スズメに似た鳥の声が聞こえる。窓からは朝の弱い日の光が差し込んでいた。社畜メイドとしての一日の始まりだ。 

 私はベッドからむくりと起き上がると、ううんと背伸びと欠伸を同時にした。ナイトキャップを外して乱れた髪を櫛でまとめる。 

 ぐっすり眠ったからかいつもより気分がいい。あんな夢を見たからだろうかとちょっと戸惑った。

 猫になってアトス様に可愛がられるだなんて、どうしてアトス様だったんだろうか。斎藤さんちにお世話になるほうがまだ納得できる。

 ま、まさか、アイドルとか推しとか、お金の掛かりそうな存在には、そんなに興味なかったはずなのに、願望丸出しの夢に登場するくらいなんだから、結局私も面食いでアトス様が好きだったの!?

 少々動揺しつつもとにかく仕事に行かねばと、起き上がって布を手に裏口近くにある洗面所へ向かう。洗面所と言っても石造りの井戸と洗面台があって、そこで汲んだ水と石鹸で軽く洗うだけだ。王侯貴族なんかは水道の蛇口を使えるそうだけど……。

 私は取り敢えず桶を井戸に下ろして水を汲んだ。そして、水面に映った自分の姿を見てぎょっとする。

 えーっと、私の頭の上についている、この大きな黒い猫耳のようなものは何!? いや、猫耳そのものだよね!? 一体どこの世界の萌えキャラなの!?

 ところが、その猫耳は驚愕に手が震え、桶が揺れている間に消えていた。落ち着いた水面にはいつも通りの私の姿があった。当然猫耳なんてあるはずがない。

「は、ははは……。そうだよね。いくらなんでも猫耳なんてあるはずがないよね」

 きっとよっぽど疲れているか寝ぼけていたんだろう。それとも昨日の夢を引きずっているんだろうか。

 私は桶をうんしょと洗面台に持って行くと、冷たい水で思い切り顔を叩いた。

 ボケっとしている暇があれば気合を入れる!! どうせマリアさんにまたこき使われ、嫌味を言われるだろうしね、トホホ……。

――と、覚悟して担当の場所の聖堂に向かい、一時間ほど真面目に掃除をしていたものの、マリアさんとはまだ顔を合わせていない。

 いつもはこのくらいの時間に見回りに来て、ネチネチと日本のドラマの姑のように、あそこが汚れている、ここに埃がある、躾がなってないとお説教されるんだけど……。

 代わってやって来たのは三年先輩のエルマさんだった。この人は二十歳だけどもう結婚していてお子さんもいて、アトス様ってクールで素敵!だの、王太子殿下ってワイルド系よね!だのと騒いだりしないし、誰かをいじめることもない。

 私はステンドグラスを吹く手を止め、エルマさんに駆け寄って挨拶をした。

「エルマさん、おはようございます。マリアさんはどうしたんですか?」

「それがね、今日は欠勤なのよ」

「えっ!?」

 マリアさんが欠勤だなんて珍しい。何があったのかと目を丸くしていると、エルマさんは苦笑して溜め息を吐いた。

「ほら、昨日あの噂で持ち切りだったでしょう」

「……」

 私はこの一ヶ月はひたすら働いていたからか、仕事以外で人とほとんど話してなかったのだ……。

 エルマさんはすぐに事情を悟ったのか、「ごめんね」と顔を引き攣らせつつ、辺りに誰もいないのを確かめると、そっと私に耳打ちをした。

「アトス様、マリカ様との縁談を断ったらしいのよ。陛下に前々から持ち掛けられていたそうなんだけど、”私にはすでに心に決めた女性がいます”って答えたらしいわ」

 おまけにその女性には結婚を申し込むと宣言して、承諾を得次第、来年の春までには式を挙げたいと言っているんだそうだ。つまりはずっと付き合っていた恋人がいて、もう決まったようなものなのだろう。

「そっ……それは……。まさかそのショックで?」

 黙って頷くエルマさんを眺めながら、私はそんなことがあるのかと驚いていた。

「ショックを受けたのはマリアさんだけじゃないわ。マリカ様なんて荒れて荒れて大変だったそうよ。あの方って我が儘だし気性が激しいから、何しでかすかってハラハラしているのよ」

 第二王女のマリカ様は今年私と同じ十七歳になる。陛下の計画としては今年のうちに婚約、来年には結婚させるつもりだったらしい。マリカ様もすっかりそのつもりだったのだそうだ。

「王家との縁談を断るだなんて、アトス様、大丈夫なんでしょうか? クビになったり罰を受けたりしないのかしら」

「ああ、それはないわ。アトス様って実質的にカレリア一の魔術師だもの。あのヴァルトの再来って言われているくらいだから」

 エルマさんによれば魔術師としてのアトス様は、正直総帥よりずっとレベルが高い。総帥も早々に地位を譲りたいと言っているんだという。でも、総帥はアトス様のお師匠様でもあるから、アトス様自身が遠慮しているんだとか。

 ちなみに、ヴァルトとはすでにこの世にいない、カレリア、いや大陸一だと呼ばれていた魔術師だ。風属性の攻撃の魔術を得意としていて、「黒き風のヴァルト」なんて二つ名がついていたらしい。……前世の記憶がある私にはその中二感がちょっと辛い。彼一人で敵国の数部隊を壊滅させたこともあるんだとか。

 そうした性質の魔力と魔術から戦争で大活躍し、カレリアを現在の大国の地位にまで押し上げた。ところが、陛下が即位して間もなく不慮の事故で亡くなったんだそうだ。

 そのヴァルトの再来と言われているくらいなのだから、アトス様はあらためて手の届かないところにいるんだなと実感する。

 エルマさんは言葉を続けた。

「手放して、他国に引き抜かれてでもしたら大変でしょう。だから、その女性との仲を認めて優遇するしかないんじゃないかしら」

「……そうなんですか」

 これはさすがにマリアさんが気の毒だ。マリカ様なんてもっと悲惨だろう。それにしても、相手の女性は誰なんだろう。あのアトス様が夢中になるくらいだから、きっと美人でおしとやかなんだろうな。

 エルマさんは「とにかく」と腕を組んだ。

「あの様子じゃマリアさんは当分出てこないだろうし、あなたもこんなに朝早くから仕事に来ることはないわよ。明日からは皆と一緒の時間に出勤でいいからね」

 エルマさんが聖堂を立ち去ったあとも、私はなんとなく胸がモヤモヤとして、雑巾を持ったまましばらくそこに佇んでいた。

 いや、私には関係のないことでしょう? とにかく、メイドはメイドらしく働く働く!

 また無心かつ熱心に掃除をするうちに、アトス様の結婚も、振られたマリアさんもマリカ様も頭から消えていく。

 私は魂から社畜なのだと我ながら呆れるしかなかった……。