「そんなに怖い顔をするでない。他愛のない悪戯ではないか」
どこか幼稚な悪意を感じさせる薄笑い、悪気の欠片もなさげなヴェルヌイユ姫。王太子はそんな彼女のそばへと歩み寄り、表情一つ変えずにこう語り掛ける。
「伯母上、王宮へ戻りましょうか」
すると、彼女は小馬鹿にするように肩をすくめ、揺り椅子を軽く揺らした。
「なんじゃ、雅味を解せぬ男はつまらんぞ。バスティアン坊や。滅多に遠出することなどないのじゃからの。妾はもうしばらくここにおる。ここは良いぞ。空気は澄んで、なにより静かじゃ。正面切って批判も出来ぬくせに、ヒソヒソと陰で妾を娼婦呼ばわりするような連中もここにはおらんのじゃからの」
だが、気だるげに笑うそんな彼女に、王太子は決定的な一言を告げる。
「いくら待っていても、彼は来ませんよ」
途端に彼女はピタリと動きを止めた。
バルコニーの向こう側に一羽の白いカササギが羽を広げ、湖の形をなぞるように飛んでいる。
かすかに響いたその鳴き声が、否が応でもこの場に舞い降りた重苦しい静寂を意識させた。
「そうか……来ぬか。存外意気地のない男じゃのう。一族を根絶やしにされようというのに、仕返しの一つもしに来ぬか。まったくつまらん、つまらんのう」
長い沈黙の末に、彼女はどうにか言葉を紡ぎだす。
言葉は揶揄するようでありながら、その声は潤んで震えている。
「伯母上、もう良いのです。そんな演技は必要ないのです。失礼ながら、伯母上が彼に宛てた手紙を拝見しました」
「…………そうか、見たのか。ははっ、その上で二度もフられた惨めな女を嗤いにきたと、そういう訳じゃったか」
「いいえ、私は伯母上、あなたを笑ったりしません。笑ったりできる訳がありません」
そして、王太子は声を震わせながら告げた。
「彼はもう来れぬのです。彼は、もう……この世にはおりませぬ」
その瞬間、彼女は跳ねるように身を起こした。
まるで雷に打たれたかのような挙動。
彼女が強い衝撃を受けたのは誰の目にも明らかだった。
「う……うそじゃ! う、嘘を吐くな! お主とて言って良いことと悪いことがあるのじゃぞ! 確かに妾の悪戯も度が過ぎたとは思うが、し、仕返しにしてもその嘘は性質が悪過ぎる!」
「嘘ではありません。彼は先王陛下……お爺さまとの約定と、あなたへの想いの間で押しつぶされてしまったのです」
「そんな馬鹿げた話があるものか! 信じぬ! 絶対に信じぬ! 父上は既にこの世におらぬ。約定に何の意味があるというのじゃ! あの方を縛る鎖は公爵家だけではないか!」
「叔母上っ! サヴィニャック公爵がどんな人間であったか、今一度思い出してください。王家と交わした約定を、時が経ったからと反故にするような男ではないことは、あなたが一番ご存じのはずでしょう」
「そんな……そんな、バカな……ことが、い、いやじゃ、い、いや……じゃ」
彼女は力なく背もたれに倒れ込み、揺り椅子が老爺の呻き声のような乾いた音を立てて揺れる。
王太子は、改めて叔母の顔を覗き込んだ。
彼女のその瞳には既に光はなく、表情と呼べるものはもはや何も残っていなかった。
胸の内で膨らんだ感情が大きすぎて、どこからも取り出せずにいる。彼の目にはそう見えた。
なまじ見目が麗しいだけに、絶望という表題をつけた彫像のようでさえある。
生きるために必要な何かが彼女の身体から止めどもなく零れ落ちていくような、そんな錯覚さえ覚えた。
そこにあったのは、あまりにも憐れな弱々しい一人の女の姿であった。
(だが……やらねばならぬ)
彼は、自分の手を握る幼い少女に声を掛ける。
「……シャルロット」
「はい」
「伯母上、彼女の目を見てください。多少、気を落ち着けることもできましょう」
王太子の声がやけに低いのは、声が上擦りそうになるのを必死に堪えているから。
