それは、どうということもない、小さな二本の木の枝だった。だけど、この枝の香りから離れられない。

 枝の一本を咥えてベッドへ飛び乗る。齧って、顔を擦り付けて、シーツにゴロゴロ転がった。

「ニャァアン……ニャア」

 ふわふわした雲の中にいるような気持になる。世界で一番幸せなのは私なんだと思える。そう言えばここはどこだっただろう。私は何をしに来たんだろうか――記憶や自我すら曖昧になっていって、二つの疑問も霧みたいに薄くなっていった。

 それからどれだけの時が過ぎたのだろうか。扉が静かに開けられ誰かが入って来る。でも、私にはぼんやりとした影にしか見えなかった。蕩け切った心では警戒心も沸かない。むしろ、一緒に楽しもうという気分で声を掛けた。

「ニャァァ……ニュフフ」

「……!? アイラ!?」

 影は一瞬狼狽えたのちに、「ふむ」と顎に手を当てた。

「なぜ君がこんなところに……。ああ、今日は清掃担当でしたか」

 私を見て、木の枝を見て苦笑する。

「……マタタビを見つけてしまったか。獣化して嗅覚が鋭くなったようですね」

 影はベッドに近づき腰掛けると、仰向けになった私のお腹を撫でた。くすぐったくてあったかくておかしい。ところが、私の口から出のは笑い声ではなく、「ゴロゴロ」と猫が喉を鳴らすような音だった。

 一体どういうことなのだろうか。ああ、そうか、これも夢なのね。いつかの猫になった夢の続きだ。白黒ハチワレの靴下猫だったっけ。
 
 だったら思い切り甘えちゃおうと、私は影の膝に飛び乗った。

 誰かにうんと可愛がられたい気分だったのだ。

「アイラ……!?」

 体を伸ばして影の頬に顔を擦り付けた。その拍子に唇と唇が触れ合う。影が一瞬目を見開いた気がした。すると、体が今度は軽く軋んだ音を立てながら、あっと言う間に大きくなってしまったのだ。

「あーれぇ……?」

 視線がなんだか高くなったような……。それに、人間の声に戻ったような。おまけに、目の前ではアトス様が目を見開いている。私は、なんとアトス様の首と背に手を回して、睫毛の触れ合う距離で見つめ合っていた。

「……」

「……」

 私たちは約一分間無言だった。先に口を開いたのはアトス様だ。

「……マタタビに酔うと獣化が不安定になるようですね。さすがに、全裸に猫耳は私の目にも毒だ」

「……? ……? ……?」

 獣化ってなんだろうと思ったものの、どうせこれは夢の中なのだからいいやと笑う。

「アトス様ぁ……」

 私は遠慮なくアトス様の胸に縋り付いて顔を擦り付けた。

 アトス様からはいつかのようなお日様のにおいがする。あの木の枝と同じくらいこのにおいも好きだ。

「好き。好き。大好きぃ……」

「アイラ……」

 アトス様が手を伸ばして私の頬に手を当てた。

「いくら君が酔っているとわかっていても、私も自分が止められなくなることもあるのだが……」

 きらりと目を開かせたかと思うと、眼鏡を外し枕の横にそっと置く。

「……こうなっているのはマタタビが原因なのだとすれば、君は私以外の男でも、それさえあれば疑似的に発情するということになるな」

 私は言っていることがわからずに首を傾げた。

 疑似的? はつじょう? なんだか難しい。

「それは困る。……非常に困る。気が狂ってしまいそうだ」

 アトス様は「どうしたものか」と呟きつつ、私の顎の下を指先で掻いてくれた。それがたまらなく気持ちいい。

「そこ、大好き……すごく、好き……。もっとお願い……」

 お礼とお返しと催促のつもりでぺろりと頬と唇を舐める。

「アイラ……」

 アトス様は私を胸に強く抱き締めた。

「食後のデザートというには、少々甘すぎる気がしますね……」

 アトス様はそう耳元に囁いてローブの襟元に手を掛けた。

 ローブの下は長袖の白いシャツで、それが意外にしっかりした肩幅を強調していた。細身に見えたけれども着痩せするんだと感心する。

「すーつのわいしゃつみたい……」

 セクシーだなあとへらへら笑う。

「……? スーツ?」

 アトス様は脱いだローブでそっと私を覆ってくれた。

「……非常に残念ではあるのですが、私はなし崩しという言葉を好みませんし、ここで欲望の赴くままに君に手を出し、正気に戻った後で拒絶されるのは本意ではありません」

「……にゃ?」

 一体何を言っているのかよくわからない。アトス様は相変わらずクールな顔で語り続ける。

「……猫族は獣人の中でも特に気まぐれで、意に反する行為をことさら嫌う。今逃げられてしまっては元も子もない」

 アトス様は首を傾げる私の頬にそっと触れた。

「しかし、結婚まで君を放っておくわけにもいきませんね……このままではどんな男に狙われるかもわからない。だが、私も欠かさず君のそばにいるわけにもいかない。代わりに……」

