくなるだけってことか……なんかごめん」
『……いや、別に。仕方ないんだろうけど』
こればかりは私にも対処のしようがないから、素直に頭を下げる。すると、向こうも刺々しい喋り方をすぐに引っ込め、もごもごと居心地悪そうにそう呟いた。
その仕種を眺めながら、微かな違和感を覚えた。
「……あれ?」
正面に座るユウを、目を細めて注意深く見つめる。覚えた違和感は、間を置かず閃きに変わった。
前に会ったときよりも、形がはっきりして見える。
白いぼんやりとした輪郭が、布らしきものを羽織っている。そちらも白くぼんやりとしていることに変わりはないが、服というよりは大判の布、それもバスタオルのような分厚いものではなく、もっと薄手の布に見えた。
『なんだ』
「あ……うん、その」
言い淀んでしまう。
急にどうしたんだろう。前はこんなに細かく見えなかったのに――もしかして、なにか思い出したのか。
問題なく話が通じることや、言葉遣いが現代人のそれであること、また漢字を含めた文字が読めることなどは、過去のやり取りですでに判明している。それらについてユウ自身がきちんと自覚したのも、おそらくは前回私たちが顔を合わせたときだ。そうした事情も、今日の彼の見え方に影響しているのかもしれない。
「ええと。ユウ、こないだと変わったこと、なんかある?」
『は? なんで』
「なんでって……この前より、はっきり見えるから」
私の言葉を最後に沈黙が落ちた。静まり返った東屋の中に、ぽた、ぽた、と屋根から零れてくる雨音だけが残る。
居心地が悪くなる。雨粒が地面の土にくぼみを作ってそこへ溜まる様子に、私は黙って視線をずらした。
『どんなふうに見えるんだ』
「え? ええと。なんだろ、シーツ……みたいな布っぽいの、巻きつけてる感じ」
『シーツ……?』
抑揚のないユウの声が、耳に届いてはまた途切れる。
ユウの顔はのっぺらぼうだから、今の彼がどんな表情をしているか、私には分からない。シーツか、と独り言のようにもう一度呟いたユウの声を、黙って聞いているしかできなかった。
外見の変化から考えるに、ユウはなにかを――元々の自分の記憶や思い出を取り戻しかけているのだろうか。
分からない。それが良いことなのかどうかも、ユウが本当に望んでいるのかどうかも、私は分かっていないし直接ユウに尋ねてもいない。最後には困惑したように聞こえたユウの声を頭の中で反芻しながら、本当にさっきの話をユウに伝えて良かったのか、急に不安になった。
真向かいに座るユウは、すっかり考え込んでしまっている。かける言葉も見つからず、覚えたばかりの不安を持て余しつつ、私は黙って時間の経過を待った。
ふと外を見やると、灰色に淀んだ景色が見えた。
ざわざわと鳴る木々の音が、無駄に不安を煽る。苦い気分に拍車がかかってしまいそうで、勢いをつけて視線を真正面に戻したそのとき、ユウが声をあげた。
『それ。こないだと違うな』
「え?」
素っ頓狂な声をあげた後、ユウの腕が、俯き加減だった私の視界に入り込む。ぼんやりとした白い腕がなにかを指し示すように動き、私は思わずそれを視線で辿る。
テーブルに引っかけておいた傘に目が留まり、納得した。ユウは傘の話をしている。こないだと違う、という言葉がようやく腑に落ちた。
「あ、うん。新しいの、買ったの。可愛いなって思って」
『……傘……』
「え?」
『いや。なんでもない』
呟くような声だった。気になって聞き返してみたけれど、結局、ユウはそれ以上なにも言わなかった。
こちらから切り出さずとも傘に気づいてくれたと胸が躍りかけ、しかしそれきり途切れた会話のせいで、浮ついた気分はすぐに冷めてしまう。
