もうひとつは誰のものだろうか。リンナの王太子と聞こえた気がしたけれども……。

 私はこっそり明かりのある牢に近付いた。

 牢と言っても鉄格子がある以外はホテルの一室のようで、前世の私の六畳一間のアパートよりよほど広い。

 絨毯が敷かれてベッドだって広いし、テーブルに椅子に鏡台まである! もちろん浴槽もトイレも完備されていた。

 マリカ様は人質だとは思えない態度だった。悠々とベッドに腰掛け、実に偉そうに足を組んで、見下した目つきをしている。

 その視線の先で立ち尽くしていたのは、ヘマタイトに似た濃い銀の髪に同じ色の瞳の、武術で鍛えた体付きの男の人だった。軍人を思わせる雰囲気だ。ふむ、硬派なイケメンで目を引くわ。あの人がリンナの王太子なのだろうか。

 パンとスープとワインの注がれたグラス、加えてソースを掛けたお肉に焼き野菜、更にケーキ入ったお盆を持っている。

 ちょっと待て。私のメイド時代の貧乏メシより、マリカ様の囚人メシのほうが豪華ってどういうことよ? これが庶民とセレブとの格差ってやつですかそうですか。

 リンナの王太子はテーブルにお盆を置いた。

「女が強がってどうする! ちょっと口を開けば一気に待遇が変わるんだぞ」

 マリカ様はフンと鼻を鳴らして顔を背ける。

「私が女ならリンナは取るに足らない小国よ。その小国にカレリアの情報を売れとか冗談じゃないわ。売ったところで安全が保証されるわけでもないしね。だったら機密を吐くよりも餓死を選ぶわ」

 私はマリカ様の言葉に目を見張った。

 すごい。マリカ様が王女様みたいに凛として見える!って、王女様だった。

 王太子のこめかみにピキピキと血管が浮かぶ。

「我が国を取るに足らない小国だと!?」

 敵国に監禁されている上に、強そうな男の人と二人きりだ。私だったらこれだけでチビっていただろう。しかし、マリカ様は鋼の精神をお持ちだった。

「私を騙して誘拐だなんて、こんなチンケな真似をしているところからして小国よ。みみっちい戦略しか立てられないからでしょ。物量でカレリアに敵わず、戦争になれば絶対に負けるのは、あなただってよーくわかっているんじゃないの」

 王太子がぐっと言葉に詰まる。マリカ様に言い負かされたからか、その表情は屈辱に歪んでいた。

「言わせておけば生意気な!」

「生意気で結構。私はカレリアの王族なのよ。いつもは好き勝手やっている分、こうなった時には死ぬ覚悟くらいできているわ」

 王太子はマリカ様を悔しそうに睨み付けていたけれども、やがてスプーンを手に取りマリカ様に近付いた。

「死なせはしないぞ。是が非でも食べてもらう」

 そして、力尽くでマリカ様にスープを食べさせようとしたのだ!

「私に触るんじゃないわよ!!」

 マリカ様が手を振り払うと、その勢いでお皿がはねのけられ、料理が絨毯の上にこぼれた。

 ああ、もったいないっ!

 王太子が「なんと言うことをするんだ!」と叫ぶ。

「痩せた土地でやっと育った、貴重な作物から作った料理なんだぞ」

 マリカ様は馬鹿にしたような顔で王太子を見上げた。

「私には関係ないことだわ」

「お前という奴は!」

「あら、貴重な料理なんでしょ? そのままにしておくの?」

 口調がすっかりどSな女王様……王女様のものになっている。

「農民の苦労をよくご存知の慈悲深い王太子殿下ですもの。まさか無駄にするだなんてことはないわよねえ?」

「そ、れは……」

「這いつくばって食べてみなさいよ。それとも、所詮は口だけ偉そうで、何もできないのかしら?」

「くっ!」

 王太子は震える拳をかたく握り締めながらも、なんと言われるままに四つん這いになったのだ!