 指先で宙にすっと何本か線を描く。すると、それはたちまち糸になって宙で瞬く間に編まれて、私の目と同じエメラルドグリーンのリボンになった。

 すごい、魔術ってこんなこともできるんだと感動する。

「これは守護のリボンです。君を身の危険からから守ってくれる」

 アトス様はリボンを私の首に蝶々結びにしてくれた。うわあ、可愛いと嬉しくなって笑う。

「……いや、首輪と言ったほうがいいか。アイラ、いいですか。他の男に気を許してはなりません。顎や腹を撫でさせるなどもっての他です。君をモフモフできるのは私だけの権利です」

 私は理由も意味も確認しないままに頷き、はーいと笑って手を上げた。

「わかりました~。私をモフモフできるのはアトス様だけの権利ですっ!!」

「いい子だ……約束ですよ」

 アトス様は唇の端だけで笑うと、額に軽くキスをしてくれた。

 猫じゃらしみたいにくすぐったくて気持ちがいい、ところが、一回で終わってしまったので、私は拗ねたような気持になった。

「どうしてやめちゃうの……?」

 もっとたくさんちゅってして欲しいのに。

 私はアトス様の首に手を回して、「お願い」とおねだりをする。すると、アトス様は苦笑しつつもまた私を抱き寄せた。

「君は悪い子ですね。この私の理性をいともたやすく崩してくれる。ですが、今日はもうお預けですよ」

 いい子だと褒められたと思ったら、今度は悪い子だと言われて混乱する。

「私、悪い子なんですか……?」

 私がしゅんとして尻尾を小刻みに動かすと、それに気づいたアトス様が焦った声を上げた。

「いや、君はいい子ですよ。……やはり猫は難しい。……そこがいいのだが」

 アトス様は体を離すと私の目に手を当てる。

「君も疲れているでしょうから、今日はもうゆっくりしなさい。君の上司には私が話してきますから」

「ええ、でも……」

「お休み、アイラ。よい夢を」

 瞼が徐々に重くなって耐えられないほど眠くなる。私はその眠気にロクに抵抗できないまま、アトス様の胸に体を預けたのだった。



――頭がズキズキして気持ちが悪い。前世で二日酔いになった時も、こんな気分だったような……。

 私はやっとの思いで目を覚ました。

「……!?」

 見慣れぬインテリアにぎょっとして飛び起きる。

 こ、ここはどこなのかしら!? 私がアイラなのは知っているけど……。

 ああ、恋人が誰なのかを探るために、アトス様の部屋に掃除の名目で立ち入って、コソ泥の真似をしていたのだと思い出した。

 自己嫌悪にどっと落ち込むのと同時に、現状を把握してぎょっとする。

 ……。私、どうしてアトス様のベッドで寝ているの? しかも、しっかりキルトまで被っているじゃないの!!

 まさか、まさかとは思うけど、このベッドで居眠りをしたとか!? 失礼どころの話じゃないわ!!

 泡を食って枕元の置時計を見てみると、あれからもう一時間半が過ぎていた。マリカ様に八時には一度来いと言われている。一分でも遅れると処刑されそうな勢いだから、急いで報告に行かなければならない。

 アトス様はまだ戻ってきていないのか、部屋には人の気配はなく私以外誰もいなかった。宮廷魔術師の夕食はそのまま会議になりがちなので、食堂で話し合いをしているのかもしれない。

 バレていないのならラッキーだ。ベッドを直して早く行こうとキルトを捲る。すると、ふわりとお日様のようなにおいがした。そのにおいにドキンと心臓が鳴る。

 これはアトス様のにおいなんだろうか。どうしてこんなに気になるんだろう。そう、もう前から知っているような……。

 そんなはずはないと首を振りベッドから降り、メイキングを手早く済ませ身なりを整えると、足音を忍ばせてアトス様の部屋から出た。

 どういうわけかマリカ様のところへ行く途中も、あのお日様のにおいを思い出すたびに、アトス様まで脳裏に浮かんで大変だった。心臓がまだドキドキとなっている。なぜこんな気持ちになるのかがさっぱり理解できなかった――