土を濡らす雨の音が、私たちの間に落ちる沈黙を掻き立てる。ユウの表情がさっぱり分からない分、ユウの声や話を聞き取らない限り、私は彼がなにを考えているのか察せない。つくづくもどかしかった。
雨の日は、普段よりも早く空が暗くなる。ここを訪れたときからどんよりとしていた空は、時間の経過によってさらに灰色を濃くしていた。
ここに来てからどのくらい経っただろう。そう思ったけれど、こうしてユウと向かい合っている状態で、鞄からスマートフォンを取り出すことはためらわれた。それではさっさと帰りたがっているみたいだ。
とはいっても、そろそろ帰路に就いたほうがいい。このままでは、ユウと初めて顔を合わせたときのように、私が恐れる「雨の日の夜」が訪れてしまう。
雨は一向にやむ気配を見せない。
今日は、きちんとお別れを伝えてから帰れそうだ。
「ねぇユウ。私、そろそろ帰るね」
『あ……そうだな。暗くなる前に行ったほうがいい』
「うん。また雨の日に来るから。そのときまで、なにか新しいことが分かるといいけど……またね」
言い終えてから、今日は参考書やノートを開かなかったなと思った。
いまさらという気もするが、次回はもう少し気を引き締めたほうがいいかもしれない。
「じゃあね」
『うん。気をつけて』
別れを告げて通学鞄を手に取り、東屋を後にする。
傘を開いて出入り口まで足を進めてから、そっと背後を振り返った。ユウはまだ東屋のベンチに座っている。周りに人がいないことを入念に確認してから、私はユウに小さく手を振り……胸がじくじくと痛んだ。
ユウは、どうしてあんな姿になってしまったんだろう。そのことについて、これ以上自分が深く関わってもいいのか。ひとりで考えていても答えが出そうにない疑問を胸に、私は前に向き直る。
少々急ぎ足で自宅を目指そうと、傘の柄を持ち直した――そのときだった。
「……あ……」
前方に人影が覗いた。人がいるというだけでもぎょっとしたのに、その人物が自分の見知った相手であると気づき、私は露骨に頬を引きつらせる。
児童公園を出てすぐの歩道、距離にしておよそ五メートル。
黒い傘を片手にそこに佇んでいたのは、ハルキだった。
「あ……っ」
濡れたアスファルトを蹴り上げる勢いで、傘を差したまま走り出す。
雨の中、濡れることも厭わず豪快に駆け出した私を、ハルキがどんな顔で眺めていたかは知らない。ハルキが立つ側とは反対側の歩道を強引に走り抜けていく途中、「おい」と声をかけられたけれど、それも無視した。見向きもしなかった。
この雨の中、ハルキがずっと同じ場所に留まっていたとは思いがたい。ユウとの会話を聞かれていたわけでもないだろう。とはいっても、最も鉢合わせたくない人物と遭遇したせいで、瞬く間に気分が荒んでいく。
ハルキが追いかけてくる気配はなかった。それでも、足を止める気にはならなかった。
結局、自宅の前に辿り着いた頃には、私の全身は傘を差していた意味がないほどずぶ濡れになってしまっていた。
ユウの顔を見る機会もないまま、それから半月以上、延々と晴れの日が続いてしまった。ときおり灰色の空が覗くこともあったが、降れと念じれば念じるほど、なぜか雨の気配は遠ざかる。
だいたい、どうして私はユウに会いたいと思っているのか。傘まで新調して、これでは浮かれているみたいだ。
ユウの姿は私にしか見えていないけれど、その事実がまるごと、私がユウに会いたいと思う理由にはならない。確かにそう思うのに、いつの間にか、私はこんなにも強く雨の日を待ち望んでいる。
ゴールデンウィークが過ぎ、中間試験が迫った五月中旬の日曜、ようやく念願の雨が降り注いだ。前回の雨から、半月どころか三週間近くが経過していた。
