どうしてこんなところにおっさんが!?

 驚く私の入ったキャリーバッグを地面に置き、アトス様がゆっくりと振り返る。

「確かに私たちはカレリア出身の商人ではありますが、そのような疑いを受ける謂れはございませんよ」

「……私の目は誤魔化せんぞ。隣にいるその少年はマリカ王女だろう」

 おっさんの眼力の鋭さに目を剥く。マリカ様の男装はショタの入った美少年にしか見えなかったからだ。また、なぜマリカ様を知っているのかと首を傾げた。

 マリカ様の面が割れているのは、リンナではワンコ恐怖症のカイと、どM王太子を始めとする王宮の関係者だけのはずなのに。

 おっさんの左右には槍を持ち、殺気を放つ衛兵がずらりと並んでいる。武力に自信があるからだろう。おっさんは威圧的な口調で私たちにこう命じた。

「すぐにこちらに戻れ。今一度お前たちを取り調べる」

 ところが、これはヤバイと息を呑む私を横に、アトス様と部下はどこまでも冷静だった。アトス様は唇の端に笑みを浮かべてすらいる。

「その命令を聞くことはできませんね。私たちはすでにカレリアにいる」

 そう、たった一歩の差だけれども、私たちは確かに門の中央に引かれた国境線を越え、カレリア国内にいることになっている。

「あなたに他国にいる他国民に命令する権利はない。無理に我々連れ戻そうものなら、国際問題どころか、カレリアの宣戦布告の理由となるかもしれませんね?」

 この言葉には説得力があったらしく、衛兵らが動揺してざわめている。カレリアとの国力差は十分理解しているのだろう。おっさんはギリリと唇を噛み締めた。

「ようやく、ようやくこの機会を手に入れたのだ」

 低く唸るおっさんの足元から、ざわりと不吉な黒いつむじ風が起こり、束ねられた黒髪を舞い上げる。更には辺りにある石や草を巻き込み、次第に威力を増していき、しまいには竜巻クラスにまで成長した。

「くっ……」

 こちら側にもすごい勢いの風が吹いてきて、アトス様のローブもマリカ様の帽子も吹き飛ばされてしまう。ついでに私の入ったキャリーバッグも煽られてゴロゴロ転がった。一回転ごとに中でガン、ゴンと頭をぶつけ、目の前に火花が散る。

 誰か、誰か止めてぇぇぇえええ!! ただでさえマズい頭が更にマズくなるじゃないの!!!

 まさか、おっさんが魔術師だったとは!

 キャリーバッグが門の壁に当たってようやく止まった。その拍子に扉が開いて這う這うの体で外へと這い出す。ひどい目に遭ったと息を吐く暇もなく、おっさんが誰に向かってなのか、悲鳴とも怒声ともつかない声を上げた。

「私には、もう何も失うものはないのだ。今更引き返せるものか!!」

 そして、目を見張る私たちに向かって、激しく渦巻く竜巻を手から放ったのだ! 竜巻が宙でみるみる巨大なドラゴンを模り、地を揺るがす恐ろしい咆哮を上げ、私たちに鋭い牙を向けて迫る。

 ヤバい、逃げなくちゃと思うのに、風に飛ばされないよう地面に張り付くのに必死で、それ以上動けなくてどうにもならない。黒い風の竜が後一メートルと言うところにまで迫り、私は一貫の終わりだと目を固く閉じた。

 ところが、一分経っても二分経っても三分経っても何も起こらない。どうなったのかと恐る恐る目を開いて、信じられない光景に絶句した。

 アトス様がマリカ様と部下と私の前に、盾となったかのように立っている。前に伸ばされたその手の平からは、紫の竜巻がやっぱりドラゴンとなって、黒いドラゴンと国境線上で食らい合っていた。

 どちらも一歩も引かないところからして、竜巻の威力はほぼ同じなのだろう。この二人は互角なのだと二度驚く。だって、アトス様はカレリア一の魔術師で、黒き風のヴァルトの再来だと言われるほどで――

 部下も同じ心境だったらしい。壁に縋り付きつつ首を振っていた。

「嘘だ……。副総帥に匹敵する魔術師がいるなど」

 アトス様もおっさんも手抜きはしていないらしく、どちらの目も鋭く風の壁の向こうの互いを睨み合っているみたいだ。ところが、その均衡が時間が経つにつれて徐々に崩れてきた。紫のドラゴンが徐々に黒いドラゴンを押して行ったのだ。

「なっ……」

 おっさんの目が驚きに見開かれる。次の瞬間、アトス様のタンザナイト色の瞳に炎が灯り、その長い足で地面を力強く踏み締めた。

「私には、決して失いたくないものがあるのですよ……。人は、その方が強い!」

 紫のドラゴンが口を大きく開けて黒いドラゴンを飲み込む。黒いドラゴンは断末魔の叫びを上げたかと思うと、一瞬で風に分解されて綺麗に消滅してしまった。同時に、アトス様の紫のドラゴンも姿を消す。

