うっ、うっ、うっ……痛い思いをしたのに、まだ人間に戻っていない。

 私はその後アトス様に別室に連れて行かれ、そこに用意されたベッドに突っ伏して泣いていた。泣くと言っても猫は涙が出ないらしく、ひたすらニャーニャーとやかましく嘆くだけだ。

 アトス様は落ち着くまで待つと言って、私の鼻に湿布を貼ったあとは外へ出ている。そろそろ鳴き疲れたところで扉が叩かれる音がした。

「アイラ、入りますよ」

 アトス様は足を部屋に踏み入れるなり、なぜか「うっ……」と苦し気な声を上げた。何事かと私が顔を上げると少し残念そうな表情になる。

「ごめん寝を再び目にする日が来ようとは……」

 ごめん寝? ごめん寝ってなんなのかしら。猫を飼ったことがないからわからない。

 意味が理解できずに首を傾げていると、アトス様は眼鏡を直しつつ微笑んだ。

「ああ、こちらの話です。気にしないでください」

 私がごめん寝をしていたベッドに腰掛け、腰を屈めて私の目を覗き込む。

「アイラ、今から君に聞きたいことがあります。いいですか。私の、人間の言葉はわかりますか?」

「……?」

 私は戸惑いながらもこくりと頷いた。

「前回の失敗の反省を踏まえて、君にははい、いいえの二択で質問に答えてもらいます。はいの場合には今のように頷くように。いいえの場合には首を振る形で。君を人間の姿に戻すためにも必要なことです」

 えっ!? やっと現実にリターンできるの!? 

 喜び勇んで何度も頭を上げ下げすると、アトス様は人差し指を立てた。

「まず、一つ目。君は自分が猫に変身できると知っていましたか?」

 知っていたらこんなに慌ててはいない。私は「いいえ」と首を振った。

 アトス様は小さく溜息を吐き今度は中指を立てる。

「……そうですか。では、二つ目。君は獣人、その中の猫族の話を聞いたことがありますか? ご両親から教えられたことは?」

 獣人? 猫族? 耳慣れない単語にもう一度首を振る。

「なるほど。獣化した自覚がなかったのか……」

 アトス様は納得したと呟き腕を組んだ。

「アイラ、説明しましょう。君もこれからの生活を考えれば知っておくべきです。獣人は大昔この大陸にいた、魔力の強い、辺境に暮らす少数民族だったと文献にはあります。もともとは人間とさほど変わらなかったそうです」

 獣人の住んでいた地域は、獰猛な獣の多く潜む森や、水のほとんどない砂漠や、ネズミばかりが蔓延る廃墟や、一年のほとんどが氷に閉ざされるような、厳しい環境の土地が多かった。

「結果、彼らは独自の進化を遂げました。みずからの魔力のほぼすべてを使って、現地で最も勢力を誇る動物に変身できるようになったのです。そして、狼族、蜥蜴族、猫族、熊族などが生まれた」

 獣人らは生き延びるために獣に混じって暮らし、獣の本能と習性を身に付けることになった。

「君がこの屋敷で変身してしまったのは、おそらく無意識のうちに、私の魔力を取り込んだからでしょう。私は王宮では魔力を放出しないよう制御していますが、肩がこるため屋敷では特別の配慮をしていません」

 そういえば書斎に入った途端に気持ち悪くなった。あれはアトス様の魔力を取り込んでいたからなのか。

 アトス様は「話を戻しましょう」とベッドに手を着いた。

「ところが、三百年ほど前に人間がこの獣人に目を付けます。当時は、大陸に国家が乱立した戦国時代でした。獣人は各国の戦力として取り込まれたのですよ。カレリアもその一国です」

 猫族はスパイに、狼族、蜥蜴族は暗殺者に、熊族は馬代わりの機動力として駆り出された。動物に変身できる能力を利用されたのだ。

「それだけで済めばよかったのですが、ある程度国家が統一され平和な時代が訪れると、今度は愛玩用、奴隷として重宝されるようになった。特に、猫族の女性は高値で取引されました。……当時の人間は獣人を差別していたのでしょう。猫族ではない場合には、過酷な環境で働かされることが多かったそうです」

 へっ!? 高値で取引って血統書付きの犬猫じゃあるまいし!! それより前にさらっと奴隷と言っていなかった!?

 アトス様は私の動揺をよそに淡々と語り続ける。

「猫族の女性は容姿がよいだけではなく、その体は人の女の柔らかさとメス猫のしなやかさを兼ね備えていたと言います。権力者や金持ちは猫族の女性をこぞって手に入れたがった」

 ところが、カレリアで即位した第三代国王、ニャー……ではなく、ニューリッキ一世が、獣人らの保護と人権獲得に乗り出した。

「ニューリッキ一世は三度のメシより猫が好きだったそうです。猫族の女性らの当時の現状に激怒し、虐待した人間をことごとく逮捕、処罰すると、獣人すべてに人間と同等の権利を与えると法律を改正しました」

 法律まで改正した猫好きパワー……!!

 どれだけ猫好きだったのよと私はごくりと息を呑んだ。

 アトス様は今度は長い脚を組んで言葉を続ける。

「そうした差別が解消されると、獣人も以降は街で暮らすようになり、結婚相手も人間という場合が増えました。必然的に、獣人らの血と魔力は薄まっていきます。純血の獣人はどんどん減っていった」

 なるほど、なるほどと私はうんうんと頷く。

「ですが、獣人らの子孫の中には、時折先祖返りを起こし、獣に変身できるものが生まれました」

 つまり私はその獣人の子孫の先祖返りというわけね!! だからこうして猫になっているわけね!!――って、早く現実にリターンしなくちゃヤバいわ。いくら幻覚でもリアルすぎるでしょ……。

「そうした場合に備え、獣人の子孫らは、子に獣人の歴史と心得を説いているはずなのですが……。特に、猫族の女性の場合には。あなたはご両親から何か聞いたことはないのですか?」

 私は首を上下に振って「はい」の合図をした。お父さんもお母さんも捨て子で、孤児院育ちだと聞いたことがある。そんな境遇なら知らなくても仕方ないだろう。

 すると、アトス様は眼鏡をきらりと光らせ、「……そうですか」と低く呟いた。

「教えられてもいなければ自覚もない。危険すぎますね……。いまだに猫族の女性を探し求める輩は絶えないというのに」

 アトス様はゆらりと立ち上がり私を見下ろす。私はその迫力に冷や汗を流して後ずさりをした。

 どうして背後に青紫色の炎を背負っているの!?

 アトス様は微笑みを浮かべながら三本目の指を立てる。

「アイラ、最後にもう一つ質問があります。職場でもめたと聞きましたが……まさか、あなたが退職する理由は私ですか?」