時刻は午前十時。雨は、早朝からずっと降り続いている。勢いも強いし、風もかなりある。学校の近くを流れる川の氾濫が心配になってくるくらいの大雨だ。
「行ってきまーす」
誰もいないリビングに向かって、私は普段の癖で声をかけた。
私が高校に進学してから、母は日曜にもパート先のシフトを入れるようになった。日曜は平日よりも時給がアップするから、代わりに他の日に休みを取ることにしたらしい。
父だって仕事をしているし、生活が苦しいわけでは多分ない。ただ、私が進学する道を選んだときのためにという理由があるみたいだ。頭が下がる。
「うわっ」
玄関を一歩出た途端、お気に入りの傘が大きく煽られた。壊れるほどではなさそうだと思いつつも、少し不安になる。
シューズボックスから久しぶりに取り出したレインブーツは、普段の革靴とは違って履き慣れない。それでも、急ぎ足で児童公園を目指した。
前回の雨の日、公園からの帰り道でハルキと鉢合わせた記憶が蘇る。思わぬ人物と遭遇したばかりだ、周囲の気配には今まで以上にしっかりと気を配らなければ。
日曜、それもこれほどの悪天候の中だ。今日は大丈夫だと思うが、注意するに越したことはないだろう。ハルキ以外の誰かに見られたとして、まずいことに変わりはない。
気を引き締め、児童公園の通りへ辿り着く。白い影はすぐに見えた。珍しく、公園の表側に出てくれている。早足で、私は彼の傍まで走り寄った。
「おはよう。朝会うのって初めてだね」
『ああ。傘、大丈夫か。折れるぞ』
「……別にこのくらいなら大丈夫だと思うけど」
私ではなく傘の心配をするユウへ、ムッとして言い返す。
とはいっても、さすがに外で過ごす気にはなれない。東屋には屋根があるが、雨脚が強まって横殴りにでもなれば座っていられないだろう。すでにベンチがびしょ濡れという可能性もある。
「ねぇ、ユウってこの公園から離れられる?」
『え……知らない』
「最初に会ったとき、そっちの道路側の電柱辺りにいたじゃない?」
言いながら、私はすぐ先の電柱へ指を動かしてみせた。四月の雨の夜、私たちが初めて顔を合わせた場所だ。
指を向けたほうへ向き直ったらしいユウは、これほどの雨の中でもまったく濡れていない。不思議だ。前にも同じことを思った。
「今日はうちに来ない? 風強いし、外に長居なんてしたら風邪ひいちゃいそう」
『……え?』
小声で伝えると、ユウは怪訝そうな声をあげた。それから、私が風邪をひくという可能性に初めて思い至ったらしく、焦った調子で『分かった』と呟いた。
女の子の家に行くという意味は、大して深く考えていないようだ。けれど、私も無茶を言っている自覚がある分、その点をわざわざ強調する気にはなれない。
ユウと出会う前の私なら、絶対にしなかった選択だ。得体の知れない幽霊を、自分の家――しかも自室に招くなんて。
自宅までの道中、傘を打つ雨音が耳によく刺さった。相合い傘みたいにユウを傘に入れかけたとき、ユウがちっとも雨に濡れていないことに改めて思い至る。白いシーツを通り抜け……否、ユウごと通り抜け、雨は地面へ落ちていく。
ユウはそもそも濡れない。分かっていたのに、こうやって隣に立ってそれを目の当たりにし、その事実を眼前に突きつけられた思いだった。ユウを入れてあげようと傾けた傘を、私は少し傷ついた気分で元の位置に戻す。
落ち込みかけた気持ちをごまかし、周りに人がいないか確認してから、彼へ小声で話しかける。
「公園から離れても問題ないっぽいし、ユウは地縛霊じゃないのかもね」
『地縛霊? そういうの詳しいのか、あんた?』
「いや、全然。適当に言ってみただけ」
『……あっそ』
