はい! その通りです! あなたが原因です!――とは怖くて頷けない。猫になると人の感情にも敏感になるみたいだ。怒りがオーラだけではなく空気の振動で伝わってくる。

 だけど、アトス様は一体何に怒っているのだろう? やっぱり私が盗み見をしたことだろうか。そうだよね、当たり前だよね。私だって無断でスマホを覗かれるのは絶対に嫌だ。

 一方、アトス様は床に目を落とし、何やらブツブツと呟き出した。

 なんだか一気に目が虚ろになって怖いんですけど……。

「やはり私が原因だったのですね。確かに私は君を常時監視、観察していました。まさか君がそれに気づいていたとは……。退職するほど鬱陶しがられていたとは……。私は君が何を好きで、何を嫌っているのかを把握し、その上でともに暮らす算段を立てるつもりでした。何度声をかけようと思ったことか……。しかし、三度のメシよりも仕事を愛する君を邪魔したくはなかった。だから慎重に事を進めてきたつもりだったのだが……」

「???」

 一体何を言っているのだろうか? 

 さっぱり理解できずに戸惑うしかなかった。

 アトス様はいきなり腰を屈めると、私の顔を両側からがっしと掴む。

「ニャッ!?」

 きっと今私の顔縦長になっている……!!

 それだけではなく、アトス様のご尊顔と睫毛が触れ合う距離になり、前世を合算すると四十七年喪女の私は一気にパニックに陥った。

 ち、近い。トップクラスのイケメンと顔が近い……!! このままだとキスしちゃう!! 

 じたばた暴れたもののアトス様は放してくれない。

「アイラ、それでも君を手放すわけにはいきません。先ほど説明しましたが、獣化できるようになった猫族の女性は、現在でも一人で生きていくには危険すぎる。君を守るためにもこうするしかないのです。いいですね」

 アトス様はベッドに書類を一枚置いた。一体どこから出したのか。さっきまで何もなかったはずだと目を剥く私の前に、ペンとインク壺を置いて「サインをお願いします」と告げる。

 サイン? にゃんで?と私は首を傾げて書類を見下ろした。

 どこかで見たことがある書類だけどなんだっただろうか。一番下の部分にサインをする欄が二つあって、左側にはアトス様の名前が書かれているみたいだ。

 ちなみに、カレリアの文字は二つに分かれている。私たち平民が使う簡略化された民衆文字と、王侯貴族や宮廷魔術師が使う聖刻文字だ。聖刻文字が正式なカレリアの文字とされているけれども、書き方が難しくて一部の特権階級しか記せず、平民はほとんど目にする機会はなかった。

 アトス様の日記は民衆文字だったけど、この書類は聖刻文字でところどころしかわからない。

 この単語は「契約」だったかしら。その単語は「生涯」。あの単語は「合意」のはず。

 そ、そうか。そうだったのか……。

 私はがっくりと力を落とした。

 やっぱり土下座では許してもらえなかったみたいだ。

 これはきっと時給ゼロのアトス様専用の社畜――手っ取り早く意訳すれば奴隷になって、一生お仕えしろって契約書なんだよね。そうだよね……もうそれしかないよね……。宮廷魔術師に逆らえるはずがないし……。トホホ、やっぱり私は今世もついていない……。

 私は覚悟を決めサインをしようとしたものの、ある事実にはたとして前足を見つめる。

 これでどうやって羽ペンを握れというのだろうか。

 アトス様も私の手がもはや手ではなく前足だと理解し、「これは……困りましたね」と腕を組んだ。やがてポンと手を打ちインク壺を指さす。

「アイラ、あなたにはソレがあるではありませんか。サインではなくとも、本人が合意したという証拠さえあればいい」

 ああ、そうか、その方法があったか!!

 私はインク壺に手を突っ込むと、インクを肉球にたっぷりとつけ、ポンと自分の欄に押印した。

 これって拇印というか肉球印だよね……。なんかアトス様の流麗な聖刻文字に比べ、間抜けな気がするけど仕方ないか……。

「……これで君は正式に私のものですね」

 私はこれから奴隷として何をすべきかで頭が一杯で、アトス様が頭上でそう呟いたのには気づかなかった。

 掃除、洗濯、料理、ベッドメイキング……。……。……いや、猫のままじゃ何もできないじゃない!!

 アトス様を見上げて必死に訴える。

「ニャ、ニャニャニャニャニャ、ニャニャー!!」

 明日からここで何をすればいいんでしょうか!?

「なんですか? ご飯ですか?」

 私が首を振るとアトス様は顎に手を当て質問を変えた。

「水ですか?」

 違う!

「トイレですか?」

 そうじゃない!!

「マタタビは当分お預けですよ……ああ、そうか」

 私をふわりと胸に抱き上げ目を覗き込む。

「何か仕事がしたいのですね」

 別にしたいわけではないけれど、サインした以上やるべきことはやるわよ。なんといっても私は今日からアトス様専属の奴隷だもの。

 アトス様は私の頭をよしよしと撫でた。

「君は何をする必要もありません。いや、一つだけありましたか……私に可愛がられてください。触るのを嫌がらないでくれれば……。君の仕事はそれだけですよ」

 にゃ、にゃ、にゃ、にゃんですと!?