血の繋がった肉親を手に掛ける。その事実が重く重く、彼に圧し掛かっていた。
彼が静かに背を向けると、幼い少女が揺り椅子のひじ掛けに手を掛けて膝立ちになる。
ヴェルヌイユ姫には、もはや考える気力は残っていなかった。
ぼんやりとした頭で、彼女はすぐそばに膝を落とした人物へと目を向ける。
目を閉じたままの幼い少女。
陶器人形のような儚い少女である。
彼女が静かに片目を開くとそこには、不思議な瞳があった。
いや、瞳ではない。ガラス玉。瞼の下にあったのは黒い宝玉。
その内側には星のような光が絶え間なく明滅していた。
(……義眼? 吸い込まれそうな目じゃ)
姫殿下がぼんやりとした頭で、そう思ったのと同時に、
「……今宵、安らかな眠りを」
幼い少女は彼女の頬に口づけるように顔を寄せて、その耳元で囁いた。
それで終わり。
ヴェルヌイユ姫にはこれが一体、何だったのかはわからない。だが、それを考えるだけの気力もない。
背を向け肩を震わせている甥に、それを問いただす気さえ起こらない。
少女が再び瞼を閉じて立ち上がるのと同時に、ぐじっ、と鼻を啜るような湿った音を鳴らして、王太子が振り返る。
「叔母上……もう一度お伺いします。王都に戻られますか?」
王太子がそう問いかけると、彼女はわずかに首を振った。
そして俯いたまま、消え入りそうな声でこう呟く。
「すまぬが……バスティアン坊や、ステラノーヴァのことを頼まれてくれんかの」
「……わかりました」
王太子は硬い表情で一つ頷いて、揺り椅子の上の伯母に背を向ける。
幼い少女に、先にバルコニーを出るように促し、そして振り返ってこう言った。
「伯母上、私はあなたのことが嫌いだと思っておりました。ですが……そうでもなかったようです」
だが、返事は返ってこなかった。行ってしまえとばかりにひらひらと振る手が見えただけ。
扉を閉じる音が、やけに大きく響き渡った。
どこか幼稚な悪意を感じさせる薄笑い、悪気の欠片もなさげなヴェルヌイユ姫。王太子はそんな彼女のそばへと歩み寄り、表情一つ変えずにこう語り掛ける。
「伯母上、王宮へ戻りましょうか」
すると、彼女は小馬鹿にするように肩をすくめ、揺り椅子を軽く揺らした。
「なんじゃ、雅味を解せぬ男はつまらんぞ。バスティアン坊や。滅多に遠出することなどないのじゃからの。妾はもうしばらくここにおる。ここは良いぞ。空気は澄んで、なにより静かじゃ。正面切って批判も出来ぬくせに、ヒソヒソと陰で妾を娼婦呼ばわりするような連中もここにはおらんのじゃからの」
だが、気だるげに笑うそんな彼女に、王太子は決定的な一言を告げる。
「いくら待っていても、彼は来ませんよ」
途端に彼女はピタリと動きを止めた。
バルコニーの向こう側に一羽の白いカササギが羽を広げ、湖の形をなぞるように飛んでいる。
かすかに響いたその鳴き声が、否が応でもこの場に舞い降りた重苦しい静寂を意識させた。
「そうか……来ぬか。存外意気地のない男じゃのう。一族を根絶やしにされようというのに、仕返しの一つもしに来ぬか。まったくつまらん、つまらんのう」
長い沈黙の末に、彼女はどうにか言葉を紡ぎだす。
言葉は揶揄するようでありながら、その声は潤んで震えている。
「伯母上、もう良いのです。そんな演技は必要ないのです。失礼ながら、伯母上が彼に宛てた手紙を拝見しました」
「…………そうか、見たのか。ははっ、その上で二度もフられた惨めな女を嗤いにきたと、そういう訳じゃったか」
「いいえ、私は伯母上、あなたを笑ったりしません。笑ったりできる訳がありません」
そして、王太子は声を震わせながら告げた。
「彼はもう来れぬのです。彼は、もう……この世にはおりませぬ」
その瞬間、彼女は跳ねるように身を起こした。
