学校へ到着した頃には、雨はすでに本降りだった。
 雨音が窓越しに響く中、授業を受ける。鉛筆をノートに滑らせ、板書を取りながら、むしろ私は冷静になっていた。間もなくやってくる期末試験の日程について、それから試験の対策について、あれこれと考えを巡らせられる程度には。
 そのほうが、いっそ気が楽だったからかもしれない。

 帰りは、ひとりで帰ることにした。
 花梨に相談しようかとも思ったけれど、相談すべき内容がまとまっていない。なにから切り出せばいいかも判断がつかないこんな状態で、花梨を困惑させると分かっていて相談を持ちかけるのは、さすがに気が引けてしまう。
 傘を差し、やや足早に歩を進めていく。歩きながら、私は朝のハルキの言葉を反芻していた。

『死んだじいちゃんの夢、見たんだ』

 ……あの日、あれほど派手に目を腫らしていた理由は、そんな夢を見たからだったのか。
 相手が喋っているだけの夢だと言っていた。たまに同じような夢を見る、とも。今朝話していたときは、「死」という言葉に対する戸惑いが大きく、詳細までは深く気に懸けられなかった。だが。

 夢の中で、ハルキは、亡くなったお祖父さんとどんな話をしたのか。
 あの目の腫れ方を思えば、きっと泣いたのだ。高校生にもなった男子があれほどまでに泣き腫らすほどの夢とは、一体どんなものなのか。
 そして、ハルキは目を腫らしていた日――お祖父さんの夢を見たという日に、七年前の噂の出処が自分ではないと断言した。いくら私が無視し続けてきたからとはいっても、これまでに一度たりとも否定しなかったことを、迷いのない目で「俺じゃない」と言いきった。
 もしかしたら、その夢の中で、ハルキは亡くなったお祖父さんに背中を押されるようなことを言われたのかもしれない。

「……はぁ」

 溜息が零れた。これ以上は、どれほど想像を巡らせても答えは出ないだろう。ハルキ本人に訊かなければ分からない。少々強引に、私は考えを切り上げた。
 ……あの後、途中まで並んで歩きながら、ハルキは何度か咳き込んでいた。風邪だろうかと思ったが、本人に詳細を尋ねるには至らなかった。尋ねようか迷っているうち、分岐路に到着したためだ。
 あれほど毛嫌いしていたハルキの体調を、こうして気遣っている。あと少し勇気があればきちんと謝れる気がするのに、結局、今日も私はそれができずじまいで分かれ道に差しかかってしまった。

 黙ったきり、大通りから小道に入り、歩みを進めていく。前方に児童公園の垣根が見えてきた。途端に、軋むように胸が痛む。
 児童公園の前は、できるだけ速やかに通過してしまいたかった。
 もう期待はできない。期待することが怖い。ユウに会えたとして、なにを話せばいいのかも分からない。なにより、どうして朝に私を無視していなくなったのか、責めてしまいそうで怖かった。

 祠の前を通り過ぎる。お爺さん幽霊の姿は、今日は見えない。今にも消え入りそうな白いまりも然としたお爺さん幽霊を思い、息が詰まった。
 お爺さん幽霊も、もちろんユウ自身も、あるべき場所へ向かおうというときに、わざわざ私に断りを入れなければならないわけではない。なんの前触れもなく二度と会えなくなる可能性のほうが高いと、改めて思い知る。彼らは、人間ではなく幽霊なのだから。
 俯きかけた視線を上向け、私は児童公園の横を通過していく……とそのとき、東屋のほうから、ふわふわと白い球体が泳いでくるさまが横目に入り込んだ。

 はっとした。お爺さん幽霊だ。
 白いそれは、垣根の傍までゆっくり進んでくる。そしてそこを跨ぐことなく、立ち止まって動けずにいる私へ声をかけてきた。

『おうおう、お嬢さん。待っとったよ』
「あ……ええと。お久しぶりです」

 お爺さん幽霊の姿は、私の握り拳にも及ばないほど小さくなっていた。楽しそうな声は相変わらずなのに、居た堪れなくなる。
 声は依然としてはっきり聞こえる。前にも同じことを思った。お爺さん幽霊は、声も外見も、ユウとは真逆なのだと。
 胸の奥がずきりと痛み、私は傘の柄を強く握り直した。そんな私の内心に気づいてはいないだろうお爺さん幽霊は、カカ、と笑い声をあげた後、やはり楽しそうに続けた。

『どうだい、あれから仲直りはしたんか』
「え……と。誰と?」
『誰って、あの兄ちゃんじゃよ』

 仲直り……ユウだろうか。
 兄ちゃん、という呼び方では、お爺さん幽霊がハルキとユウのどちらを指しているのか分かりにくい。

「……ほとんど会ってないよ」
『ありゃあ、そうじゃったか』
「一度だけ会ったけど……今朝。避けられちゃった。嫌われたのかもしれない」

 ふふ、と笑ったものの、暗くなった声の調子まではごまかしきれない。
 お爺さん幽霊はなにも言わない。彼に沈黙されると、そのまま消えてしまわれそうで不安になる。だから目を離せない。
 傘を傾けてでもじっと見つめていなければ。それに、大きな声を出して驚かせることは極力避けなければ。前回の失敗を思い出し、私は緊張しながらお爺さん幽霊に視線を定めていた。
 ふう、と、お爺さん幽霊は小さく息をついた。それは溜息とも深呼吸ともつかず、不安を煽られた私は、さらにお爺さん幽霊のふわふわとした姿を凝視する。