溜息がはっきり聞こえ、あからさまだなぁと苦笑してしまう。
だんだん図太くなってきている。それを素直に喜んでいいのか、私はまだ判断がつけられずにいるけれど。
ほどなくして自宅へ到着し、まずは傘が折れずに済んだことに安堵した。正直、途中からはかなり心配していた。
母は夕方まで仕事だ。父は父で、今日は出張で遠方に出かけている。少しそわそわして見えるユウに「どうぞ」と声をかけ、私は彼を二階の自室へ案内した。
「お父さんもお母さんも、今日は仕事で出てるの。普通の声で喋れるから安心してね」
『あ、ああ。分かった』
「ええと、その辺、適当に座っていいよ」
天候を確認した朝の時点で、今日はユウを招こうと決めていた。だから簡単に掃除をしておいた。
彼氏でも呼んでいるようなシチュエーションなのに、私の目の前にいるのは朧げな白い幽霊という……複雑な気分だ。そう思っていると、ユウが困惑の滲んだ声をあげた。
『あんた、俺みたいなのを家になんて入れて大丈夫なのか』
「えっ、まぁいいかなって思って。ユウ、別に悪いこととかしなそうだし……」
『悪いこと?』
「ええと、例えば家の中の物、壊すとか。後は……私に取り憑いたりとか……?」
言いながら、だんだん声が小さくなっていく。
自分でも驚いた。自分はユウに信頼を寄せすぎではないかと、唐突に思う。ユウ自身に指摘され、冷水を浴びせられた気にさせられる。
尻すぼみになった言葉を最後に、沈黙が落ちた。しかしそれが気まずさに変わるよりも先、ユウの異変が目に留まる。それまでの話の内容も気まずさも忘れ、私は大きく身を乗り出した。
「……あれ?」
シーツと思しき白い布の輪郭が、前に会ったときよりくっきり見える。そしてその内側に、淡い色の服が覗いていた。それ以外はどこもかしこも真っ白なのに、不思議と色が判別できる。
手を伸ばしてユウのシーツを掴もうとしたが、結局、手はなんの手応えもなく通過してしまった。
……そうだった。私はユウに触れられない。頭から抜け落ちていた事実を反芻していると、ユウがシーツを手繰り寄せ、怯えた声をあげた。
『っ、な、なんだ急に。なにする気だ』
「え? ええと、ごめん。その布の内側、今日はなんか……服? 見えるからさ」
『服?』
シーツを握り締めたまま、じりじりと私から距離を取ろうとしていたユウは、訝しげな声をあげて動かなくなった。
わずかな躊躇を見せた後、朧げな腕の先が、布の合わせ目をゆっくりと左右に開いていく。布の内側の様子は、ぼんやりとながら私にも見えた。
「やっぱり。病院とかで着るやつじゃないかな、それ」
『病院……?』
輪郭は相変わらずぼんやりしているが、薄い緑と薄い橙、パステルカラーを基調としたチェック柄の衣服に見えた。
中学時代に同級生が怪我をしたとき、クラスを代表して大きな病院に面会へ行ったことがあった。その際に相手が着ていたものと、形状が似ている。
あの服、なんと呼ぶのだったか……そう、確か、病衣。
「入院、してたのかな。それか検査とか?」
『入院……』
「あ、待って。その布、ちょっと見せて……ううん、そうじゃなくて、裏側」
今度はシーツの裏側に目が留まる。なにか文字が書いてあるように見えた。
困惑を覗かせつつシーツへ指を戻したユウに、しどろもどろに指示を出す。もどかしい。自分でめくってしまえれば楽なのに、私はユウに触れられない。
なんとか言葉を重ね、シーツの端を手に取ってもらった。そこを凝視すると、やはり文字が書いてある。薄くなってよく見えないそれを目を凝らして見つめ、やっぱり、と私は声をあげた。
「ねぇ、病院の名前だよ、これ。市立病院って書いてある」
ユウの正体に関する手がかり探しに初めて成功した私は、すっかり興奮していた。
