リュカがサヴィニャック公爵家を訪ねた日から三日後、フロインヴェール軍は王都を発して、テルノワールへと進軍を開始した。
大陸公路を南へ一路、幾度かの小規模な戦闘を経て、更に二十日余りが過ぎた頃、彼らは遂に第一関門ともいうべきテルノワール北方の要衝、キルフェ城砦へと辿り着いた。
夜明けとともに始まる激しい攻城戦。
そして日中、延々と繰り広げられた戦闘も収まり、下弦の月が空へと昇る頃、遠征軍の宿営地、ひと際大きな部隊長用の天幕の内側で、女の甲高い怒声が響き渡った。
「えぇい! いまいましい! あやつら、私が女だと思って侮りおって!」
秀麗な面貌にやる方無い怒りを滲ませるヴァレリィを、リュカがいつも通りのやる気の欠片もない態度で宥める。
「団長、落ち着いてくださいってば。むしろありがたいことじゃありませんか。なにせ戦わなくても良いって言うんですから」
遠征軍の第四軍、総勢二百五十名を指揮するのは、この金鷹騎士団長ヴァレリィである。
彼女は戦乙女とまで呼ばれる女傑であり、実際のところ、年功によって遠征軍の総司令を務めている黒鳳騎士団長のスロワーズよりも兵士たちの人望は遥かに厚い。
スロワーズにしてみれば、それはもうやりにくいに決まっている。
それがわかっているからこそ、ヴァレリィは文句の一つも言わずに最も規模の小さな部隊を引き受けたのだ。
だが、ここへきて遂にヴァレリィの不満が爆発した。
本日の戦闘でキルフェ城砦は陥落寸前、ゆえに明日の城砦攻めは手柄の取り合いとなるのは必然である。
だというのに、ヴァレリィ率いる第四軍は明日の城砦攻めにおいて、有無を言わさず後方支援を振り分けられたのだ。
言うなれば、『手柄を立てるのを指をくわえて見ていろ』ということ。
実質、戦力外通告である。
「ああっ! くそっ!」
ヴァレリィは紅い髪を掻きむしりながら脱ぎ散らかした甲冑、その兜を蹴り上げる。
そして、緊張感の欠片もない顔つきで敷布の上に胡坐をかいているリュカを、ジトリとした目つきで見据えた。
「むぅぅ……私がこんなに悔しがっているというのに、まったくお前はお気楽だな、旦那さまよ」
「そんなことありませんってば」
リュカの言葉は事実である。気楽ではない。胸の内は波風立ちまくりである。ヴァレリィとは全く違う意味で、彼は彼なりに色々と必死なのだ。
公爵家への訪問以降、ヴァレリィはリュカのことを旦那さまと呼び、事あるごとに自らを妻と称するようになった。
あまつさえ気を回し過ぎる同僚たちのお蔭で、王都を出発して以来、二人で一つの天幕、一つの毛布で身を寄せ合って眠ることを強いられているのだ。
そもそも口を開きさえしなければ、彼女はとんでもない美人だ。そんな女性がすぐ隣で寝息を立てているのだから堪ったものではない。
リュカだって木石ではない。年頃の男の子なのだ。
戦地であることを自分自身に何度も言い聞かせ、ここまで二十日あまりも指一本触れずに堪えられているのは奇跡だと言っても良いだろう。
しかもヴァレリィ自身は、あまりにも無防備なのだ。
戦場から戻るまでそういうことはしないと、彼女の父親に宣言したリュカの言葉を、真っ直ぐに信じ切っている。
今も目の前の彼女が身に着けているのは、軍用の色気の無いモノとはいえ、薄い短衣とやたらローライズ気味な短袴だけ。
甲冑に隠れてわからなかった実に女性らしい曲線に、知らず知らずのうちに目が吸い寄せられる。
そんな彼の胸のうちも知らずに、ヴァレリィは「むぅ」と不満げに頬を膨らませると、リュカの膝を枕にして、ごろりと寝転がった。
「……疲れた」
「あの……団長、重いんですけど」
「うるさい。疲れたと言っているのだ。少しぐらい労わってくれても良いだろうが」
「はいはい、お疲れさまです」
「そうだ。私はお疲れなのだ。その……もっと労われ、労わるのだ、旦那さまよ」
「また、ですか……」
「うるさい、妻が疲れたと言っておるのだぞ。お前には夫として、為すべきことがあるだろう!」
「はいはい……わかりましたよ」
リュカは肩をすくめてヴァレリィの頭へと手を伸ばす。
