あの後、ユウは雨がやむよりも先に帰った。
 帰りは玄関から見送った。あれほど人間らしい形になってきたユウを、二階の窓から帰らせるという選択がためらわれたからだ。玄関のドアをすり抜けることはできなかったらしい。窓もすり抜けられなかったもんな、とぼんやり思ったことを妙にはっきり覚えている。
 ユウの口の形を思い出すたび、胸がぎりぎりと痛む。どんどん人間らしくなっていく。実際には元に戻っているだけなのだろうが、私は元々のユウを知らない。だから、ユウが別のなにかに変わっていっている気がしてしまう。

 顔や声も、いつかは判別のつく日が来るのだろうか。

 あの日の去り際、ユウは口元を緩ませて別れの言葉を口にした。笑えばそうと分かるくらいに表情豊かになったユウを、私は曖昧に笑い返して見送るしかできなかった。
 私にユウの目を確認できないだけで、ユウには目がある。視覚がある。私の顔だってきちんと見えているはずだ。先日も、黙り込む私に『具合でも悪いのか』と声をかけてきてくれたから、その認識は間違っていない。

 ユウは、どんな目をしているんだろう。
 見てみたい。口だけではなく、目も、鼻も、耳も。ひとりの人間であるユウと、真正面から向き合ってみたかった。
 けれど向き合ってどうなる。ユウが幽霊であることに変わりはない。彼は、いつかは消えてしまう。

 ああ、どうしたらユウとずっと一緒に過ごせるだろう。
 例えば、彼が記憶を取り戻すことを遮ったら?

 そう思いついた途端、辟易の溜息が零れた。
 ひたむきに自分の記憶を取り戻したがっているユウの姿を知っていて、私は、彼の望みと真逆のことを望もうとしている。こんなことばかり考えている私は、ユウの隣に立つにはふさわしくない。
 気が滅入る。憂鬱な気分に、拍車がかかった。


   *


 それから一週間、雨はわずかにも降らなかった。蒸し暑さは日に日に増していくものの、梅雨入りはまだ先になるらしい。
 空模様が怪しくなるたび期待をしては裏切られ、鬱々とした気分を引きずり続けていたが、木曜、ようやく午後から雨が降った。前回の雨からすでに十日以上が過ぎていた。
 花梨に「一緒に帰ろう」と誘われたが、断った。雨の日だけ、私は花梨の誘いを断り続けている。それももう三度目だ。申し訳なさは募る一方で、私は逃げるように昇降口を出た。

 小走りに児童公園へ向かったのに、公園内のどこにも、ユウの姿はなかった。
 落胆を抑えきれなかった。以前から、ここを訪れたときに彼がいないということはたびたびあった。仕方ないことだが、ショックには変わりない。
 雨の日くらい私を優先してほしい。もやもやした気分でそう思った直後、また自分勝手なことを考えているな、と辟易した。会えなかった寂しさと、我侭な自分自身への嫌悪感に揺さぶられ、溜息ひとつ出そうになくなる。

 沈んだ気分で帰路に就こうとした、そのときだった。
 ユウと初めて出会った電柱よりも、もっと手前。以前こそ通過の第一難関として身構えていたとはいえ、今や碌に気に留めず通過してばかりだった小さな祠――地蔵が三体並ぶその手前の側に、白い浮遊物が見えたのだ。

「……な……」

 思わず声が漏れ、はっとした。口元を押さえることで自分の反応をアピールしてはならないと思いながらも、声をあげてしまった以上はもう遅い。

 見えたのは、本当に小さな――直径二十センチほどの、球状の白いなにかだった。
 曖昧な輪郭の球が、ぼんやりと、そしてふわふわと浮いている。怪談などに出てくる「鬼火」と同じ類だろうか。もっとも、私は実際に鬼火を見たことがないから、正しい判断はつけられそうにない。
 ごくりと喉が鳴った。間違いなく幽霊だ。ユウと遭遇して以来、他の幽霊と鉢合わせるのは初めてだった。

『……おや?』

 あからさまにたじろいだせいか、相手は、私に自身が見えていると勘づいたようだった。
 迂闊(うかつ)だった。ユウに会うまでは、幽霊を警戒しない雨の日なんて一日だってなかったのに、こんなにも露骨に反応を示してしまった。