『わしは……なぁんでこんなところに留まってんのか、もう分からんのよ』

 独り言のようなお爺さん幽霊の声に、私は目を見開いた。
 初めて聞く声だった。誰かに伝えたいのか、別に伝わらなくてもいいのか、それすら判別に迷う静かな声。返事ができず、私は小さく「うん」とだけ返して続きを促す。

『住んどった家もどこかよう分からんし、家族のことなんかも碌に思い出せん。ならここにいる理由はねえ、そう思うんじゃよ、自分でも。……だがよ』

 大して強くもない風にふわふわと揺れるお爺さん幽霊は、まるで不安定だ。
 今にも飛んでいってしまいそうで心配になる。その姿が、すでに季節の過ぎたたんぽぽの綿毛を連想させ、胸が締めつけられる。

『お嬢さん。あいつは……迷ってるんじゃよ』

 あいつ、という代名詞がユウを指していると受け取っていいのか迷う。静かに続く話に、私は息を詰めて耳を寄せた。
 お爺さん幽霊は今、大切な話をしている。直感があった。黙って続く言葉を待っていると、お爺さん幽霊はふるふると左右に小さく揺れた後、再び話し始めた。

『帰っていいもんかどうか、自分のことなのによ、まるっきり自信がないんじゃなぁ。図体ばっかりでっかくなって、昔となんも変わっとらん』

 昔、という言い方が気に懸かった。
 ユウを、昔から知っているとでも言いたげな口ぶりだ。

「お爺さん……あの」
『もう少しな、もう少しだけでも……早く思い出せたら良かった。前も言ったかもしれんが、わしみたいなのはどうしたって忘れるばっかりなんじゃよ。けどなァ』

 長く話すと疲れるのかもしれない。お爺さん幽霊の言葉と言葉の間が、次第に大きくなっていく。
 わけが分からないほど不安を煽られていた。今、こうして喋っている最中に目の前で消えられたら、二度とお爺さん幽霊に会えなくなりそう……そんなことばかり考えてしまう。

『お嬢さんは、あいつがそうじゃねえってことは……もう知ってるな?』

 唐突に話を振られ、私はたじろいだ。

「……え?」
『お嬢さんが、ユウ、って呼んでるあいつじゃよ。あいつは忘れるどころか逆だ。あいつが忘れてることをいろいろ思い出せるように、お嬢さんが手伝ってやってるんじゃろ?』

 言葉が出てこず、私はこくりと頷いて返すに留めた。
 仕種はお爺さん幽霊にも見えたらしく、彼も『うん』と肯定の声をあげる。

『いやぁ、ほとんど思い出せとるはずなんじゃがなァ……背中押してやろうにもな、その背中があんまりガタガタ震えとって、わしゃ敵わんよ』

 背中を押す……その言葉の意味を取りあぐね、私はなにも言えずじまいだ。それに、ほとんど思い出せているはず、という言い方も衝撃的だった。
 今朝、ユウが消える直前に覗かせた顔を思い出す。前は見えなかった鼻筋が見えた。つまるところそれは、ユウが私の部屋で会ったときよりもさらに記憶を取り戻していることを示している。

『自信がねえんだ、あいつは。自分の場所に帰っていいのかどうか』
「……あ……」
『あのまんまじゃ、いずれは……わしらと同じになってしまうじゃろうなァ』

 ……わしらと、同じ。生きていた頃の記憶を忘れ、最後には消えていなくなってしまう幽霊と、同じになる。
 お爺さん幽霊の言葉の意味を理解した私は、背筋と頬を派手に強張らせた。そんな私に、垣根越しに話していたお爺さん幽霊がそっと寄ってくる。私が差す傘の中にすっぽりと入り込み、身を寄せてきた彼は、静かに呟いた。

『よおーく顔、見せとくれ。お嬢さん』

 今まで聞いた彼の声の、どれよりも優しい声だと思った。
 聞いているだけで涙が滲みそうになる、どこまでも穏やかな声。声を抑えなければと分かっているのに、私は叫ぶように口を開いてしまう。

「っ、お爺さん、待って。今の話って……」
『うんうん。あいつとはな、さっき話してきたんじゃあ、ちゃあんとな』

 お爺さん幽霊は、赤い傘の中で静かに揺れている。雨宿りでもしているみたいだ。優しい声は相変わらずで、私はただ黙って続きを聞くしかできない。
 お爺さん幽霊の話には脈絡がない。けれど同時に、今言われたことが先刻の話と深く関係しているようにも思える。彼の話を理解するためのなにかに、私こそが届いていない。そんな気がしてならなかった。お爺さん幽霊が知っていて私が知らない、そういうなにかがある。

 なにが足りていない?
 私は、なにを見落としてしまっている?