サラサラの赤毛。形の良い頭。その感触を指先で確かめながら、ねぎらうように優しく撫でまわす。
途端に「ふわぁ……」と気持ちよさげな声が、彼女の形の良い唇から零れ落ちた。
彼女の顔を覗き込むと、幸せそうに目を閉じたまま口元をむにむにと動かしている。
ヴァレリィは、二人きりの時には時々こんな風になる。
最初の頃は苦行でも受けるような顔で、どうにか妻らしく振る舞おうとしていたようなのだが、結局何をどうしてよいかわからなかったらしく、最後はキレ気味にリュカに無茶ぶり。
「おい、旦那さま! お前も何か夫らしいことをしてみろ!」
「ええっ!?」
リュカは散々困った末に、とりあえず妹にそうするように彼女の髪を撫でてみた。
だがそれが意外なほどに心地良かったらしく、以降、彼女は二人っきりになると、事あるごとに頭を差し出してくるようになってしまったのだ。
こんなのでいいのか? と、思わなくもないが、陽だまりの猫みたいな顔で横たわる彼女の姿は微笑ましい。
普段からそうしていれば良いのに、そうすれば男たちは、彼女の事をもっとちやほやするに違いないのにと、そう思うのだが、他の男にこんな彼女の表情を見られるのはなんとなくイヤだとも思う。
独占欲めいたその思いに気付いて、
(まあ、ひと月近く、ずっと一緒に居れば情も移るってもんだよな……)
と、リュカは思わず口元を緩めた。
やがて、彼女がとろんと眠たげな目をして、彼を見上げる。
「……なあ、旦那さまよ」
「ん? なんです?」
「そういえばあの日、風呂で父上とどんな話をしたのだ?」
唐突なその問いかけに、リュカは思わず彼女の髪に伸ばしていた指の動きを止めた。
「それは……言えません。その、男同士の……約束ですから」
途端に、彼女はぷぅと頬を膨らませる。
「むぅ……お前まで、私を女扱いするのか」
「女扱いというか…………そうですね。身内扱いです、かね」
「……そうか、ならば良い」
「ところで団長。もうそろそろ勘弁してくれませんかね。手が疲れてきたんですけど」
「ダメだ。私はまだお疲れなのだ。ダメだったらダメだ」
大陸公路を南へ一路、幾度かの小規模な戦闘を経て、更に二十日余りが過ぎた頃、彼らは遂に第一関門ともいうべきテルノワール北方の要衝、キルフェ城砦へと辿り着いた。
夜明けとともに始まる激しい攻城戦。
そして日中、延々と繰り広げられた戦闘も収まり、下弦の月が空へと昇る頃、遠征軍の宿営地、ひと際大きな部隊長用の天幕の内側で、女の甲高い怒声が響き渡った。
「えぇい! いまいましい! あやつら、私が女だと思って侮りおって!」
秀麗な面貌にやる方無い怒りを滲ませるヴァレリィを、リュカがいつも通りのやる気の欠片もない態度で宥める。
「団長、落ち着いてくださいってば。むしろありがたいことじゃありませんか。なにせ戦わなくても良いって言うんですから」
遠征軍の第四軍、総勢二百五十名を指揮するのは、この金鷹騎士団長ヴァレリィである。
彼女は戦乙女とまで呼ばれる女傑であり、実際のところ、年功によって遠征軍の総司令を務めている黒鳳騎士団長のスロワーズよりも兵士たちの人望は遥かに厚い。
スロワーズにしてみれば、それはもうやりにくいに決まっている。
それがわかっているからこそ、ヴァレリィは文句の一つも言わずに最も規模の小さな部隊を引き受けたのだ。
だが、ここへきて遂にヴァレリィの不満が爆発した。
本日の戦闘でキルフェ城砦は陥落寸前、ゆえに明日の城砦攻めは手柄の取り合いとなるのは必然である。
だというのに、ヴァレリィ率いる第四軍は明日の城砦攻めにおいて、有無を言わさず後方支援を振り分けられたのだ。
言うなれば、『手柄を立てるのを指をくわえて見ていろ』ということ。
実質、戦力外通告である。
「ああっ! くそっ!」
ヴァレリィは紅い髪を掻きむしりながら脱ぎ散らかした甲冑、その兜を蹴り上げる。
そして、緊張感の欠片もない顔つきで敷布の上に胡坐をかいているリュカを、ジトリとした目つきで見据えた。
「むぅぅ……私がこんなに悔しがっているというのに、まったくお前はお気楽だな、旦那さまよ」
