この人いつの間に私の背後を取っていたんだろう。物音も気配もちっともしなかったのに……!!
こうして彼を間近にするのは三度目くらいだろうか。私はカレリアではどちらかといえば小柄だ。だから、その見上げるほどの身長にいつもびっくりする。
――アトス・イスト・ヴァルハラ。
宮廷魔術師の一人にしてカレリア魔術師団の副総帥。同時に、次期総帥間違いなしと言われている方だ。
この世界にも一応年功序列はあるんだけど、魔力量と魔術の技術が突出していたために、最年少の十八歳で管理職についたと聞いた。その後六年でとんとんと出世して今に至るんだそうだ。
スーパーエリートというだけではなく、顔も怖いくらいに整っているので、身分を問わずあらゆる女性に大人気。
確かにさらさらのタンザナイトのような青紫の髪も、手入れをした気配もないのに形のいい眉も、その下にある髪の色と同じ色の切れ長の目も魅力的だ。高い鼻梁と薄い唇は貴族のような高貴さと、学者のような知的な雰囲気があって、眼鏡がそれらの印象を強調している。宮廷魔術師の略装の一つである純白の詰襟のローブは、彼のために誂えられたのかと思うくらいだ。
でも、私はどうもアトス様が苦手だった。あまりに完璧すぎるからか、居心地が悪くなってしまうからだ。自意識過剰だとは思うんだけどね。こんなエリートがメイドを気に掛けるはずもないし。
ともあれ、身分がより上の方に出くわしたのだ。メイドとしてはまず挨拶をしなければならない。私は箒を両手に持ち替え深々と頭を下げた。
「おはようございます。会合までには間に合わせますので、ご安心ください」
アトス様は腕を組んで私を見下ろす。
「……これだけ広い部屋を一人で掃除をするなど、効率が悪いのではありませんか?」
「い、いや、そんなことないです。頑張ればできますよ」
「頑張ればできる、ね……。根性論は私がもっとも嫌うものの一つだ」
アトス様は低い声で「下がりなさい」と命じた。
「は、はい?」
声が怒ったように聞こえるのは気のせいだろうか?
「私がやりましょう」
「そんな! いけませんよ! 副総帥ともあろう方が……!」
「副総帥が掃除をしてはいけないという法律はカレリアにはありませんよ」
私が止める間もなくアトス様が手をかざす。すると、目の前につむじ風が巻き起こった。
「きゃっ……!」
結い上げていた髪が解けて髪留めの櫛が落ちてしまう。一方、風の渦はゴミや埃を巻き込んで室内をぐるりと一周し、三分もかからずに舐めたように綺麗にしてしまった。
「う、嘘……」
アトス様の魔術を見るのは初めてだけど、こんなに便利だとは思わなかったわ!
掃除が終わるとつむじ風はみるみる小さくなり、やがて幻だったかのように掻き消える。
アトス様は手を払って私に目を向けた。
「これでよし。君は寮へ戻ってゆっくり眠りなさい。おや、髪が解けてしまったようですね」
「い、いえ、大丈夫です。すぐ直せますから」
この数年忙しくて髪を切る暇もなくて、腰まで伸びてしまったから、どうもまとまりにくいのよね。
アトス様はしばらく私を眺めていたけど、やがて「ふむ」と頷きとんでもない提案をした。
「鏡がなければ難しいでしょう。後ろを向きなさい。私が直します」
「え、えええっ!?」
そんな、恐れ多過ぎて冗談じゃないわ。でも、宮廷魔術師に逆らうなんてありえない。
「これでも器用な方ですから安心して任せなさい」
い、いや、そういう問題じゃなくてですね……。
結局私は顔を赤くしたり青くしたりしながら後ろを向いた。
アトス様の長い指が私の髪を掬うのを感じる。もうこちらの心臓はばっくんばっくんで破裂しそうだ。
「綺麗な毛並み……いや、髪ですね。丁寧に手入れがされている」
「は、はい。唯一の取り柄ですので……」
アトス様は本人の申告通りに器用で、なんと編み込みまで作ってくれた。私は居心地の悪さも忘れてはしゃいでしまう。
「すごい。こんなの自分じゃできません。ありがとうございます」
「昔、母の髪を結うのを手伝っていたので得意なのですよ」
ところが、最後に櫛を差すところになって、上司のマリアさんが足音も荒く踏み込んできたのだ。
「アイラ、掃除は終わったの!?」
マリアさんは片隅に佇むアトス様と私を見て、ぎょっとしたようにその場に凍り付いた。
アトス様が眼鏡を直しつつマリアさんに尋ねる。
「……君がこの子の上司ですか?」
その声は氷点下かと思うくらい冷たかった。いつもの威勢はどこへ行ったのか、マリアさんは体を小刻みに震わせている。
「は、はい……」
「これだけの広さのある部屋を、一人で掃除するのは効率が悪い。次からは三人体制にするように」
「か、かしこまりました……」
マリアさんはアトス様がその場を去るまで、小さく縮んで頭を下げっぱなしだった。去ったあともひどく落ち込んでいて、地面にめり込むんじゃないかと思ったほどだ。
ところが、何分かするとそれが私の怒りへと変化したらしい。きっと目を吊り上げて私に詰め寄った。
「ちょっとアイラ! 何アトス様に色目使ってんの! 私のことを悪く言ったんでしょ!?」
「い、いえ、決してそんなことは……!」
「この泥棒猫! だから若い子は嫌なのよ!」
どうしてそんな解釈になるわけ!?
