あっという間に十日が過ぎてしまい、明後日はついにアトス様との約束の日だ。
私はドナドナされる前の牛の気分で、箒とバケツを手に王宮の庭園の掃き掃除をしていた。
庭園はバラで作られた迷路や花園、ところどころにある彫像などを見て歩くと、優に三、四日はかかる広さである。
その庭園を一人で掃除しているのは、またしてもスパイに失敗した私への、マリカ様からのえげつない罰だった……。もう一週間もやっているのに全然終わらない……。
まあ、でも水責め、股裂き、鉄の処女にインされるよりははるかにマシか――などと、極めて低レベルでの比較をしつつも、ひたすらこれが最後の大仕事だと頑張った。
どうせ一週間後には私はここからいなくなる。マリアさんとも、エルマさんとも、マリカさまとも、アトス様ともお別れなのだ。
そう、アトス様――
その美貌を思い出すたびに頭上に暗雲が立ち込める。
アトス様は現在宮廷魔術師団の一部を引き連れ辺境へ出張中だ。堤防の決壊した川を塞き止めに行ったらしい。魔術師って兵器兼、自衛隊兼、重機兼、家電的な存在よね……。便利過ぎて宮廷が手放せないはずだわ。
それはともかく、アトス様は私をどう思っているのだろうか。
私はあの方のプライバシーを侵害したんだもの。どんな言い訳をしてもその事実は変わらない。許されなくても仕方がないと思うけど、軽蔑されるのはそれよりもずっと辛かった。
どうしてこんなに胸が痛むようになったのだろう。何ヶ月か前にはアトス様にキャーキャー言うマリアさんや同僚を、楽しそうでいいなだなんて遠巻きに見つめていたのに、アトス様のことばかりを考えるようになるなんて。
溜め息を吐きつつ箒とバケツを手に花園へ向かう。
花園は公園に似たつくりになっていて、蔓バラのアーチや東屋、ベンチなどが設けられ、季節の花々をゆっくり楽しめるようになっている。なお、花弁や落ち葉がひっきりなしに散るので、ここの掃除が一番大変だと思われた……。
いつもは午前には人はほとんどいない。ところが、その日は白髪に長い髭のお爺さんが、東屋のベンチで杖を手にまったりしていた。どこかで見たことがある気がするけど、簡素な身なりからして庭師さんだろうか。二十人いるうちの親方がこんな人だったはず……。
「こんにちは。休憩中ですか」
私は東屋の内側を掃除しながら挨拶をした。お爺さんが私に気づきにっこりと笑う。
「ああ、そうじゃよ。……おや?」
お爺さんは私のリボンに目を留めた。
「ああ、お前さんが例の仕事好きのメイドか。もう話は聞いておるよ。うん、働き者はいいことだ」
一瞬、私のことを知っているのかと驚いたけど、この一週間ひたすら庭園を掃除しているから、庭師の間で噂になってもおかしくはないだろう。
それにしても、仕事好きとか働き者とか、社畜とは微妙にニュアンスが違うけど、そんな言葉はそもそも日本にしかないか……。
私はお礼を言うと雑巾を取り出して、東屋の汚れた壁をひたすら拭いた。すると、お爺さんがニコニコと話しかけてくる。
「やれやれ、あれも父親と同じ趣味だのう。猫好きの血は二代に渡るか。お嬢ちゃんはいくつだい?」
「……?」
父親と同じ趣味とはなんのことだろうか。戸惑いながらも愛想笑いをしながら答えた。
「はい、今年十七歳になりました」
精神年齢はもっと疲れ切った年代だと思うけど……。
すると、お爺さんは腕を組んでうんうんと頷く。
「なら、もう結婚できる年だのう。いささか若い気もするが悪いことじゃない」
カレリアでは男女とも十六歳から結婚できて、遅くとも二十代半ばくらいまでには、ほとんどの人が誰か彼かと夫婦になっていた。と言っても、十六、十七で結婚するのはちょっと早い。二十歳からというのが定番だった。
私は苦笑しながら雑巾を裏返して今度はベンチを拭く。
「はい、ですが、私は仕事ばっかりで、結婚の予定なんてないですよ。メイドも来週には辞めちゃうし……」
今世も社畜に始まり社畜に終わる気がして、まともに結婚できる気がしないのが悲しい……。
お爺さんが「はっ!?」と目を剥き私を凝視した。
「い、いや、それはあれじゃろ。寿退社ってやつじゃろ」
一方、私は寿退社って憧れの言葉よねとしみじみとする。
「……? 違いますよ? ちょっと職場でもめちゃって、いづらくなっているので……」
お爺さんは青ざめた顔で横を向いた。ブツブツと何か呟いている。
「おい、どういうことじゃ……。話が違うじゃないか……」
そう言うが早いかヨロヨロと立ち上がると、鬼気迫った表情で私の肩をがっしと掴んだ。
「お嬢ちゃん……!! 一つだけ約束しておくれっ!! 例えメイドを辞めても、それから何も言わずに出奔するなんて真似だけはやめておくれっ!! アレが狂ってしまう。儂は先代の二の舞を見るのだけは嫌なんじゃ……!!」
このお爺さんは何を言っているのだろうか?
