「よしよし。かわいいなあ、君」
猫の毛は本当に柔らかい。触っているだけで癒される。
家の前に、よくこの猫の姿を見かける。この辺りに住み着いているのかもしれない。人に対する警戒心が薄く、かつて飼い猫だったのではないかと想像しては胸の奥が痛む。人と別れる悲しみを知っている飼い猫より、人のぬくもりを知っている野良猫であってほしい。
ごろんと天に向けられた白と茶色の混じったお腹を、わしゃわしゃと撫でる。この猫は毛並みも悪くない。これに対して、ひとりで散歩に出かける飼い猫であることを願う身勝手。
自らも地べたに寝転んで、左手でふわふわを撫でながら右手でシャッターを切る。近頃、こういった構図が気に入っている。猫だけでも十分、いや十二分にいい写真が撮れる。それでも、敢えて人間の手を入れることに、はまっている。
猫に嫌がられるまで、写真を撮った。礼を言って起き上がり、カメラを提げたまま家の前を離れる。休日は忙しい。やりたいことがたくさんある。美術、歴史、料理の本を少しずつかじるように読み、音楽を聴き、写真を撮り、散歩をし、お腹が空いた頃に帰って、本を読んで気になった料理を作って食べる。日によっては、他にちょっとした絵を描いたり裁縫や編み物をすることもある。一日が二十四時間だなんて、いつ決まったのだろう。あと一時間だけでも長ければと、何度も思った。
母は包装用品を扱う会社でデザインを、父は保険会社で営業をしている。数年前、結婚記念日に贈り物をしたときに、共通の友達を介して出会ったと知った。人の繋がりは面白いものだと、再認識した。
何気なく空を見上げて、綺麗だと思ってカメラを構えた。その意識がふと、地上に引き戻された。見れば、幼い男の子が一人、立っていた。肩がひくひくと跳ねていて、両腕は顔の前で忙しなく動いている。
体が自然と歩き出して、少年の前にしゃがんだ。見上げた頬が濡れている。ひくひくと下手な呼吸を繰り返しながら、彼は腕を下ろす。
「どうしたの?」
「わかんない」
首を横に振ると、少年はしゅんと口角を下げて、ぼろぼろと涙をこぼした。柔らかそうな顔をくしゃくしゃにして、わんわん声を上げる。
おれは「大丈夫大丈夫」と肩を叩く。
「おうちがわからなくなっちゃった?」
少年はぶんぶんと首を横に振って、ずずっと洟を啜る。濡れた瞼が二重になっていて、真っ赤になった鼻が呼吸に合わせてひくひく膨らむ。
「お店……」
「お店?」おつかいだろうか。「どのお店に行きたいの?」
「おうち帰りたい……」
おつかい――ということでいいのだろうか。出かけてきたはいいけれど、心細くなってしまった、といったところか。
「お店はおうちの人に頼まれたの?」
うんと一つ、大きく頷く。
「でも……」と声が弱弱しくなる。「行けない……」
湿っぽくなった顔に、新しい涙が流れる。
「大丈夫だよ」と少年の細い体に腕をまわして、薄い背を叩く。
「大丈夫」
見れば、少年は水筒を提げていた。
「少しお水飲もう。ね」
大丈夫大丈夫、ともう一度背を叩く。
少年は水筒の中身を飲むと、ずずーっと洟を啜った。頬に残る涙を腕でごしごしと拭って、もう一度洟を啜る彼の頭を、「よしよし」と撫でた。へへ、と照れたように笑う少年の小さな顔に、胸がほっと温かくなる。
「ね、大丈夫でしょ」
こくんと少年は頷く。
「あのね、卵……卵とね、牛乳、買うの」
「そうなんだね。じゃあ、スーパーに行くの?」
「うん。やまあい」
「そっか。おうちはこの近く?」
「わかんない」
「どれくらい歩いたかな」
「わかんない。いっぱい歩いた」
また少年の顔が泣きそうになるので、「そっかそっか」と頭を撫でる。
「大丈夫。やまあいも行けるし、おうちにも帰れるよ」
「本当?」
「うん。やまあいはもう近くだもん。君が頑張ったからだよ」
えらいえらいと笑いかけると、少年もふにゃりと笑った。前歯が一本なかった。
「よし、じゃあお買い物して、おうち帰ろう」
「うん……。……ねえお兄ちゃん、一緒にきて……?」
「いいの?」
「うん、お兄ちゃんと一緒がいい」
「そっか」
よしよしと頭を撫でると、少年はふにゃりと笑った。
じゃあ行こうかと言って立ち上がり、おれは少年の手を取った。汗か涙か、少し湿った小さな手が、きゅっと握り返してきた。