「うーん。最初の部分だけ字が潰れちゃってるなぁ」
『……そうか』
ユウの声は、普段よりも掠れている気がした……だが。
「ユウには見えないの?」
『分からない。今、カナオに言われてから見えるようになった……みたいだ』
え、と声が出た。
呆然として聞こえたユウの言葉の内容を、訝しく思いながら噛み砕く。
「元々見えてなかったのに、今は見えてるってこと?」
『いや。さっきまでもぼんやり見えてたけど、見やすくなった感じ……というか。急に』
ぽつぽつと話すユウは、それきり黙り込んでしまった。
そのときになって、私はやっとユウの困惑に気づく。先週からずっと考えていたはずなのに、思いきり失念していた。
ユウが、本当に元の記憶を取り戻したいと思っているのか、ということを。
「……ユウ、大丈夫? 嫌なら無理して思い出さなくても」
『いや、知りたい。ちゃんと』
言葉を遮るように告げられ、私は黙り込む。
強い口調だ。今まで聞いた彼のどの声よりも、ユウ自身の意志に満ちた声だった。
病衣。シーツ。どこかの市立病院。今日拾った情報のすべては、どれもが私に不穏な予感しかもたらさない。
そして、ユウは幽霊になっている。それらが意味するところを考える。可能性はまだひとつに絞れないけれど、同時に、それこそが限りなく正解に近いのではという気がしてしまう。
次から次へと湧き起こる嫌な予感を強引に振り払い、私は再び口を開いた。
「私が見えたものをユウに教えると、ユウにも分かりやすくなるのかな。言葉にすると理解しやすくなるとか? じゃあもっと見てみよっか、病衣とか……シーツみたいに裏地になにか書いてあったりして」
『っ、ま、待て。勝手に触ろうとするな!』
「えっ、でもユウには触れないよ、私」
『知ってる……けどその、あんたの勢いだと身ぐるみ剥がされそうで怖い……』
「なにそれ、失礼だなぁ」
シーツの合わせ目を握り締めるユウの仕種は、確かに怯えているように見える。のっぺらぼうの顔からはなんの表情も読み取れないのに、怯えた視線まで向けられた気がして、私は笑ってしまいそうになる。
話の最後には軽口を叩き合う感じになったが、先刻の嫌な予感は揺らがない。とはいえ、ユウは自分の素性を知りたいと言った。意志の宿った声を思い出し、私は誰にともなく小さく頷く。
協力できることはしてあげたい。思っていた以上に、ユウは人間らしくていい奴だから。
「うーん、他にはなにかないかなぁ、方法……あっ、鏡は?」
『鏡?』
「うん。ユウ、鏡で自分、見たことある?」
『……ない』
そうだよね、と相槌を打ち、私は立ち上がる。
部屋の隅に置いてあるカラーボックスから手鏡を取り出した後、ユウの真正面に座り直す。
「ええと、角度、こんな感じかな……どう? 見える?」
ユウに鏡面を向けながら問いかけると、ユウはしばらく沈黙してから呟いた。
『なにも見えない。後ろの棚は見えるから、透けてるみたいだ』
「あ……そっか。ごめん」
ユウの声は落ち込んでいる感じではなかったけれど、私は反射的に謝罪した。
ユウが幽霊であることを、無遠慮に証明してみせてしまった自分が、急にものすごく嫌な奴に思えてきて……だが。
『なんであんたが謝るんだ。知れて良かったぞ』
続いたユウの声は訝しげだ。どうして私が頭を下げるのか本当に分からずにいるような、そんな口ぶりだった。
うん、と短く返してユウに視線を向けると、ユウは興味津々といった様子で『もう一度見せてくれ』と言う。膝に下ろした手鏡を再び持ち上げ、私は、ユウに見えるよう角度を調整した。試していないが、この鏡を自分の手で持つことは、ユウにはきっとできない。