「??? いや、王都からは出ませんよ。やっぱりなんだかんだでお給料いい仕事多いですし……」
地方だとこうはいかないわよねと思いを馳せていると、「こうしちゃおれん」とお爺さんがくるりと身を翻した。
「アトスに知らせんと。カレリアの危機じゃーっっ!!」
「えっ、ちょっと、お爺さん、どこへ行くの!?」
ダッシュで走れるのにどうして杖がいるわけ!? それより前にどうしてアトス様の名前が出るわけ!?
風とともに去ったお爺さんに呆然としていると、ベンチに忘れられた杖が目に入った。届けなきゃ、でもどこに?と思いつつ拾い上げて驚く。柄に刻み込まれた文字に見覚えがあったからだ。
――クラウス・ラウリ・ヴァルハラ。
宮廷魔術師団の現総帥の名前じゃないの!!
私はドナドナされる前の牛の気分で、箒とバケツを手に王宮の庭園の掃き掃除をしていた。
庭園はバラで作られた迷路や花園、ところどころにある彫像などを見て歩くと、優に三、四日はかかる広さである。
その庭園を一人で掃除しているのは、またしてもスパイに失敗した私への、マリカ様からのえげつない罰だった……。もう一週間もやっているのに全然終わらない……。
まあ、でも水責め、股裂き、鉄の処女にインされるよりははるかにマシか――などと、極めて低レベルでの比較をしつつも、ひたすらこれが最後の大仕事だと頑張った。
どうせ一週間後には私はここからいなくなる。マリアさんとも、エルマさんとも、マリカさまとも、アトス様ともお別れなのだ。
そう、アトス様――
その美貌を思い出すたびに頭上に暗雲が立ち込める。
アトス様は現在宮廷魔術師団の一部を引き連れ辺境へ出張中だ。堤防の決壊した川を塞き止めに行ったらしい。魔術師って兵器兼、自衛隊兼、重機兼、家電的な存在よね……。便利過ぎて宮廷が手放せないはずだわ。
それはともかく、アトス様は私をどう思っているのだろうか。
私はあの方のプライバシーを侵害したんだもの。どんな言い訳をしてもその事実は変わらない。許されなくても仕方がないと思うけど、軽蔑されるのはそれよりもずっと辛かった。
どうしてこんなに胸が痛むようになったのだろう。何ヶ月か前にはアトス様にキャーキャー言うマリアさんや同僚を、楽しそうでいいなだなんて遠巻きに見つめていたのに、アトス様のことばかりを考えるようになるなんて。
溜め息を吐きつつ箒とバケツを手に花園へ向かう。
花園は公園に似たつくりになっていて、蔓バラのアーチや東屋、ベンチなどが設けられ、季節の花々をゆっくり楽しめるようになっている。なお、花弁や落ち葉がひっきりなしに散るので、ここの掃除が一番大変だと思われた……。
いつもは午前には人はほとんどいない。ところが、その日は白髪に長い髭のお爺さんが、東屋のベンチで杖を手にまったりしていた。どこかで見たことがある気がするけど、簡素な身なりからして庭師さんだろうか。二十人いるうちの親方がこんな人だったはず……。
「こんにちは。休憩中ですか」
私は東屋の内側を掃除しながら挨拶をした。お爺さんが私に気づきにっこりと笑う。
「ああ、そうじゃよ。……おや?」
お爺さんは私のリボンに目を留めた。