ここで私はようやく気付いて青ざめた。マリアさんが私に辛く当たるようになったのは、前も働いているときにたまたまアトス様と話して、それを見られてしまってからだった……!!
マリアさんも私なんかに嫉妬しても無駄なのに。あれはアトス様のほんの気まぐれにすぎない。夢を見たい気持ちはわからないでもないけど、宮廷魔術師とメイドじゃ天と地ほどの身分差があるし、見初められるなんて九十九.九パーセントありえない。
それ以前に、公式に発表されたわけじゃないけど、アトス様は第二王女のマリカ様と、いずれ結婚するんじゃないかと言われている。これは宮廷魔術師には時々ある話だった。貴重な人材を留めおくために王家が取り持つのだ。王女様VSメイドでどちらか勝つかなんて決まり切っている。
でも、そう説明しても納得なんてできないんだろうな……。熱狂的なファンってきっとこんなものなのよね。
ガミガミと感情的に怒られながら、私は明日も残業になるなとトホホとなった。
こうして彼を間近にするのは三度目くらいだろうか。私はカレリアではどちらかといえば小柄だ。だから、その見上げるほどの身長にいつもびっくりする。
――アトス・イスト・ヴァルハラ。
宮廷魔術師の一人にしてカレリア魔術師団の副総帥。同時に、次期総帥間違いなしと言われている方だ。
この世界にも一応年功序列はあるんだけど、魔力量と魔術の技術が突出していたために、最年少の十八歳で管理職についたと聞いた。その後六年でとんとんと出世して今に至るんだそうだ。
スーパーエリートというだけではなく、顔も怖いくらいに整っているので、身分を問わずあらゆる女性に大人気。
確かにさらさらのタンザナイトのような青紫の髪も、手入れをした気配もないのに形のいい眉も、その下にある髪の色と同じ色の切れ長の目も魅力的だ。高い鼻梁と薄い唇は貴族のような高貴さと、学者のような知的な雰囲気があって、眼鏡がそれらの印象を強調している。宮廷魔術師の略装の一つである純白の詰襟のローブは、彼のために誂えられたのかと思うくらいだ。
でも、私はどうもアトス様が苦手だった。あまりに完璧すぎるからか、居心地が悪くなってしまうからだ。自意識過剰だとは思うんだけどね。こんなエリートがメイドを気に掛けるはずもないし。
ともあれ、身分がより上の方に出くわしたのだ。メイドとしてはまず挨拶をしなければならない。私は箒を両手に持ち替え深々と頭を下げた。
「おはようございます。会合までには間に合わせますので、ご安心ください」
アトス様は腕を組んで私を見下ろす。
「……これだけ広い部屋を一人で掃除をするなど、効率が悪いのではありませんか?」
「い、いや、そんなことないです。頑張ればできますよ」
「頑張ればできる、ね……。根性論は私がもっとも嫌うものの一つだ」
アトス様は低い声で「下がりなさい」と命じた。
「は、はい?」
声が怒ったように聞こえるのは気のせいだろうか?