 後には呆然とする私たちと衛兵、その場に両手、両足をついたおっさんが残された。

「そんな馬鹿な……。この私が敗れるなど……」

 おっさんはやっとと言った風に顔を上げた。次いで、アトス様の斜め後ろにいたマリカ様に目を向ける。おっさんの漆黒の瞳がギラリと光った。

「いいや、まだだ。若造、お前はまだまだ甘いな!」

 手を上げて再び風を集めようとしていたので、私はおっさんが今度はマリカ様を攻撃するつもりだと悟る。確かにこの中で一番弱く傷付けやすいのはマリカ様だ。逃げられる前に一人でもヤッておこうという根性なのだろう。

 こんニャろう! そうはさせるものか!

 私は全速力でマリカ様に駆け寄り、そのお腹にべったりと張り付いた!

 おっさんがあからさまに動揺する。

「きっ、君はあの時の猫ちゃん!? なっ、なぜ王女を庇うんだ!?」

 さあ、おっさん、ヤレるものならやってみろ! これぞ猫好きにしか通用しない盾!

 地球における紀元前五二五年の出来事であるニャ! ペルシャ帝国VSエジプト第二十六王朝との間で、ペルシウムの戦いという戦争があったニャ!

 当時エジプト人は度を越した猫好きだったニャ! 猫を聖獣にしただけでは飽き足らず、猫を殺した奴はリンチされて死刑という法律があり、挙句の果てに猫の神バステトの名前をいただいた都、ブバスティスを首都にまでしてしまったニャ!

 そんな変態レベルの猫好きを知ったペルシャ帝国軍は、盾に猫を縛り付けてエジプト軍が進軍できないようにしたニャ! 猫好きエジプト軍はお猫様を攻撃できるはずもなく、この戦争でエジプト第二十六王朝は滅亡してしまったんだニャ!

 おっさんが古代エジプト人レベルの変態なら、私が盾になっているマリカ様を攻撃できるはずがないんだニャ!

 歴史に倣った私の作戦はバッチリ当たり、おっさんはまた四つん這いになって苦悩していた。

「ひ、卑怯だぞ! 私が猫好きと知ってこんな手を使うとはっ!」

 アトス様はおっさんが猫好きと知って微妙な顔になっている。

「……そうですか。あなたも猫好きなんですか」

 衛兵らもどう反応していいのかわからないらしく、皆「えと……その……」と顔を見合わせ合っていた。そこに、第三の声が「待つんじゃ!」と割って入って来たのだ。なんと、アトス様のお師匠様でもあるカレリア魔術師団の総帥、クラウス・ラウリ・ヴァルハラだった。

 えっ、カレリア側からの迎えって総帥だったの!?

 総帥はアトス様とおっさんとの間に立ちはだかる。更に説教モードになっておっさんを叱りつけた。

「ヴァルト、リンナに寝返るとは情けない!」

 これには私だけではなくアトス様も部下も絶句した。

 ヴァルトってヴァルトって、まさか黒き風のヴァルト!? なら、アトス様のお父さんじゃない!

 総帥を目にしておっさんが息を呑む。

「そ、うすい……?」

 国境線に駆け付けてきたのは、魔術師団総帥だけではなかった。バタバタと何人もの足音がしたかと思うと、護衛と思しき何人かの騎士とともに、あのどM王太子も息せききって姿を現したのだ!

「でっ、殿下、なぜここに!?」

 おっさんがまん丸になった目をどM王太子に向ける。

 王太子はブタのマネまでしたどMのくせに、この時にはキリリとした顔でおっさんを叱った。どうもあの態度はマリカ様の前だけらしい。

「それは私のセリフだ。父上を唆しただけではない。この上民間人を攻撃するなど何を考えている!?」

「民間人ではございません! 奴らはカレリアの間諜です!」

 ヘマタイトの輝きを思わせる目が、きらりと冷たい光を放つ。

「例え間諜であったとしても、我々が民間人と判断してこの門を通した以上、民間人と見なすのが我が国の法だ。これ以上我が国を父上とお前の好きにさせるわけにはいかん」

 王太子は腕を組んでおっさんを睨み付けると、私たちにとっても仰天の宣言をした。

「父上は近頃どうも体調が悪い。そこで先日時間を掛けて説得した結果、来月には譲位していただくこととなった。手続きはまだ済んでいないが、現在私が国王代行として政務のすべてを取り仕切っている」

 ま、まさかの王太子によるクーデター!? これにはアトス様も目を剥いていた。

「お前にもはや宮廷における権力はない。また、法を犯した以上お前を逮捕しなければならなぬ」

 王太子の言葉におっさんの顔色がみるみる青ざめていく。

「なぜだ……。なぜ皆私の邪魔をする」

 もう反撃する気力もないのだろう。おっさんは頭をがっくりと落とし、騎士らに大人しく捕縛されたのだった。