『お嬢さんが背中、押してやってくれんか。わしにはもう……時間がなくての』
「お爺さん」
『いやぁ、思い残したことも忘れる始末じゃよ。困ったもんだなァ、山積みだったと思ったんじゃが。そろそろなぁんも思い出せん……忘れるんじゃよ、幽霊ってもんは』

 ――ひとつずつひとつずつ、忘れてくんじゃあ。

 重なる。
 いつかのお爺さん幽霊の声と、今の声が。

『わしゃもうな、一回聞いた話もよう分からんぐらいなんじゃが、お嬢さんと……あれのことはな、気懸かりでならんかったんよ』

 喉の奥で声を詰まらせつつも、私は「あれ」という呼び方がひどく気に懸かっていた。
 随分親しい間柄であるような呼び方をする。「あいつ」とも呼んでいた。お爺さん幽霊は、ユウについて、まるで昔から見知った相手だと言わんばかりに話す。

「お爺さん……あの、私」

 なにか話していなければお爺さん幽霊が消えてしまいそうで、私はその不安を掻き消したいがためだけに口を開いた。なのに言葉が続かない。喉の奥に声を詰まらせたきり、私は黙らざるを得なくなる。
 自分がどんな顔をしているかは分からなかったけれど、お爺さん幽霊には私の顔が見えているのだろう。カカ、とまた声をあげて笑った彼は、小さなまりも状の身体を、さっきまで以上にぼやけさせながら続けた。

『そろそろお別れじゃなァ、お嬢さん』
「っ、待ってお爺さん、私……ッ」
『すまんの。今日はな、最初からお別れのつもりでおったんじゃあ』
「お爺さん!」

 周囲に気を配るなど、もはやできそうになかった。
 傘の中で、私はお爺さん幽霊に手を伸ばす。しかし、指は彼を素通りしてしまう。あ、と呟いたときには、私の目にはすでに白いまりも状のそれは見えなくなっていた。

『よそのじじいの話、ちゃんと聞いてくれてどうもな。お嬢さん』

 なにも見えないのに、最後に声だけが聞こえた。
 その場にうずくまりそうになったところを堪え、私は力が入らない膝に神経を集中させる。いつもと同じ消え方に見えなくもなかった。お爺さん幽霊は、雨が降っていても消えることがあったから。
 でも、今日は違う。彼は「お別れ」と言った。つまりはそういうことだ。私がお爺さん幽霊と顔を合わせる機会は、もう二度とない。

 吐き出す息が震えてならなかった。傘を持つ手が痺れ、気をつけていないと、この雨の中だというのに取り落としてしまいそうだ。
 空いた手を添えて傘を握り直す。そのときに触れた自分の片手は、この季節では考えがたいくらいに冷えきっていた。

「……お爺さん」

 知らず声が零れた。
 幽霊は、おそらく最後にはああいうふうに消える。もう会えない。そもそも、人と幽霊が縁で繋がるなどあり得ない。
 私こそが異常なのだ。そして私は、ユウがあんなふうに消えられるようにと手助けをしていた。それがどれほどの意味を持っていたのか、今頃になって思い知る。

 しかも、途中から手伝いを放棄したがって……最低だ。
 なにも分かっていない。分かっていないまま、好きだとか離れたくないとか、そんなことばかり考えていた。身勝手だ。思えば小学時代から、あるいはもっと前から、私はずっと身勝手な人間だった気もする。

『背中、押してやってくれんか』

 お爺さん幽霊の言葉を思い出す。思いつくままに呟いているようで、それでいて意味がないとは思えない。むしろ重要な意味を孕んでいるだろう言葉をいくつも残し、彼は私の前から消えてしまった。
 視界が次第に滲んでいく。自分が泣いているのだと、一拍置いてから気づいた。
 酔っ払いのおじさんから助けてもらったときにも、朝にユウから無視されたときにも、結局は零れなかった涙――それがぽろりと目尻から溢れ、革靴の上で弾けた。

 私がユウにしてあげられることなんて、きっと、最初からほとんどなかった。
 記憶を取り戻す手伝いだって、言うほどなにかしたわけではない。きっかけは幾度か与えられていたかもしれないが、いつも最後にはユウが自分自身の意志で見つけ、取り戻してきた。
 自分の足で公園の外に出たり、バスに乗って市立病院まで足を運んだり……私が「そうしたほうが良い」と勧めたことではなく、ユウが自らやろうと思ってやったことばかり。私と出会わなかったとして、ユウは自力で記憶を取り戻せていたのかもしれない。

 ……帰らなければと思う。
 粒を大きくした雨が、肌の、衣服に守られていない部分をしっとりと濡らす。これではまた風邪をひきかねない。
 確かにそう思うのに、鉛でも詰められたかのように足が重い。視界を涙で潤ませたきり、私はすっかり途方に暮れてしまっていた。