国境へと続く森に差し掛かった頃のことだろうか。私は不吉な予感を覚えてヴァルトに注意するよう告げた。

 猫族には野生のカンってものがあるの。人間はよく予知能力と呼んでいるわね。

 でも、ヴァルトは「私がいるから大丈夫」と笑うばかりだった。

 ヴァルトはその頃世界一の魔術師で、軍隊に匹敵する魔力があったわ。でも、私は不安を拭い切れなかった。

 予感が的中したことを悟ったのは、森の道も半ばにまで来た頃。周りの木が一斉に爆発して火を噴いたの。空気は乾燥していないし雷もなかったから、人為的なものだとしか思えなかった。火の勢いが強くて私たちはあっという間に火に巻かれてしまったわ。

 ヴァルトはすぐに魔術で火を消し止めようとした。雨雲を呼んで大雨を降らせたのよ。でも、私は滝のような雨を見てパニックになった。猫って水が苦手なのよ。

 私は猫に変身してその場から一目散に逃げ出した。「ミルヤ!」とヴァルトが私を呼び止める声も恐怖には敵わなかった。 

 それからどれだけ走り続けたのかは覚えていない。前も後ろもロクに見ていなかったから、倒れた木に勢いをつけたまま躓いて、そのままそばに流れていた川に落ちたの。

 私はあっという間に濁流に呑まれて意識を失った。そして、目覚めた時には人間に戻っていただけではなく、それまでの記憶を失っていたの。

 私が流れ着いたところは、国境沿いにある小さな村だった。「ここはどこ? 私は誰?」が第一声だったから、拾ってくれたお爺さん、お婆さんはさぞかし驚いたことでしょうね。

 でも、二人は優しく私を受け入れてくれた。お嬢さんが早くに亡くなっていたそうだから、私を生まれ変わりだと思ったのかもしれない。「行くところがないなら、うちにずっとおればええ」と慰めてくれた。

 こうして私はお爺さん、お婆さんのもとで暮らすことになった。ところで、猫族は基本的に気まぐれで、そこまで過去には執着がないの。だから、お爺さんとお婆さんとの平和な暮らしの中で、「何か忘れている気がするけど、まあこんでもいいか」ってな感じで、なんの憂いもなく呑気に暮らしていた。

 でも、二ヶ月目に仰天の事実が判明したの。お腹に赤ちゃんがいたのよ。それを知ったお爺さんとお婆さんは、「私が男に弄ばれ、身籠り、人生を悲観して川に身を投げた」と思ったみたい。「そんな男のことは忘れて、ここで産みなさい! あんたの子は私らの孫だ!」と慰めてくれた。

 私は何がなんだかわからなかったけれども、お腹の赤ちゃんにもう愛情が芽生えていたし、「よくわからんけどなんとかなるでしょ」って心境だった。猫族って種族全体の性質として、どこまでも楽観的なのよ。……アイラちゃんはどうもそうじゃないみたいだけど。

 赤ちゃんが生まれたのはそれから六ヶ月後。元気で可愛いタンザナイト色の髪と瞳の男の子だった。ところが、産んだ直後に私の体に異変が起こった。体が勝手に猫になってしまったの。

 お爺さんとお婆さんは私が猫になったのを目の当たりにして、「どひゃあ!」と驚きのあまりにひっくり返っていたわ。獣人の存在を知らなかったみたいね。私も自分が猫になったことにびっくりしていた。

 でも、お爺さんとお婆さんは年の功なのか、「まあ、こういうこともあるだろう」、とすぐに気を取り直していたわ。私もその様子を見て「まあ、いいか」という気分になって、その後も特に変わらず一緒に暮らした。と言うか、二人とも猫好きだったので、その後私は恩返しにモフられ役になるんだけど……。

 赤ちゃんはカレリア一高い山の名前を取って、「アトス」とお爺さんが名付けてくれた。「男なら出世して頂点を極めよ!」、みたいな意味らしい。

 ちなみに、アトスも小さい頃には黒猫に変身できた。ツヤッツヤの毛並みの真っ黒な長毛種、タンザナイト色の瞳の子猫を想像してみて。ぶっちゃけなくても鼻血が出そうでしょ? お爺さんとお婆さんと私はハァハァしながら、子猫なアトスをよくモフり倒していたわ。

 私たちはそれから三年間平和に暮らした。でも、アトスが三歳になるという頃に、お爺さんとお婆さんは立て続けに亡くなってしまった。二人は「人生の最後に願ってもない幸福を味わえた」とお礼を言ってくれた。それだけではなく、私たちに家と畑を遺してくれたの。

 その後の二人きりの暮らしは寂しかったけれども、お爺さんとお婆さんにおいのある家で安心して生活できた。でも、私は人間よりも猫の姿でいる時の方が多くなっていった。猫に変身するのはそうでもないのだけど、逆に人間に戻ると魔力を大量に消費して、ぐったりと疲れてしまうからなの。

 これは、濃くなり過ぎたペルシャン族の血のせいで、私の体が弱かったことが原因だと思うわ。体力を魔力で補ってなんとか生きていたのに、子どもを産んでそのバランスすら崩れたのでしょう。アトスが十歳を過ぎる頃には猫でいることがほとんどだった。

 でも、猫の前足では畑を耕せないし、アトスの世話をできない。その上もう一つ問題が発生していた。アトスは私とは逆に猫に変身できなくなって、代わりに日に日に魔力が強くなってきたの。魔術を知らない私から見ても、並みの魔力量ではなかった。

 どう育てたものかと悩んでいたある日、村に今までにない激しい雨が降ってきた。小さな川ができるほどの雨だった。そして、その流れを見た瞬間、記憶の洪水が私の頭を襲ってきたの。森でのこと、陛下のこと、ヴァルトのこと、私自身のこと――

「母さん、どうしたの? 雨なんて見て。濡れるから早く中に入りなよ」

 アトスが呆然とする猫の私を抱き上げて撫でてくれた。

「お腹空いたの? 待っていてね。僕、最近いいものを開発したんだ。ペースト状にした鳥のササミを貝のエキスで味付けして、小さな袋の中に入れたおやつ。ひねり出して食べるんだよ。母さんは絶対に好きだと思う」

「……」

 この頃私はスッゴイ危機感を覚えていた。アトスは自分が変身できなくなったのを大層悲しみ、代わりに私を猫っ可愛がりするようになっていたの。母の私をよ。猫向きの新製品を開発するくらいによ。

 マズい、このままではヘンなマザコンになるか、ヘンな女の子の趣味と性癖になってしまう……。私はアトスから離れなければと決心した。まあ、この時にはもう遅かったわけなんだけど……ハハハ。それに、今カレリアが、陛下が、ヴァルトがどうなっているのか、確かめに行かなければと思った。

 アトスを託せると思える相手は一人しかいなかった。私たちの事情を知っていて誰にも口外せず、アトスに魔術について指導できる人……。私はその日のうちに魔術師団総帥のクラウス様に手紙を書いた。