『おうおうお嬢さん、わしが見えるのかい』

 しまった、と思ったきり足を止めた私に、球体の幽霊は嬉々として話しかけてきた。
 ユウとは違い、声がくぐもっていない。(しわが)れた、お爺さんらしい声だ。姿こそ球状で、まただいぶ小さいが、どうやら人間の――それも年配の男性の幽霊らしい。姿が朧げなのに声は妙に鮮明で、ユウとはまるで逆だなと思う。
 声色を聞く限りでは優しそうで、いかにも好々爺といった印象だ。それもあってか、そのまま逃げ去るのはためらわれた。
 思えばユウだってそうだった。幽霊は、その多くが誰の目にも留めてもらえないわけで、あまり良いことではないと分かっていながらつい応じてしまう。

「見えますよ。ええと……お爺さん?」

 危機意識が薄れている自覚はあった。
 けれど、あまりに人の好さそうなお爺さん声だったから、気が抜けた。

『ほほ、じじいに見えるか』
「見え方は……そうでもないですけど、喋り方が。違ったらすみません」
『いやいや、当たりじゃよ~。なかなかやるのぅお嬢さん!』

 ……呑気な雰囲気の幽霊だ。
 もしかして、今まで見かけた幽霊たちも、みんなこんな感じだったんだろうか。恐怖のあまり、避け続けることばかりだったけれど。

『ときにお嬢さん。いつもあれじゃろ、そこの公園でよぉ……お友達かい? 喋ってる男の子、おるじゃろ』
「っ、え……」

 唐突に話を振られ、返事に詰まった。公園、男の子、それらのキーワードに当てはまる人物――厳密には人ではないが――はユウしかいない。
 だが、得体の知れない幽霊を相手に、果たして素直に打ち明けてもいいのか。もっとも、話している内容自体が「得体の知れない幽霊」の話題ではあるが……ふと心配を覚えた私が戸惑っているうち、お爺さん幽霊はどんどん喋り続ける。

『あの子はよぉ、気配っていうんかい? そういうのがわしらとは違うんじゃあ。なんちゅうかこう……若い! カッカカ!』
「は、はぁ」

 お爺さん幽霊は楽しそうだ。水を差す気にもなれず、私は曖昧な返事をするに留めた。
 実際、ユウは齢を取っているようには見えない。初見のときのユウ以上に朧げなこのお爺さん幽霊が、幾つのときに幽霊になったのかは分からないが、この幽霊に比べたら確かにユウはずっと若いだろう。
 お爺さん幽霊の話とその意味を、少々面食らいつつもなんとか噛み砕いていると、彼は丸い身体をふるふると揺らしながら続けた。

『あのな、お嬢さん。わしらみたいなモンはなぁ、大事な思い出もなんもかんもな、どんどん忘れてくもんなんじゃあ』
「は、……え?」

 意外な話題に移り変わり、私は素っ頓狂な声をあげてしまう。
 お爺さん幽霊はころころと話題を変える。周りに人影がないかと気を配っていたタイミングで話が切り替わり、反応が追いつかない。
 困惑を滲ませる私に気づいているのかいないのか、お爺さん幽霊はまたも一方的に喋り始める。

『人生ちゅうもんはよぉ、楽しいことも悔しいこともつらいことも、まぁいろいろあるじゃろ? 幸せなことなんかもなぁ』
「は、はい」
『そういうもんをな、ひとつずつひとつずつ忘れてくんじゃあ。わしみてぇによ、こうやってこの世に残っちまっとるとなァ』

 あ、と呟いたきり、私は言葉を失った。
 お爺さん幽霊が今話していることは、幽霊に関する、幽霊本人による情報だ。思いがけず貴重な話に触れ、私は小さく息を呑みながら、沈黙をもって続きを促す。

『そうやって忘れてってな、そんなのは寂しいんじゃねぇかと思うじゃろ? けどよォ、最後に残った一等(いっとう)大事なもんだけ抱えて新しい場所に行けるんじゃったらよ、そりゃあ幸せなことよなぁ』