少年の親御さんがなんと頼んだのか尋ねながら、買い物を済ませた。店を出ると、少年は「ありがとう」と無邪気に笑った。「おれはなにもしてないよ」と返す。「頑張ったのは君だもん」と、また頭を撫でた。
手を繋いで駐車場を歩きながら、「おうちはどっちの方?」と尋ねた。親御さんがこの幼い子供に買い物を頼むくらいだから、きっと近所なのだろう。家族で頻繁に使っている店のはずだ。
「おうちの人とくるときはどっちからくる?」
「あっち」と少年の指が行き先を示した。
「あっち」、「それからこっち」と、少年の歩みに迷いはなかった。
ふと、「あっ」と少年の意識を引くものがあった。草むらだった。
手を放してそちらへ駆け寄っていく少年に、「どうした?」と尋ねると、「クローバー生えてる!」と明るい声が答えた。
「おお、春だねえ」
「四つ葉あるかなあ?」とそばにしゃがむ少年に「どうだろうねえ」と返して、隣にしゃがむ。
柔らかく風が吹いて、足元の草花がのんびりと揺れる。いい天気だなと心地よく思っていると、「あった!」と声が上がった。
「おおすごい。よく見つけたね」
少年は小さな手に持った幸せを、こちらへ差し出した。
「お兄ちゃんにあげる」
「え、いいの?」
彼は「うん」と元気に、無邪気に、大きく頷いた。
「一緒にいてくれてありがとうの印だよ」
「そっか」と少年の幸せを受け取って、足元のクローバーへ視線を落とす。視野の広さにはいささか自信がある。集中力も人並み以上にあると思っている。
「おっ、あった」
青い幸せを摘み取って、少年へ差し出す。彼はきょとんとした顔をする。
「なんで?」
「お買い物を頑張った印だよ。それから、道に迷わないお守り」
少年はこぢんまりした指先でささやかな幸福を受け取ると、「へへ」とかわいらしく笑った。
「お兄ちゃん、お名前なんていうの?」
「え? ああ、高野山空だよ」
「たかのやま、そら?」
「そう」
「お空の空?」
少年につられて、穏やかに青く染まった空を見上げる。
「そう。お空の空」
そう、空だ。今のおれは、空っぽ――なんてことはない。少年を家に送り届けるまでは、ちゃんと、意志がある。
近頃、怖いものがたくさんある。なにが怖いのかわからない。どうして怖いのかわからない。けれど、いろんなものが、自分の近くにあるありとあらゆるものが、どうしようもなく怖い。
右手の薬指がとても太い。固定サポーターを着けているので、ぼってりしている。他の指に比べてとても重い。雨の日に足を滑らせて転倒し、突き指した。幸い大事には至らず、一か月もせずにサポーターを外せる。
人までの距離が、とても遠く感じる。それは当然、手を伸ばせば触れることもできるし、声をかければ話だってできる。けれど、そこまでの距離がとても遠い。手を伸ばすのに、声を出すのに、大きな勇気を要する。その奥で密かに眠る理由を、私は今日も知らずにいる。
友達は少なくなかった。けれどみんな、私と違ってなにかしらの分野に秀でたものがあった。ある人は運動、ある人は学問、またある人は、芸術。だからみんな、違う高校を受験した。みんな、どう過ごしているのだろう。サッカー選手を目指していた彼女は、数学者を目指していた彼女は、声楽家を目指していた彼女は、どんな日常を送っているのだろう。
私は五歳の頃から二年前まで、ピアノを習っていた。ピアニストを目指していた時期もあった。けれど、この人には敵わないと思う人に出会った。その人も女性だった。日本人で、誕生日も近くて、年齢はまるで変わらないようなものだった。両親も親戚もみんな会社務めで、身近に音楽家なんて一人もいないらしかった。私と、なにも違わなかった。
敢えて違うところを挙げるとしたら、彼女はとてもかわいい声をしていた。ふんわりしたワンピースが、一面に広がる花畑が、草花の冠が、両腕に抱くくまのぬいぐるみが似合うような、そんな声をしていた。けれどそれが、ピアノの音と関係があるとは思えなかった。才能――というものを信じる他なかった。
前兆は、その頃からあったのかもしれない。彼女に対して負けを認めて、ピアノを諦めると決めて、なにも感じなかった。悔しい、悲しい、そんな未練がましいものを、なに一つ感じなかった。ああ、すごい人がいるんだと思った。才能の差というのは本当にあるんだなと思った。けれどそれ以上には、なにも感じなかった。彼女に対する嫉妬が、微塵もなかった。