「私がやりましょう」
「そんな! いけませんよ! 副総帥ともあろう方が……!」
「副総帥が掃除をしてはいけないという法律はカレリアにはありませんよ」
私が止める間もなくアトス様が手をかざす。すると、目の前につむじ風が巻き起こった。
「きゃっ……!」
結い上げていた髪が解けて髪留めの櫛が落ちてしまう。一方、風の渦はゴミや埃を巻き込んで室内をぐるりと一周し、三分もかからずに舐めたように綺麗にしてしまった。
「う、嘘……」
アトス様の魔術を見るのは初めてだけど、こんなに便利だとは思わなかったわ!
掃除が終わるとつむじ風はみるみる小さくなり、やがて幻だったかのように掻き消える。
アトス様は手を払って私に目を向けた。
「これでよし。君は寮へ戻ってゆっくり眠りなさい。おや、髪が解けてしまったようですね」
「い、いえ、大丈夫です。すぐ直せますから」
この数年忙しくて髪を切る暇もなくて、腰まで伸びてしまったから、どうもまとまりにくいのよね。
アトス様はしばらく私を眺めていたけど、やがて「ふむ」と頷きとんでもない提案をした。
「鏡がなければ難しいでしょう。後ろを向きなさい。私が直します」
「え、えええっ!?」
そんな、恐れ多過ぎて冗談じゃないわ。でも、宮廷魔術師に逆らうなんてありえない。
「これでも器用な方ですから安心して任せなさい」
い、いや、そういう問題じゃなくてですね……。
結局私は顔を赤くしたり青くしたりしながら後ろを向いた。
アトス様の長い指が私の髪を掬うのを感じる。もうこちらの心臓はばっくんばっくんで破裂しそうだ。
「綺麗な毛並み……いや、髪ですね。丁寧に手入れがされている」
「は、はい。唯一の取り柄ですので……」
アトス様は本人の申告通りに器用で、なんと編み込みまで作ってくれた。私は居心地の悪さも忘れてはしゃいでしまう。
「すごい。こんなの自分じゃできません。ありがとうございます」
「昔、母の髪を結うのを手伝っていたので得意なのですよ」
ところが、最後に櫛を差すところになって、上司のマリアさんが足音も荒く踏み込んできたのだ。
「アイラ、掃除は終わったの!?」
マリアさんは片隅に佇むアトス様と私を見て、ぎょっとしたようにその場に凍り付いた。
アトス様が眼鏡を直しつつマリアさんに尋ねる。
「……君がこの子の上司ですか?」
その声は氷点下かと思うくらい冷たかった。いつもの威勢はどこへ行ったのか、マリアさんは体を小刻みに震わせている。
「は、はい……」
「これだけの広さのある部屋を、一人で掃除するのは効率が悪い。次からは三人体制にするように」
「か、かしこまりました……」
マリアさんはアトス様がその場を去るまで、小さく縮んで頭を下げっぱなしだった。去ったあともひどく落ち込んでいて、地面にめり込むんじゃないかと思ったほどだ。
ところが、何分かするとそれが私の怒りへと変化したらしい。きっと目を吊り上げて私に詰め寄った。
「ちょっとアイラ! 何アトス様に色目使ってんの! 私のことを悪く言ったんでしょ!?」
「い、いえ、決してそんなことは……!」
「この泥棒猫! だから若い子は嫌なのよ!」
どうしてそんな解釈になるわけ!?
ここで私はようやく気付いて青ざめた。マリアさんが私に辛く当たるようになったのは、前も働いているときにたまたまアトス様と話して、それを見られてしまってからだった……!!
マリアさんも私なんかに嫉妬しても無駄なのに。あれはアトス様のほんの気まぐれにすぎない。夢を見たい気持ちはわからないでもないけど、宮廷魔術師とメイドじゃ天と地ほどの身分差があるし、見初められるなんて九十九.九パーセントありえない。
それ以前に、公式に発表されたわけじゃないけど、アトス様は第二王女のマリカ様と、いずれ結婚するんじゃないかと言われている。これは宮廷魔術師には時々ある話だった。貴重な人材を留めおくために王家が取り持つのだ。王女様VSメイドでどちらか勝つかなんて決まり切っている。
でも、そう説明しても納得なんてできないんだろうな……。熱狂的なファンってきっとこんなものなのよね。
ガミガミと感情的に怒られながら、私は明日も残業になるなとトホホとなった。