 お爺さん幽霊の声は、さっきまでよりさらに優しく聞こえる。それなのに、寂しそうでもあった。
 お爺さん幽霊の人生観、あるいは幽霊としての有りようについて、軽々しく相槌を打つ気にはなれなかった。お爺さん幽霊は、お爺さんになるまでの間、私には想像もつかないほど多くの経験を積んだのだろう。だからこそ、彼の言葉にはひとつひとつすべてに重みがある。

 幸せなこと。大事なものだけ抱えて、新しい場所に。
 お爺さん幽霊の言葉が、ひとつずつ、頭の中の柔らかな部分に刺さる。刺さる……いや、沁みわたると言い表したほうが近いかもしれない。

『わしもよぉ、もう婆さんのことぐらいしか覚えとらんのよ。わしより早くいなくなった婆さんな。子供らも孫らも……そんな大事な奴らの顔も朧げなくらいだァ』

 お爺さん幽霊の口調が少し軽くなる。だからといって、私には気の利いた返事のひとつも思い浮かばない。「そうですか」と呆然と呟いて、それきりだ。
 忘れていく――ユウとは真逆だ。
 ユウは、なにも覚えていなかったところに、少しずつ記憶を取り戻していっている。けれど、お爺さんは忘れていくからこそ幽霊だという。そうやって、幽霊は、新しい場所に向かうのだと。

「あの。お爺さん」

 多分、彼はユウのことを知っている。児童公園で私たちが話している様子を、先刻、まるで眺めてでもいたかのような口ぶりで話していたから。
 私の友達、逆みたいなんです――そう伝えようと傘を傾け、私ははっとした。

「……あれ……?」

 すでに、私の傍にはお爺さん幽霊の姿がなかった。
 雨がやんでいないのに、どうして……そう思ったものの、おそらく幽霊は、雨だから確実に見えるものではないと思い至る。
 雨降りの条件は、単に私が見えるようになるためのカギでしかない。なにせ相手は幽霊だ。ユウでさえ、私の前に姿を見せないことがある。ユウ以上に気まぐれな幽霊だって、きっといる。むしろユウはマメなタイプだ。
 なにより、お爺さん幽霊は自分の記憶が朧げだと言った。そもそも不安定な状態にあるのかもしれないという想像は、簡単についた。

 ぼつぼつ、ぼつ。傘が雨を弾く。
 雨粒が載っている部分だけ傘の赤が濃くなって見え、そこをじっと見つめてしまう。耳に刺さる低い雨音を聞きながら、覚えた違和感を反芻する。どうしよう。どうにも拭いきれない。

『ひとつずつひとつずつ忘れてくんじゃあ』

 どうしてユウは、ひとつずつひとつずつ、忘れるどころか思い出している?
 お爺さん幽霊の話が、すべての幽霊に当てはまるとは限らない……だが。一度認識してしまった違和感は、払拭されるどころか大きくなっていくばかりだ。

 雨脚が徐々に強くなる。そろそろ帰らなければと思うのに、一瞬、児童公園の東屋まで戻ろうか迷った。今の話をユウに伝えたほうがいいのではと思ったからだ。
 だが、私は公園へ向かわなかった。
 お爺さん幽霊の情報は、本人には失礼かもしれないが、不確定な要素が多すぎる。そういう情報をユウに与えることが正しいとは思えなかった。以前にも、私はユウにデリカシーのない説明をして、彼をひどく戸惑わせてしまっている。

 考えていることのすべてを振り切るように、首を軽く横に振る。
 急いで帰ろう。傘を持ち直して踵を返し、前に向き直った――そのときだった。

「っ、あ……」

 知らず声が出ていた。一度は前を向いた視線が、激しく左右を泳ぐ。
 いつからそこにいたのか、前方には、黒い傘を差したハルキの姿があった。

「……お前、今、誰と話してたんだ」

 耳に届いた声がハルキのものだと、一拍置いてから思い至る。小学生の頃以来まともに喋っていない相手の声は、私が知るそれよりも遥かに低く、私は背筋を震わせた。
 ハルキの口調は、純粋に質問している感じではなかった。雨と傘が私たちの間に横たわり、相手の視線の鋭さを確かに和らげてくれているはずなのに、ぞくぞくと底冷えがしてくるようだ。
 睨みつけられた私は、ぴくりとも動けないまま、その場に立ち尽くすしかできなかった。