ピアニストは本気で目指していた。この世界にある美しい音の連なりを、自らの手で描きたいと思った。それをたくさんの人に聴いてもらえるなんてどれほど幸せだろうと思っていた。それでも、辞める時、なにも感じなかった。プロでなくともピアノは弾けるという感覚が強かった。
それを理解した時、そんな自分がどうしようもなく怖かった。日々のすべてだったピアノの世界を離れると決めてもなにも感じない自分が、怖くて仕方なかった。自分がとんでもなく冷徹なような、人の心を失った人間以外のなにかのような気がしてならなかった。
自分がなにを考えているのか、わからない。
リビングでは、心地いい音量でピアノの音が流れていた。AVデッキの両脇にでんと構えたスピーカーと、壁に掛かったスピーカーから。クロード・ドビュッシーの月の光。ベルガマスク組曲の第三曲。
こたつから、「おはよう」と迎える母の声。タートルネックの、淡い緑色のニットを着ている。先日完成したと言っていた。
「とっくに四月に入ったっていうのに、今日も冷えてるねえ。お茶飲む?」
「うん」
わかった、と母は立ち上がり、キッチンへ入っていく。静かに歩く足元で、淡いベージュのスカートがひらりひらりと揺れる。
湯を沸かす音、食器棚の開く音、食器同士が当たる音。どれもがすぐ近くのキッチンから聞こえているのに、どこか遠くから聞こえているように感じる。
ギャッベ柄の布団を広げたこたつの上に、小説が載っている。母が気に入っているシリーズの一冊。
私は大窓のそばに置いてあるロッキングチェアに腰掛けた。背もたれに体を預け、ゆらりゆらりと前後に揺られる。雪の降る音でも聞こえてきそうな曇天から、こたつの上の小説から目を逸らすように、上と下の瞼を合わせた。
あの頃は、嫉妬、羨望、そのどちらも微塵も感じなかったのに、近頃はその両方を、いろんな人に対して、強く感じる。それは実在する人に限らず、物語の中の人にまで、だ。そんな気持ちを掻き立てる物語が、今は怖い。
ふわりといい香りが流れてくる。きっとすぐ近くのキッチンから、遠く離れたどこかから。
「どうぞ」と声がして瞼を離すと、母がティーカップの載ったソーサーを差し出していた。お礼を言って受け取る。
「チーズケーキ食べる? さっき作って、まだ温かいと思うよ」
「食べようかな」
母は静かに頷いて、再びキッチンに入っていく。
私は椅子から腰を上げて、こたつ布団の中に脚を入れた。ほかあっと暖かくて、凍てついたような素足が溶けていくように心地いい。
紅茶を一口飲んで、「はい」と差し出される皿を受け取る。裏側がまだ温かい。
母が正面からもぞもぞとこたつに入ってくる。脚を曲げる必要はない。数年前にこの大きなこたつに買い替えたけれど、やはりこれくらいの大きさがあった方がいい。以前のものでは、家族三人も入れば脚は正座か胡坐にしなければならないようだった。
「もう日曜日か。また明日から学校だね」
「うん」
私はチーズケーキを一口、口に入れた。過去に洋菓子店で商品を作っていた経験がある上、趣味がお菓子作りというだけあって、母の作るお菓子はおいしい。
「まだ冷めてないでしょう」
「うん」
「学校はどう?」
「普通に楽しいよ」
「勉強も大丈夫?」
「まあ、人並みに」
「そっか。それはよかった」
母がティーカップに口をつけるのと同時に、私はチーズケーキを口に入れた。
「……おいしい」
母が穏やかに、控えめに、笑うのを感じた。
母は小説を開いた。ただ静かに、ピアノの音が流れる。私のとは違う、ピアノの音。この部屋にあるピアノとは違う音。
「四葉ちゃんは、今、どうしてるんだろうね」
あの、才能を持った人は今、どんな日常を過ごしているのだろう。
「どうだろうねえ。ピアノやってるんじゃない?」
母は目線から文庫本を下ろして、穏やかな表情をした。
「後悔してるの?」
「ううん」
そういうわけではない。後悔なんて、恐ろしいくらいしていない。同じように、やはり未練もない。それでも、私は確かに変わってしまった。
「ただ、羨ましいなって」
「羨ましい?」
「好きなことがある人って、やりたいことに突っ走ってる人って、羨ましい」