「そんなことありませんってば」
リュカの言葉は事実である。気楽ではない。胸の内は波風立ちまくりである。ヴァレリィとは全く違う意味で、彼は彼なりに色々と必死なのだ。
公爵家への訪問以降、ヴァレリィはリュカのことを旦那さまと呼び、事あるごとに自らを妻と称するようになった。
あまつさえ気を回し過ぎる同僚たちのお蔭で、王都を出発して以来、二人で一つの天幕、一つの毛布で身を寄せ合って眠ることを強いられているのだ。
そもそも口を開きさえしなければ、彼女はとんでもない美人だ。そんな女性がすぐ隣で寝息を立てているのだから堪ったものではない。
リュカだって木石ではない。年頃の男の子なのだ。
戦地であることを自分自身に何度も言い聞かせ、ここまで二十日あまりも指一本触れずに堪えられているのは奇跡だと言っても良いだろう。
しかもヴァレリィ自身は、あまりにも無防備なのだ。
戦場から戻るまでそういうことはしないと、彼女の父親に宣言したリュカの言葉を、真っ直ぐに信じ切っている。
今も目の前の彼女が身に着けているのは、軍用の色気の無いモノとはいえ、薄い短衣とやたらローライズ気味な短袴だけ。
甲冑に隠れてわからなかった実に女性らしい曲線に、知らず知らずのうちに目が吸い寄せられる。
そんな彼の胸のうちも知らずに、ヴァレリィは「むぅ」と不満げに頬を膨らませると、リュカの膝を枕にして、ごろりと寝転がった。
「……疲れた」
「あの……団長、重いんですけど」
「うるさい。疲れたと言っているのだ。少しぐらい労わってくれても良いだろうが」
「はいはい、お疲れさまです」
「そうだ。私はお疲れなのだ。その……もっと労われ、労わるのだ、旦那さまよ」
「また、ですか……」
「うるさい、妻が疲れたと言っておるのだぞ。お前には夫として、為すべきことがあるだろう!」
「はいはい……わかりましたよ」
リュカは肩をすくめてヴァレリィの頭へと手を伸ばす。
サラサラの赤毛。形の良い頭。その感触を指先で確かめながら、ねぎらうように優しく撫でまわす。
途端に「ふわぁ……」と気持ちよさげな声が、彼女の形の良い唇から零れ落ちた。
彼女の顔を覗き込むと、幸せそうに目を閉じたまま口元をむにむにと動かしている。
ヴァレリィは、二人きりの時には時々こんな風になる。
最初の頃は苦行でも受けるような顔で、どうにか妻らしく振る舞おうとしていたようなのだが、結局何をどうしてよいかわからなかったらしく、最後はキレ気味にリュカに無茶ぶり。
「おい、旦那さま! お前も何か夫らしいことをしてみろ!」
「ええっ!?」
リュカは散々困った末に、とりあえず妹にそうするように彼女の髪を撫でてみた。
だがそれが意外なほどに心地良かったらしく、以降、彼女は二人っきりになると、事あるごとに頭を差し出してくるようになってしまったのだ。
こんなのでいいのか? と、思わなくもないが、陽だまりの猫みたいな顔で横たわる彼女の姿は微笑ましい。
普段からそうしていれば良いのに、そうすれば男たちは、彼女の事をもっとちやほやするに違いないのにと、そう思うのだが、他の男にこんな彼女の表情を見られるのはなんとなくイヤだとも思う。
独占欲めいたその思いに気付いて、
(まあ、ひと月近く、ずっと一緒に居れば情も移るってもんだよな……)
と、リュカは思わず口元を緩めた。
やがて、彼女がとろんと眠たげな目をして、彼を見上げる。
「……なあ、旦那さまよ」
「ん? なんです?」
「そういえばあの日、風呂で父上とどんな話をしたのだ?」
唐突なその問いかけに、リュカは思わず彼女の髪に伸ばしていた指の動きを止めた。
「それは……言えません。その、男同士の……約束ですから」
途端に、彼女はぷぅと頬を膨らませる。
「むぅ……お前まで、私を女扱いするのか」
「女扱いというか…………そうですね。身内扱いです、かね」
「……そうか、ならば良い」
「ところで団長。もうそろそろ勘弁してくれませんかね。手が疲れてきたんですけど」
「ダメだ。私はまだお疲れなのだ。ダメだったらダメだ」