鏡に見入っているらしきユウを眺めながら、私は彼に気づかれないよう息をついた。
年上か年下かも分からないものの、背丈を考えると中学生くらいかなと思う。中学生だったら声変わりしていてもおかしくない。ものすごく齢が離れた背の低いオジサン、という可能性もゼロではないだろうが。
先週、ノートの端に名前を書いてみせたときの様子を思い出す。私が書いた字を、あの日のユウは無意識ながらも難なく読んでいた。その点から考えても、大昔の幽霊などではなさそうだ。
……とそのとき、カーテンの隙間から微かに日差しが覗いた。はっとして、私はカーテンを大きく広げる。
雨脚は、いつの間にか収束に向かっているらしい。風だけは相変わらず強いようで、窓の外に見える近所の木々の枝が横薙ぎに揺れていた。
「雨、やみそうだね。あんなに降ってたのに」
『……そうだな』
ふう、と零されたユウの吐息が、カーテンを広げた部屋の中、静かに溶けて消える。
まだぽつぽつと雨音が聞こえるから、もう少し時間があるかも。頭の中で巡らせていた言葉を、私は一気にまくし立てる。
「もしかしたら、これからいろいろ思い出すこと、あるかもね。私にユウが見えてない間にも」
『そうかな』
「思い出したいんでしょ?」
『……うん。分からないままは、歯がゆい、というか……悔しい』
ぽつりと呟いたユウの声は、思った以上に私の胸を深く刺した。
怖い、ではなく、悔しい。確かに、自分のことが自分で分からない状態というのは、悔しいのかもしれない。
『思い出したい。早く』
静かな呟きは、いつにも増して儚げだ。
シーツに刻まれた病院名、病衣らしき衣服。今にも空気に溶けて消えてしまいそうなユウに、私は思わず手を伸ばした。しかし、なににも振れる感触がないまま、指はユウをすり抜けてぱたりと落ちる。
その姿が、だんだん透けて見えなくなっていく。
『どうした?』
「あ……ううん。透けてきたなって思って」
『うん、もうやみそうだな。また来るよ、場所は覚えたから』
「か、勝手に入ってこないでよ? 嫁入り前の乙女なんだからね、私」
『……乙女……?』
「なにその気の毒そうな言い方」
私の言葉に被せてふふ、と笑い出したユウの姿は、すでにほとんど見えない。
それなのに、ユウはそこにいて、実際に話を続けている。それがただただ不思議だった。声は、いつも以上にどんどんくぐもっていくけれど。
『そろそろ戻る。ああ、でもこの近くには河原もあったな。行ってみようかな』
透けていく姿は信じがたいほど儚いのに、ユウの声は楽しげで、私は焦って大きな声をあげてしまう。
「えっ、川? 雨降ってるんだよ、危なくない?」
『は? 危ないわけないだろ、こんな身体なんだぞ』
応じる声は楽しそうだ。それはそうか、と言われてから思う。
ユウには、川に流される危険も、車に轢かれる危険も伴わない。なにを言っているんだ私は、と恥ずかしくなる。
『ありがとう。カナオの隣にいると、いろんなことを思い出せそうだ』
俯いた私が再び顔を上げたときには、ユウの姿はもうなかった。
ユウがいた場所に指を伸ばす。指が空を切って落ち、震える息が零れた。ユウはまだここにいるのか。それとも、彼自身がさっき言ったように、早々に元の場所か河原へ向かったのだろうか。
……「元の場所」ってどこだ。児童公園の東屋か。それとも。
ユウは、次の雨の日までまたひとりぼっちだ。かわいそうなどと言ったら苦言を呈されそうだが、ひとりでいる間、ユウはどこに行くのか。そして、なにを考えるのか。
思い出せる? それは、本当に思い出してもいいこと?
ユウは病衣を着て、シーツに包まって……そんな格好のまま幽霊になってしまっているのに。