「千歳はないの?」
「うん」
私はチーズケーキを口に入れる。それを飲み込んで、紅茶を含む。
「そう」と言った母の声は、温かかった。
「それなら、ゆっくり探せばいい。本当に好きなことを、本当にやりたいことを。それが見つかったなら、あとは楽しむだけ」
胸の奥がどうしようもなく痒くなって、唇を噛む。
「……見つからなかったら?」
「そんなことないわよ。きっと見つかる。だって、世の中にどれだけのものが、ことがあると思ってるの? 知らない世界がいっぱいある。そのうちのたった一つよ? 飛び込んでみたい場所くらい、あるはずじゃない」
「……そうかな」
私は、自分がわからないのだ。なにを考えているのか、なにを求めているのか。そんな私に、飛び込んでみたい世界など見つけられるのだろうか。そうは思えない。だって――。
もしも――。
「もしも」と言う母の声が大きく聞こえて、はっとした。
「そんなことはないわよ。入っていく世界を間違えて、自分が壊れるなんて。そんなことはない。それより先に出てくればいいのよ。だって、世界はたっくさんあるんだから。本当に自分に合う世界を見つけるまで、旅をすればいい」
「……切符がなかったら?」
「切符?……そんなもの、誰でも持ってるじゃない。それも、一枚で一駅先から地球の果てまで行ける特別な切符」
「その、降り立った世界に拒絶されたら?」
「それでその人が切符を持っていないことになるなら、人間誰だって、切符なんて御大層なもの持ってないわよ。そこの人にアポも取ってない」
大丈夫、と母は言った。
「切符に行き先が書いてないのは、あなただけじゃない」
みんながそれぞれ一人旅をしているの、だから一人じゃない、と。
「着いたーっ」
駅を出て、思い切り伸びをする。電車は比較的空いていたけれど、頻繁に乗るわけではないので、やはり体が硬くなる。電車に乗ることが日常の一部、なんておしゃれな暮らしはしていない。
月に入って初めての土曜日。白のブラウスにデニムのオーバーオール、桃色のお財布ショルダーに足元は黒のスニーカー。髪の毛はヘアバンドでまとめている。一週間ぶりの買い物、一週間ぶりのおしゃれ。そう、たとえこれが、世間的には評価すべき点がなくとも、私にとってはおしゃれなのだ。
体中で楽しみが燻っている。――我が愛しのくまちゃんよ、今しばらく待っておれ。すぐに私がこの両腕で抱きしめてやろう。
押村明美、十六歳。平凡な高校生である。友達によく、「テディっておじさんみたい」と言われるけれども、ぴちぴちの十六歳、ジェーケーである。……こういうところがおじさん臭いのだとよく言われる。
くまのぬいぐるみを深く愛すのが、親しい友達にテディと呼ばれる所以。一時は、あまりにおじさん臭いという理由から「吾輩」とも呼ばれた。しかしあいにく、私は猫ではないし、他の言語を自由に使えるほど賢くもない。そもそもあの猫について、吾輩を一人称とすること以外、なにも知らない。
私は強く強く、地面を蹴る。くまちゃんとの素敵な出会いを求めて。
くまのぬいぐるみというのはどうしてああもかわいいのだろう。このお財布ショルダーに限らず、持ち物のほとんどにテディベアのストラップをつけているけれど、いくらあっても困らない。ベッドにもたくさんのぬいぐるみがあるけれど、まだ増えても困らない。
本当のくまはおっかねえぞ、というのは、父方の祖父の口癖のようなもの。父の実家は、ここよりも少し北にある田舎で、祖父はある日、森の中でくまさんに出会ったらしい。幸い、くまは数メートル先から数秒間、祖父を見つめただけで引っ掻きも噛みもしなかったらしいのだけれど。祖父は恐ろしくて堪らなかったらしく、なにかにつけて本当のくまは――と話す。
確かに、本当の――というか、野生のくまはおっかないだろう。けれど、ぬいぐるみはどうしようもなくかわいい。どうせなら大還暦を迎えてからであってほしいけれど、来たる永遠の時には、お腹の上で手を組むのではなく、両腕にくまのぬいぐるみを抱かせて、生花ではなくくまのぬいぐるみで囲んでほしいと思っている。
くま、くま、と心の中で思いつくまま歌にする。
「ああっ……」
今日はいい出会いがある気がする。この感覚が堪らなく好きだ。