「ああ、お前さんが例の仕事好きのメイドか。もう話は聞いておるよ。うん、働き者はいいことだ」
一瞬、私のことを知っているのかと驚いたけど、この一週間ひたすら庭園を掃除しているから、庭師の間で噂になってもおかしくはないだろう。
それにしても、仕事好きとか働き者とか、社畜とは微妙にニュアンスが違うけど、そんな言葉はそもそも日本にしかないか……。
私はお礼を言うと雑巾を取り出して、東屋の汚れた壁をひたすら拭いた。すると、お爺さんがニコニコと話しかけてくる。
「やれやれ、あれも父親と同じ趣味だのう。猫好きの血は二代に渡るか。お嬢ちゃんはいくつだい?」
「……?」
父親と同じ趣味とはなんのことだろうか。戸惑いながらも愛想笑いをしながら答えた。
「はい、今年十七歳になりました」
精神年齢はもっと疲れ切った年代だと思うけど……。
すると、お爺さんは腕を組んでうんうんと頷く。
「なら、もう結婚できる年だのう。いささか若い気もするが悪いことじゃない」
カレリアでは男女とも十六歳から結婚できて、遅くとも二十代半ばくらいまでには、ほとんどの人が誰か彼かと夫婦になっていた。と言っても、十六、十七で結婚するのはちょっと早い。二十歳からというのが定番だった。
私は苦笑しながら雑巾を裏返して今度はベンチを拭く。
「はい、ですが、私は仕事ばっかりで、結婚の予定なんてないですよ。メイドも来週には辞めちゃうし……」
今世も社畜に始まり社畜に終わる気がして、まともに結婚できる気がしないのが悲しい……。
お爺さんが「はっ!?」と目を剥き私を凝視した。
「い、いや、それはあれじゃろ。寿退社ってやつじゃろ」
一方、私は寿退社って憧れの言葉よねとしみじみとする。
「……? 違いますよ? ちょっと職場でもめちゃって、いづらくなっているので……」
お爺さんは青ざめた顔で横を向いた。ブツブツと何か呟いている。
「おい、どういうことじゃ……。話が違うじゃないか……」
そう言うが早いかヨロヨロと立ち上がると、鬼気迫った表情で私の肩をがっしと掴んだ。
「お嬢ちゃん……!! 一つだけ約束しておくれっ!! 例えメイドを辞めても、それから何も言わずに出奔するなんて真似だけはやめておくれっ!! アレが狂ってしまう。儂は先代の二の舞を見るのだけは嫌なんじゃ……!!」
このお爺さんは何を言っているのだろうか?
「??? いや、王都からは出ませんよ。やっぱりなんだかんだでお給料いい仕事多いですし……」
地方だとこうはいかないわよねと思いを馳せていると、「こうしちゃおれん」とお爺さんがくるりと身を翻した。
「アトスに知らせんと。カレリアの危機じゃーっっ!!」
「えっ、ちょっと、お爺さん、どこへ行くの!?」
ダッシュで走れるのにどうして杖がいるわけ!? それより前にどうしてアトス様の名前が出るわけ!?
風とともに去ったお爺さんに呆然としていると、ベンチに忘れられた杖が目に入った。届けなきゃ、でもどこに?と思いつつ拾い上げて驚く。柄に刻み込まれた文字に見覚えがあったからだ。
――クラウス・ラウリ・ヴァルハラ。
宮廷魔術師団の現総帥の名前じゃないの!!