 何が始まっているのかとゴクリと唾を飲み込む私をよそに、マリカ様の高笑いが地下牢に響き渡る。

「王太子なんていうご大層な身分はもったいないわね。あなたにはその豚のナリがお似合いよ! ブーと鳴いたらパンもくれてやってもいいわよ?」

 まさかそこまでと思った直後に王太子はホンマに鳴いた。

「くっ! ぶ、ブー……」

「オーッホッホッホ! 惨めなものね! 今どんな気持ち? その汚い口で説明してご覧なさい!」

「み、惨めだっ! な、なのに、嬉しいのはなぜだ。なぜなんだっ! こ、こんなの初めて……!」

 えーと、なんだかこのお二人、息ピッタリな気がするのは私だけでしょうか? 主にSM的な意味で。

 王太子はマリカ様にさんざん調教されたのち、恍惚とした表情で牢を出ていった。

 念のために十分待って、王太子が戻らないのを確かめてから、鉄格子の隙間に体をねじ込む。

 マリカ様がすぐに私に気付き、ベッドから腰を上げた。

「猫? どうしてこんなところに猫がいるのよ」

 私はその場でジャンプし、くるりと宙で一回転。人間のアイラに戻った。これにはマリカ様も仰天した。

「あなた、あのメイドじゃない!」

「お久しぶりでございます。その節はお世話になりましたでヤンス」

 私はヘコヘコ挨拶すると声を潜めた。

「あのう、お体の具合はいかがでしょう?」

 三日も食べていないと聞いている。さすがにこたえているだろう。

 マリカ様は戸惑っていたものの、すぐに気を取り直したらしく、「まあまあね」とツンとして答えた。

「いいダイエットになるわよ」

 とは言っても、これ以上の絶食はよくない。もってあと一、二日だろう。

「それより、どうしてあなたがここにいるの?」

 私は陛下がマリカ様救出のためにアトス様たちをリンナにやったこと、私がマリカ様を探すためにスパイになって忍び込んだことを説明した。

 マリカ様は信じられないと言った顔で私を凝視している。

「あなた馬鹿なの? そこまで関わっているのなら、私があなたに何をしようとしたのかもう知っているんじゃないの? なのに、私を助けようとするわけ?」

「はあ、まあ一応」

 だってユーリは無事だったし、私もこの通りピンピンしているしね。大切なのは動機でも過程でもなくて結果よ。私は刑事でも裁判官でもないのだし、それでいいのよ、うんうん。

 マリカ様はそれ以上何も言わない私に、呆れたように溜め息を吐いた。

「私なら絶対に許さないのに……」

 そして、どんな心境の変化があったのか、王宮に連れて来られてからのことを、事細かに話してくれたのだ。

 マリカ様はまず今いるところは違う、六畳一間どころかもっと狭い牢に、乱暴に放り込まれたらしい。更にそこで見知らぬおっさんに会わされた。陛下と張り合えるレベルのなかなかのイケオジだったとか。

 おっさんは冷たい目でマリカ様を見下ろして、「代わりに償ってもらう」と呟いたのだとか。

 マリカ様は何がなんだかわからないながらも、おっさんの醸し出す覚悟を決めた悲壮な雰囲気から、自分が生きて帰れるとは感じなかったそうだ。拷問されて殺されるのだろうと覚悟した。

 ところが、その夜牢をあの王太子が訪ねてきて、なぜか場所を移され、ついでにVIP待遇になったらしい。以来、昼夜ああやってマリカ様に会いに来るのだとか。

「あの男も何がしたいのか意味不明なのよね。カレリアの軍事情報を寄越せって脅す割には無理強いはしないし……」

 ただ、油断はならないから、食事も取らないようにしているのだとか。何が入っているのかわからないからだ。

 なるほど、あのSMプレイは王太子に毒味をさせるためだったのか! その割には生き生きと楽しそうだったけれども……。

 ともあれ、あの王太子がいる限りはマリカ様は無事みたい。でも、こんな不安定な状況では、やっぱりうかうかしてはいられない。早くマリカ様を救出しなくちゃ。

 私がこれから戻ってアトス様たちにマリカ様の居場所を伝え、助けに来ると説明すると、マリカ様は「わかったわ」と頷いた。

「あなたを信じているから」

 王女様にここまで言わせたのだもの。すぐにアトス様のもとに戻って、マリカ様をここから助け出すわよ!