まるで雷に打たれたかのような挙動。
彼女が強い衝撃を受けたのは誰の目にも明らかだった。
「う……うそじゃ! う、嘘を吐くな! お主とて言って良いことと悪いことがあるのじゃぞ! 確かに妾の悪戯も度が過ぎたとは思うが、し、仕返しにしてもその嘘は性質が悪過ぎる!」
「嘘ではありません。彼は先王陛下……お爺さまとの約定と、あなたへの想いの間で押しつぶされてしまったのです」
「そんな馬鹿げた話があるものか! 信じぬ! 絶対に信じぬ! 父上は既にこの世におらぬ。約定に何の意味があるというのじゃ! あの方を縛る鎖は公爵家だけではないか!」
「叔母上っ! サヴィニャック公爵がどんな人間であったか、今一度思い出してください。王家と交わした約定を、時が経ったからと反故にするような男ではないことは、あなたが一番ご存じのはずでしょう」
「そんな……そんな、バカな……ことが、い、いやじゃ、い、いや……じゃ」
彼女は力なく背もたれに倒れ込み、揺り椅子が老爺の呻き声のような乾いた音を立てて揺れる。
王太子は、改めて叔母の顔を覗き込んだ。
彼女のその瞳には既に光はなく、表情と呼べるものはもはや何も残っていなかった。
胸の内で膨らんだ感情が大きすぎて、どこからも取り出せずにいる。彼の目にはそう見えた。
なまじ見目が麗しいだけに、絶望という表題をつけた彫像のようでさえある。
生きるために必要な何かが彼女の身体から止めどもなく零れ落ちていくような、そんな錯覚さえ覚えた。
そこにあったのは、あまりにも憐れな弱々しい一人の女の姿であった。
(だが……やらねばならぬ)
彼は、自分の手を握る幼い少女に声を掛ける。
「……シャルロット」
「はい」
「伯母上、彼女の目を見てください。多少、気を落ち着けることもできましょう」
王太子の声がやけに低いのは、声が上擦りそうになるのを必死に堪えているから。
血の繋がった肉親を手に掛ける。その事実が重く重く、彼に圧し掛かっていた。
彼が静かに背を向けると、幼い少女が揺り椅子のひじ掛けに手を掛けて膝立ちになる。
ヴェルヌイユ姫には、もはや考える気力は残っていなかった。
ぼんやりとした頭で、彼女はすぐそばに膝を落とした人物へと目を向ける。
目を閉じたままの幼い少女。
陶器人形のような儚い少女である。
彼女が静かに片目を開くとそこには、不思議な瞳があった。
いや、瞳ではない。ガラス玉。瞼の下にあったのは黒い宝玉。
その内側には星のような光が絶え間なく明滅していた。
(……義眼? 吸い込まれそうな目じゃ)
姫殿下がぼんやりとした頭で、そう思ったのと同時に、
「……今宵、安らかな眠りを」
幼い少女は彼女の頬に口づけるように顔を寄せて、その耳元で囁いた。
それで終わり。
ヴェルヌイユ姫にはこれが一体、何だったのかはわからない。だが、それを考えるだけの気力もない。
背を向け肩を震わせている甥に、それを問いただす気さえ起こらない。
少女が再び瞼を閉じて立ち上がるのと同時に、ぐじっ、と鼻を啜るような湿った音を鳴らして、王太子が振り返る。
「叔母上……もう一度お伺いします。王都に戻られますか?」
王太子がそう問いかけると、彼女はわずかに首を振った。
そして俯いたまま、消え入りそうな声でこう呟く。
「すまぬが……バスティアン坊や、ステラノーヴァのことを頼まれてくれんかの」
「……わかりました」
王太子は硬い表情で一つ頷いて、揺り椅子の上の伯母に背を向ける。
幼い少女に、先にバルコニーを出るように促し、そして振り返ってこう言った。
「伯母上、私はあなたのことが嫌いだと思っておりました。ですが……そうでもなかったようです」
だが、返事は返ってこなかった。行ってしまえとばかりにひらひらと振る手が見えただけ。
扉を閉じる音が、やけに大きく響き渡った。